日本の直しの技術は、世界最高峰です。

以下の写真は、大阪市立美術館で今、展示されているアイテムです。

 

 

青花 蓮池文瓶 景徳鎮窯

 

首から上が巧妙に複製されています。遠目では直しの判別は難しいですが、下から覗き込むと頸から口縁までの絵筆のタッチが違うことに気が付くかと思います。上から見ている分には全く、直しとは気が付かないかと思います。

 

 

 

 

白地黒掻落 鳥樹文如意頭形枕 磁州窯系

 

白地の直しって意外に難しいのです。同色を出すには相当のスキルが要ります。磁州窯とは比べ物にならないのですが、ミャンマーの白釉系の直しも、鉛釉であるが故に相当のスキルが要ります。

 

 

色絵 牡丹文大皿 伊万里焼

 

このバラバラ事件をこれ程までに、修復できるとは! 凄いスキルです。しかも分析しながらですから、相当な時間を費やしたのではないかと思います。 

 

次は直しではなく、梱包についてです。

 

 

緑釉白地刻花 束蓮文豆形枕 磁州窯系

 

日本の梱包技術も世界でNo.1です。 この木箱だけなく、芸術品を梱包する技術は日本に並ぶ国は無いかと思います。

 

「文楽」って言う江戸初期の人形(人形浄瑠璃)劇の一座ですが、昔、ご縁があってフランスでの公演の仕事をサポートさせていただける機会を得ました。その際の日通の梱包技術はホンマ、スーパーでした。

 

かくして写真を整理していて少々気になったので、記事にして見ました。

「私たちはみな漢民族だ」

現代の中国に行くと、多くの人々が口を揃えてそう主張します。学校教育やメディアでも、「中国は5000年の歴史を持つ、漢民族を中心とした国である」という物語が当たり前のように語られています。

しかし、歴史を客観的・冷徹に見つめ直したとき、一つの重大な疑問が浮かび上がります。

 

「今、みずからを漢民族と呼んでいる人々は、本当にあの歴史上の漢民族なのだろうか?」

結論から言えば、私は「本物の漢民族(あるいは正統な中華文化)は、1279年の南宋の滅亡(崖山の戦い)の段階で途絶えた」と考えています。それ以降の「漢民族」は、歴史的にも科学的にも、それ以前とは全く異なる「変質した別の集団」なのです。

今回は、なぜ南宋以降は漢民族とは呼べないのか、3つの決定的な根拠から解説します。

 


根拠1:崖山の戦いによる「文化的正統性」の完全なる死

歴史上、中国における「民族」とは、単なる血筋ではなく、周代から始まり唐・宋の時代に洗練された「礼楽(儀礼や音楽)、思想、衣服(漢服)、制度」という文化によって定義されていました。この文化を体現する人々こそが「漢民族(中華)」だったのです。

しかし1279年、南宋はモンゴル帝国(元)との「崖山の戦い」に敗れ、滅亡します。この時、南宋の幼い皇帝を抱いた大臣の陸秀夫をはじめ、10万人もの知識人や官僚、兵士たちが海に身を投げて殉国しました。また生き残った兵士も元寇に投入されて台風で殲滅されました。

歴史思想において「崖山以降無中華(崖山の戦い以降、中華はなし)」と言われる由縁です。

これ以降、中国本土はモンゴル族(元)や満洲族(清)といった異民族に完全に支配されました。言語は北方方言へと変容し、衣服は奪われ、髪型は辮髪(べんぱつ)を強制されました。宋代までに完成された「純粋な中華のDNA(文化)」は、この瞬間に地上から完全に消滅したのです。

 

 

根拠2:異民族の流入による「DNAの非連続性」

 

「南宋が滅びても、庶民の血(DNA)は地続きで残ったのではないか」という反論があるかもしれません。しかし、生物学的な観点から見ても、南宋以前とそれ以降では大きな断絶があります。

南宋までの漢民族は、数千年におよぶ黄河・長江流域の農耕生活の中で、ある一定の遺伝的バランス(プール)を維持していました。しかし南宋滅亡後、元代、そして特に清代の約300年間において、大規模な戦乱、虐殺、そして異民族との強制的な移住や混血が繰り返されました。度重なる人口の激減と、北方・周辺民族の遺伝子の絶え間ない流入により、集団としてのDNAの配合は決定的に書き換わってしまったのです。

 

南宋までのDNA構成を「漢民族の基準」と厳格に定義するならば、元代以降の人々は遺伝学的に別の配合になった「似て非なる新しい集団」であり、これを同じ漢民族と呼ぶのは科学的な欺瞞にほかなりません。

 

根拠3:現代の「漢民族」は20世紀に作られた政治的創作物

では、なぜ現代の中国人はあれほど強く「自分たちは漢民族だ」と主張するのでしょうか?

