1月上旬、真夏のニュージーランドです。
祝 海外生活25周年
を勝手に記念し、今までの道のりを綴っております。
弱くて海外生活は無理だと言われていた私の、
語学力もスキルもない私の、
海外移住物語です。
初回からはこちら↓をご覧ください。
季節は秋を迎え赤や黄色の落ち葉が通い始めて9か月になる学校のキャンパスを彩っていきます。
今まで3か月毎に学生ビザを更新していましたが、11月23日で終わる3学期を前に韓国政府から「11月30日であなたのビザは無くなります、更新せず滞在した場合は逮捕します」という手紙が届きました。
お金が底をついたのでこれ以上ビザを取得するのは無理です。
私にはやらなければならない事がありました。
たいして韓国語にも興味がなく、ましてや理解できない韓国文化の中で生活を続けて来た理由。
今まで出て来た「付いてきてくれた人」は彼でした。
カナダで出会い将来を共にしようと私は韓国へ嫁ぐつもりで来ていたのです。
月に2,3回は彼の実家に遊びに行き緊張しながらも学校で覚えた韓国語を披露すると褒めてくれたし、アボジ(お父さん)はいつもお小遣いをくれ、オモニ(お母さん)は美味しい料理を作ってくれ、帰りには大量に持たせてくれました。
でも、私の生年月日に問題があり許されはしませんでした。
韓国ではお互いの生年月日で相性を占う文化があり、よくない結果がでたからです。
日本に帰国してからもお互い韓国と日本を行き来しながらなんとか説得する方法を考えてはいました。
何度か家を訪ねたのですが、占いの結果が出た後はずっと会ってはもらえなかったです。
6月、ちょうど日韓ワールドカップが始まった頃、久しぶりに家に入れてもらい話をする事が出来ました。
彼と一緒に「結婚したい」強い意思を示したけれど、オモニ(お母さん)は首を縦に振ることはありませんでした。
彼は私に、その許せない理由を話すオモニの韓国語をどんな気持ちで英語に訳していたのかな。
部屋の中は、占いの結果が出る前まではあんなに楽しくて暖かかった部屋の中は、ただの冷たい白い空間になりました。
「もう、帰った方がいい」と彼のお姉さんに即され立ち上がります。
すると突然オモニが駆け寄り私の手を握りました。
「ミヤネ(ごめんなさい)ミヤネ、ミヤネ、、、、」
オモニが泣いています。
両手で包み込むように私の手を握りながらさすりながら、何度も何度もごめんなさいと繰り返します。
玄関でのろのろと靴を履き振り返ると、門を閉めるアボジ(お父さん)の目から大粒の涙が流れていました。
韓国の男は一生に3度しか泣いてはいけないといいます。
一度目は生まれた時
2度目は親が亡くなった時
3度目は国を失った時。
その韓国の男アボジが泣いている。
手巻き寿司をして、私の好きな具をたっぷり入れて巻いてくれたオモニ。
孫を抱き上げ「孫より俺の方がゆーちゃんが好きなんだぞ」と笑ってくれたアボジ。
二人の涙はとても痛かった。
「アナタがあと1年早くか遅くに生まれていたら、よかったのに」
韓国は最後まで文化を守り続けました、そして、私は最後まで理解できませんでした。
流す涙も、立ち向かう気力ももう残っていませんでした。
私は何をすればよかったのだろう。
2002年のワールドカップ、始まった当初は日本戦の後に罵声を聞く事もあったので韓国に留学していた友人たちは日本に戻ってきていました。
韓国は勝ち進み終わりに近づいた時、市庁舎に「日本の皆さん応援ありがとうございました」の垂れ幕が掲げられたのを、私は日本のスポーツバーで涙を流しながら見ていました。
日本と韓国の間にかけ橋など今後100年経ってもかからない、と思っていたけれど、これから何かが変わっていくのかな。
翌年、メガネの貴公子と涙の女王が冬をひっさげ日本に上陸し韓流ブームが起きた頃、私は日本にも韓国にもいませんでした。
ゴミゴミとした地下道、所かまわず出されている屋台、その隣の花壇では周りも気にせず立小便をするおっさんがいた。
ぶつかっても謝まる人などおらず、エレベーターや電車には突き飛ばされるようにして乗る。
道にはゴミや痰や吸い殻が散乱し、その中をがなるように大声で話しながら人が行き交う。
そういった光景に辟易していたけれど、
愛国家精神の塊で自国文化以外を受け入れずその姿勢を貫く姿は、素晴らしいと思います。
もしあの時、彼だけではなく、韓国もその文化も愛することができたなら、私は、、、、。
つづく。
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