さて、午後からは下記の学芸講座に参加です。
「東アジア海域交流と堺」 講師:関 周一氏(神戸女子大学教授) 「堺環濠都市遺跡出土の国産・輸入陶磁器」
講師:文化財課学芸員
先ずは学芸員の方からの表題展示の説明と、室町から戦国時代にかけての東南アジア・中国から琉球王国経由、堺の交易ルールの説明がありました。
交易ルートには当時2つあり、それらは時の権力者の影響が大でした。一つは細川氏は堺から四国沿岸を通って琉球王国(南海ルート)、もう一つは大内氏は自国の領地である周防から福岡経由の琉球王国行きでした。
現代では船荷を運ぶ時、下の写真のようなコンテナ(Container)に品物を収納して大型船で運ぶます。
しかし室町から戦国にかけての運搬は専ら、木造船で下のような大壷、大甕に品物を入れられて運ばれていました。英語ではこれらの壷のことをContainerって言います。
今回の展示では学芸員さん曰く、このContainerの大壷が見どころとのことでした。
このタイの壷は九州の大分で発見されたそうで、その時、硫黄が入っていたそうです。成分を分析すると大分から産出される硫黄の成分と同じだったとのこと。硫黄は硝石と一緒に火器に使われることから、日本で荷を降ろした後、空の壷に大分の硫黄を入れて海外へ輸出されたか?と推測が出来ます。
この壷はタイではシンブリーの壷と言われていますが、メナーム・ノーイ窯で焼成された壷になります。窯の場所ですが、バンコクからアユータヤを通過してナコンサワンへ行くまでの途中にあります。ナコンサワンのその先は、スコータイです。
時代が後になると、胴から下が尖った形状から、安定型に変わって行くのが分かります。学芸員さんに何故、初期の壷は胴から下が尖っているのかを尋ねると、はっきりとしたことは分からないとのことでした。 私の知るところでは、船内はネズミが多く、ネズミ返の機能を果たしていたと言う説や、当時の船室が状態が悪く、揺れると壺同士が当たって割れるのでしっかりと壷を縛る為に胴より下が尖っている形状になっている説、時代が進み船の構造も大きくなると船内も安定し、壷にも安定感が増したと言う説。色々とタイで聞いて来ました。ただ、そのエヴィデンスが無いのでこれはあくまで仮説となります。
この時代になるとベトナムからの交易も盛んになり、壷の器形の安定感も更に増して行く感じがします。
当時のベトナムは南北であまり関係が良くなかったのか、壷に違いが見えます。上の写真の縄目の跡のようなものがありますが、「縄簾」と言います。 この縄簾がある壷はベトナムの北部からのもので、中部、南部からの壷には「縄簾」は見られません。このことは会の学芸員さんからの説明にもありました。
以下は個人的に凄い!って思ったアイテムです。
マルタバンの壷の破片です。遠くミャンマーからも交易があった? もしくは偶々、ミャンマーの壷が運搬の手段として使われたのか? 定かではないですが、ただ、ミャンマーの壺が日本に到着していたことがビックリです。これを見ると、京都の平安蚤の市で見たマルタバンの壷を買っておけばと後悔ですが、もし買っていたらサイズがデカいので壷を部屋の中心とした生活になっていたことでしょう(笑)
この華南三彩ですが、もし保管状態が良かったらさぞかし綺麗な三彩だったことでしょう。
華南三彩は中国南部淮河以南(広東、広西、海南島など)で焼かれた三彩釉の陶磁器ですが窯跡は未だ発見されていません。推定では福建省界隈かと言われています。 この皿が堺の環濠都市に到着していたとは、この皿は結構脆いので当時の海上輸送の安全性の高さが伺えます。
さて大学の先生の講義が後半にありました。その前に会場に入った時、一抹の嫌な思い出が浮かんで来ました。 椅子の上にA3のコピー紙が分厚く置かれていました。 このパターン、大学の講義のようで案の定、講座は大学の講義のようでした。主催者側からの要望で物だけなく人的な流れも説明して欲しいと言う依頼があったそうなんですが、日本国内の人物の説明だけで、他国との関わりなどの説明が無く、ただの日本史の授業でした。 こうなると場内の皆さんのシエスタが始まります。大体、大学の先生の授業の進め方で一番ダメなのは時間配分の拙さです。最初に説明のこだわってしまい時間が無くなり、最後になると話を疾る傾向にあって、授業終了時には、「資料を読んでおいて下さい」で締め括られます。 このパターン、まさか還暦間近で再び経験するとは!
講習は2時間半の長丁場でした。 講座の終了後、展示室で再度、学芸員さんの説明を拝聴し、さかい利晶の杜を後にしました。
帰る頃には吹雪は去り、晴れていました。