実は、現代の彼らが持っている一体感は、古代から続いてきたものではありません。20世紀初頭(1900年代)に、孫文ら革命家たちが政治的目的のために都合よく作り出した「フィクション(想像の共同体)」なのです。

当時、清朝(満洲族の政権)を倒すために、革命家たちは「野蛮な満洲族を追い出し、漢民族の国を作ろう!」というスローガン(反満興漢)を掲げ、大衆の民族意識を人工的に煽りました。

さらに清朝が滅亡した後は、満洲、モンゴル、チベット、ウイグルといった広大な領土を中国から独立させないために、今度は「56の民族はみんな一族(中華民族)であり、その核となるのが漢民族だ」という新しい物語を国策として刷り込みました。

 

つまり、彼らが言う「漢民族」とは、歴史的・生物学的な実体を伴ったものではなく、「多民族国家を1つにまとめるための政治的な記号」に過ぎないのです。

 


結論:私たちが目撃しているのは「別の何か」である

歴史のレールを正しく辿れば、宋代までに洗練された「本物の漢民族」は、モンゴルと満洲族の征服によって完全に変質し、南宋の終焉とともにその歴史に幕を閉じました。

現代の中国人が語る「漢民族物語」は、近代の政治によって塗り固められた都合の良い神話です。

彼らの主張に惑わされることなく、「南宋以降、漢民族は途絶えた」という冷徹な事実を受け入れたとき、初めて私たちは現代の中国という国が抱える「民族問題」や「アイデンティティの歪み」の本質を、正しく理解することができるのではないでしょうか。

今日は午後2時から表題の講座が大阪市立美術館でありました。

 

その前にランチを何処でするか? 以前にも紹介した、なんば ウォークに天亭って言う天丼屋さんで上天丼を食べることにしました。

 

 

 
揚げたての天丼を食べることが出来ます。 赤出しが付いて750円はお得感満点です。 時間の制約がある時、天丼ってささっと食べれるのが良いですね!?
 

 

 

 

 

さて今日の講座ですが、美術館のホームページには何のレクチャーか書いていなかったので、

               ↓

 

行って見てのお楽しみ状態でした。 

 

 

13時半から整理券を配布されると言うことで、会場の入り口辺りで配布を待っていたら、係の方が私の前で「2列に並んで下さい」って言うんで一番の整理券を貰っちゃいました。 先に来られた方、ごめんなさい。

 

そして会場に着席して目の前のパワーポイントを目の当たりにしてレクチャーがお伽草子絵巻の説明と分かりました。 私には場違いでした(笑)

 

講座では以下、3つの絵巻の説明・解読がありました。

 

犬寺縁起絵巻 上下巻のうち下巻  江戸時代・17世紀

 

これぞ今は昔で、不倫から殺人未遂、そして新たな奥さんと出会えてHappy Endと言うお話です。

 

絵の上座に座っている人が「牧夫」と言う人で、彼が留守中に彼の奥さんと重臣の「松見」が出来ちゃって、ここから現代でも良くある話で、「松見」が「牧夫」を狩に連れ出し、人気の無いところで「松見」が「牧夫」を矢を射ようとしたところ、絵の右にいる2匹の犬に助けられました。 「松見」は逆に殺され、「牧夫」は無事帰宅。 奥さんは当然、追い出されました。 その後、この2匹の犬が老衰で死んじゃったものの、一方では後妻と子宝に恵まれ、「牧夫」は犬の為に寺を建立、千手観音像を寄進。 故にこの絵巻のタイトルが犬寺縁起絵巻となりました。

 

十二類歌合戦絵 江戸時代

 

レクチャーでは十二類合戦絵巻と題されていましたが、タヌキの「ああ、無常物語」です。

 

薬師十二神将の使いであり十二支の動物たちの歌合せがあり、たぬきが審判を務めることを告げると、残りの十二支の動物たちに馬鹿にされ、ボコボコにされました。タヌキが復讐を試みたのですが、残りの十二支の動物たちの方が一枚上手で、タヌキの負け! 人でも報われない人は、とことん報われないって言うこの世の無常を語ったお話です。

 

 

百鬼夜行絵巻 原在中 筆 江戸時代・18~19世紀

 

本来、お伽草子って絵があって説明が追記されるのが常なんだそうですが、この百鬼夜行絵巻は絵だけで説明が無いと言う、研究者泣かせの絵巻なんだそうです。 説明が無いので、何を語りたいのかは、見る側の想像に委ねられるそうです。 私的にはゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪のオンパレードに見えました。

