海を渡ればー悲願のオセアニア 第1話ー | ちょこっと、つぶやいてよろしいでしょうか。

ちょこっと、つぶやいてよろしいでしょうか。

海外生活28年、現地でのオモロ苦労話や、時々する旅話をつぶやいています。

1月中旬、真夏が眩しいニュージーランドです。

 

 

祝 海外生活25周年

 

を勝手に記念し、移住までの道のりをお送りしております(^O^)/

 

弱くて海外生活は無理だと言われていた私の、

語学力もスキルもない私の、

海外移住物語です。

 

初回からはこちら↓をご覧ください。

 

 

2001年11月、韓国留学生活を終え日本に戻り、実家とは別に家があったので私はそこで一人暮らしをしていました。

母が持って来てくれる食事にもあまり手が付けられず、仕事をするわけでもなく、外にも出ない、そんな生活が3か月。

胃が痛いと病院に通う日々です。

 

ある日お医者さんと話している時ふっと気が付きました。

 

私は体が悪いのではなく、

 

心が悪いんだ。

 

 

 

それからカナダに戻る方法を探り始めました。

 

ネットも発達しており、色々な情報が見つかります。

そこにあった「ナーサリービザ」

 

ゆくゆくは介護人として家に住み込み2年ほどするとその家族の推薦で移民申請が出来る。

 

それには6か月の実務経験が必要だというので、通信教育と実務が学べるホームヘルパー講座を見つけ通い始めました。

日本で最後に正社員として勤めていたのは5年以上前の事なので貰える補助金もなくフルで支払わなくてはならず、同じビルにあったテレアポのアルバイトを見つけ5階で講座を受け、4階にある会社に降りて働いて帰るという日々です。

 

講座終了で資格を取り、特別養護老人施設で働き始めました。

 

ただカナダでの引き取り先を見つける手段がありません。

カナダの弁護士さんに相談をしたりしましたが、大変難しくなかなか見つかりません。

 

 

久しぶりに日本で働く。

 

特老での仕事は特に興味があったわけではなく永住権取得の為だけなので6か月の実務経験を積んだら辞め、小さな商社でアルバイトを始めました。

 

思えば私はこんな社会がイヤで海を渡ったのです。

度重なるセクハラや男尊女卑。

 

「海外はすぐ訴えるそうだけど、ここは日本だから裁判しようとか思うなよ」

 

なんやこの部長。

 

 

久しぶりの日本はあの頃と全く変わらず生き苦しく、ビルの隙間から見える空は灰色で街ゆく人に笑顔はありません。

 

 

出よう、

 

出なければ、

 

日本から出なければ。

 

トロント・ナイアガラで働いていたガイド会社は閉鎖しているし、もうすでに2年というワークビザを使ってしまってるのでビザ取得の可能性は低い。

 

事実カナダ最後の年、96年ワーホリの時に一緒に働いていた先輩が戻ってきましたがビザが取れず速攻日本に帰国する事に。

その先輩は私と同じ不法期間がありました。

 

なんとかして、日本から逃げよう。

 

ふと立ち寄った本屋さんで「海外で働く」という本を見つけ買いました。

私には語学力もスキルもなく、もうワーホリが取れる年齢でもありません。

 

それでも私のやりたいことはただひとつ。

 

「現地ガイド」になりたい。

 

この頃は韓国にもよく行き「両親の反対が続くようならオーストラリアに逃げよう」という話もしていた為、そのあたりでガイドの仕事を探し始めました。

 

海外移住など32歳の真っ当な成人女性が見る夢ではない。

 

探すべきは海外への就職先ではなく永久就職先だという事など、はなっから分かっています。

周りを見れば皆家を買い、子供を育て、暖かい家庭を作っています。

そんな事は重々承知です。

 

久しぶりの日本は確かに楽しくもありました。

 

だけど、どうしても

 

生き苦しい

 

 

「海外で働く」という本で見つけたオーストラリアの‘ガイド募集‘広告。

ホームページを見ると大阪でワーキングホリデー者対象の説明会がありました。

もちろん、私はとっくに全世界のワーホリが取れない年齢になっていますが、参加の申し込みをし、小さなビルの中での説明会に行きました。

 

説明会が終わり担当者に声をかけます。

 

「あの、お話があるんですけれど、、、、」

 

 

つづく。