 

 

私の興味以外のレクチャーに参加しましたが、久しぶりに紙芝居を見た感じで、中々面白かったです。 私らが小学生の時、今から考えると絶対に身体に良くないと思われる赤色の着色料を水飴に混ぜ混ぜしたものを食べながら、校門前で紙芝居を見たことを思い出しました。絵巻物語って高尚な語りもあれば、週刊文春のような絵巻物語もあり、そう考えると人間って進歩が無いと思いました。
 
 

今日は、藤田美術館で行われた表題の学芸講座に参加して来ました。

 

 
日本は島国であるが故に、古今東西、海上ルートによる陶磁器の交易は欠かせないものでした。概ねは中国、韓国からのですが、オランダから喜望峰を通って日本へやって来た陶磁器もありました。
 
今日の講座を拝聴し、高校の歴史の本にある固有名詞が多々、出て来ました。陶磁器、骨董を扱う上では高校の教科書は必須です。中国を中心に陶磁器の歴史を振り返ると
 
  • 唐代(7世紀〜9世紀) 唐三彩、越州窯
日本は本格的には平安時代からかと思われます。唐三彩となると奈良時代まで遡るかと思います。 平安時代の交易のキーは平氏、平清盛になります。神戸の福原に港を作っての交易は有名で、沢山の陶磁器が福原から都へもたらされました。
中国の陶磁器の総称を唐物(からもの)とされていますが、この唐物の唐(から)は中国の唐時代の唐(とう)から来ています。
 
平安から鎌倉時代の僧で栄西と言う禅宗(臨済宗)のお坊さんがおられましたが、その栄西が喫茶の習慣を日本に伝えたとされています。故に、茶道で使う茶碗も中国から輸入された天目茶碗が人気でした。当時の中国は煎茶が流行っていて、厚手の天目茶碗よりも薄手の茶碗が好まれていました。故に日本に持ち込まれた天目茶碗は殆どが中古、売れ残りだったそうです。
 
  • 大量輸出とアジア内での全盛期 宋、元代 (10世紀から14世紀)景徳鎮窯、龍泉窯、
この時期の日本は鎌倉時代から室町時代にかけてとなります。今日の講義にも説明がありましたが、鎌倉幕府からは北条時宗、北条貞顕、室町幕府からは足利義満、足利義政が陶磁器の交易に対し密接にかかわりました。
 
  • ヨーロッパへの拡大と大航海時代 明・清代(15世紀〜18世紀)
17世紀以降、欧州では磁器の技術が無く、専ら、中国の景徳鎮と日本の伊万里が鎬を削っての交易戦争をしていました。その時に活躍したのが東インド会社(VOC)です。その後、実際に欧州で磁器の開発が進んだのはドイツのマイセンからでした。
 
 
最後に、景徳鎮窯の別名が饒玉(じょうぎょく)窯と称されることをこの講座で知りました。家に帰って調べると北宋時代に景徳鎮の地は饒州に属していたそうで、影青が焼成されていたそうです。その他に
 
昌南鎮窯(しょうなんちんよう) 北宋の景徳年間(1004年〜1007年)に景徳鎮に改称される前の古い地名・呼称で唐代から五代にかけては昌南鎮と呼ばれていました。
 
新平(しんぺい)  昌南鎮と呼ばれていた以前、漢代、晋代の古い地名
 
饒玉は製品・土地の雅称、美称で、その他に、磁都(じと)、ホタル焼などと呼ばれていたそうです。
 
 
初心者向けの講座ではあるのですが、ちょこちょこと学びの得れるものがあるのが嬉しいもんです。
 
 

 

北野天満宮でハンティングしたオルゴールが、直って帰って来ました。



どうも油が切れてを起こしていたようでした。



修理代もそこそこの金額で収まり、めでたし、めでたし!

 

実はこのオルゴールですが、家内の伯母さんのところへ旅立つことになりました。 家内が救わなければ、露天商の荷物の中で荒らしく扱われていたことでしょう。 次のところで人を癒してくれることを祈ります。

 

 

とうとう出ましたね、ジェット燃料の枯渇予想!

たぶん、業界経験者から言わせてもらうと、これ、的を得たデーターかと思います。 

 

 

 

しかし、自民党はカルビーが事実を言ったことに対して、ヒアリングする⇒政府が大丈夫だって言うているの何ちゅうこと言うんや!って言う、言論統制をやり始めました。

 

 

自民党がやっていることは、大政翼賛会です。 私も今は製造業にいますが、ホンマ、良い情報が無いです。むしろ、「状況が分からない」って言う仕入先さんの方が多いです。今回のカルビーの発表は、製造業を代表して言うてくれたと思います。感謝です。政府はナフサを確保したって言うが、どれくらい確保したか?は説明していない。 

 

これから政府の意の沿わない発表は、ヒアリングと言う名前で粛清が始まるでしょう。 あ~~~怖!

 

2012年からもう14年も経ったのですね!? 昨年に仏像が戻ったと言う報道があり、今年の7月に、九州国立博物館で拝顔出来るそうです。韓国に盗まれる前にあった宝冠は壊されていたとのこと。宝冠は仏像が渡来して来た時に作られたもので、仏像の年代が高麗時代・天暦3年(1330年)になることから相当の歴史的価値があったはずです。いまだに国を一つにも出来ない歴史音痴の韓国人のことだから感情的に「イルボンヌの作ったものは壊してしまえ」とか言うて、壊しちゃったんでしょうね?! ホンマ、民度が低いです。

 

しかし、この記事ですがもうちょっと早く知りたかったものです。6月末に東京へハンティングしにくことになって切符も買っちゃったのに〜〜〜〜 

今日も良い天気でした! 初夏ですね〜〜〜 




日陰だとちょっと肌寒く感じましたが、陽射しの下ではポロシャツで十分でした。こう言う時期の骨董ハンティングは戦果無くとも気持ちが晴れて最高です。




四天王寺を後にし、梅田で家内と合流。Godivaでショコリキサーを注文! 私が働いている堺って、だんじりの馬鹿騒ぎ以外、ホンマ、何にも無いところで、つい最近、スタバが出来たぐらいの過疎地です。時間が止まっているエリアにいるので、社会的なアップデートは必要です。

 

この後、老松へ向かいました。

 

昨日、気になったラオスのランチャーンの仏像をもう一度、見に行きました。って言うか、去年お骨董祭でも、見てはいたのですが。。。 でも、やっぱり、ご縁は無かったのでした。

 

老松を去ろうと思った時、家内が印版手をメインに売っておられるお店を発見しました。このお店、雑居ビルの2階にあり、その入り口も分かり難いんです。良く見つけたもんです。お店では結構、店主さんと話が盛り上がり、その会話で書籍の中にある陸軍第三師団の絵柄と同手の印版手の皿とても惹かれました。 



専門外でもあり購入までは至らなかったのでした、最近、見たくもないのにNHK大河ドラマの歴史に対する事実無根の冒涜をインスタのCMで視覚レイプされると、こう言った生きた歴史の遺物を大事にせなあかんと思うのです。ちょっと勉強して、もしご縁があれば買ってみようと思います。

 

遅めのランチになりましたが、前回行った淀屋橋のステーション・ワンにある「梅梅」に行きました。








名物の大きな餃子ですが、これ、マジ、やばい! もう、お腹がいっぱいになっちゃって、晩御飯が不要となりました。胸焼けしまくって喉が乾いって、今、中国茶で整腸中です。 美味しいんですが、「もう若い人とは違うんや」と己の老いを感じました。 ブログを今、書き終えましたが、まだ、お腹がいっぱいです!

 

朝からお勉強しに東洋陶磁美術館へ!

 

肥後橋から土佐堀川に沿った遊歩道を歩いて、淀屋橋経由東洋陶磁美術館へ向かう途中、薔薇が綺麗に咲いていました。

 

 

 

 

 

 

薔薇の香りが激しく漂っていました。人混みの中之島公園の薔薇園より、静かに薔薇を堪能出来たのは良いんですが、危うく遅刻しそうになりました。

 

 

伊万里はズブの素人! 鍋島、伊万里、有田、柿右衛門の定義や時代背景が良く学べました。

 

以下は講義でアップされたパワーポイントを思い出しながら、AIに作ってもらいました。

 

 
こう見ると、それぞれのワードの定義が分かります。
鍋島は地方官窯と説明を受けて、伊万里の絶対的な位置付けなんだと思いました。因みに伊万里焼の由縁は、伊万里港から陶磁器を搬出したことから伊万里焼と名付けられたそうです。
 
以下も講習で使われていたパワーポイントを思い出しながら、伊万里の歴年をAIに作ってもらいました。
 
  • 初期伊万里(1610年代〜1640年代頃)
    • 特徴:日本最古の磁器。白地に藍色(呉須)一色で描かれた「染付」が中心。
    • 見分け方:素焼きをせずに釉薬をかけて焼くため、全体的に厚手で歪みがあり、底(畳付)に窯床の砂が付着していることが多い。
  • 前期伊万里・祥瑞様式(1640年代〜1650年代頃)
    • 特徴:中国の技法を導入し、日本初の色絵磁器(赤絵)が誕生。
    • 見分け方:素焼きの技術が導入され、皿の形が徐々に薄く均一に進化。
  • 盛期伊万里(1660年代〜1710年代頃)
    • 特徴:ヨーロッパへの大量輸出が始まった伊万里焼の最盛期。
    • 柿右衛門様式:乳白色の素地(濁手)に、余白を活かした明るい色絵が特徴。
    • 金襴手(きんらんで)様式:染付と色絵に、金彩をふんだんにあしらった豪華絢爛な様式。
  • 後期伊万里(1720年代〜1860年代頃)
    • 特徴:ヨーロッパの自国製磁器の台頭などにより公式輸出が終了(1757年)。国内向けの日常雑器や、高級な手塩皿などが大量生産される。
  • 近代伊万里(1860年代・明治時代以降〜現代)
    • 特徴:廃藩置県を経て、民間企業や現代の窯元へと技術が継承。これ以降に生産されたものが現代でいう「伊万里焼」に該当。 
欧州向けの輸出は、中国の景徳鎮と激しい販売競争があったそうです。最終的に日本の方が値段が高いことで競争に負けた可能性があるとのこと。
 
我々が知るMade in Japanと言うワードは品質が高いの商標で🟰値段が高い。これは伊万里が由縁と昔、取引先の方から聞いたことがあります。しかし、景徳鎮のように安くて品質の良いモノが出て来て競争に負ける構図は今は昔、徒然なるものです。ウチの会社なんか、まだ、Made in Japanとか言うてますし、商工会議所ですら、Made in Japan を販促するとか言うてますから、そりゃ、日本が国際競争に勝てない理由が分かります。
 
小林先生の説明は、いつも分かりやすく、眠くならないと思っていたら、隣のオジサン、寝てました(笑)
 
さて講習が終わり、老松骨董祭へ向かいました。とりあえず一巡して、ランチは毎度お馴染みの衣笠のカツ丼を食べました。

 

 

物価高騰で当然ながら、1,000円の大台となりましたが、それでも老松に来たら衣笠のカツ丼を食べないと来た気になれません。

 

 

お店のお婆さんが帰りがけ、懐かしいパイン飴をくれました。お茶の有無や室内温度とか、色々と気を使ってくれはる優しいお婆さん! いつまでもお元気でおられると良いなぁ〜 

 

戦果はゼロですが、気なる仏像がありました。以前から売れず、案の定、今回、再会出来ましたが、中々、良い値段で思案中です。

 

明日は、四天王寺の骨董市へ行きます。今日、骨董屋さんと話をしてましたが、「最近の四天王寺の骨董市は侮れない、偶に、良いモノが落ちてる」と言う意見をシェアしました。

最近知ったのですが、奈良国立博物館の仏像館が2026年9月14日 ~ 2028年春頃まで改築で休館になるとか? 仏像館には青銅コレクションもあるので、暫く、はさみしくなります。

 

一方で、写真OKの仏像も多くなりました。 以下は今回、私的に初見の仏像の其々になります。

 

 

 

 

興福寺伝来の四天王像の1体です。四天王のひとりである広目天立像(こうもくてんりゅうぞう)です平安時代から鎌倉時代(12〜13世紀)に制作されました。一木造(いちぼくづくり)の力強い像で、重要文化財に指定されています。

 

 

元興寺(がんごうじ)に伝わる国宝「薬師如来立像」です平安時代前期(9世紀)の制作で、カヤの一木造りで作られていますかつて元興寺の五重塔に安置されていた本尊です。
 

 

 

こちらは初見ではないのですが、私が好きな数ある仏様の1体です。この仏像は奈良県の金龍寺に伝わる「伝聖観音菩薩立像」とのこと。飛鳥時代(7世紀)の作とされる木造の仏像で、重要文化財に指定されています。特徴として、面長な顔の割に眼や鼻が下方に配されており、童女のようなあどけない表情をしています。

 

 

最後は、「銅造 勢至菩薩立像」です13世紀から14世紀頃、鎌倉時代に制作された銅製の像です。長野県・善光寺に伝わる阿弥陀三尊像の姿を模した「善光寺式阿弥陀三尊」の脇侍像として知られています。冠の中央に水瓶(すいびょう)が表されているため、勢至菩薩であると識別されます。

 

私はタイ、ミャンマーの仏像を蒐集していますが、とりわけミャンマーと日本は仏像のお顔が童顔でホンマ、よく似ていると感じます。小乗、大乗と仏教の区分は違えど、人の心に写る仏様は、どこか似通って惹かれるものがあるようです。