「私たちはみな漢民族だ」
現代の中国に行くと、多くの人々が口を揃えてそう主張します。学校教育やメディアでも、「中国は5000年の歴史を持つ、漢民族を中心とした国である」という物語が当たり前のように語られています。
しかし、歴史を客観的・冷徹に見つめ直したとき、一つの重大な疑問が浮かび上がります。
「今、みずからを漢民族と呼んでいる人々は、本当にあの歴史上の漢民族なのだろうか?」
結論から言えば、私は「本物の漢民族(あるいは正統な中華文化)は、1279年の南宋の滅亡(崖山の戦い)の段階で途絶えた」と考えています。それ以降の「漢民族」は、歴史的にも科学的にも、それ以前とは全く異なる「変質した別の集団」なのです。
今回は、なぜ南宋以降は漢民族とは呼べないのか、3つの決定的な根拠から解説します。
根拠1:崖山の戦いによる「文化的正統性」の完全なる死
歴史上、中国における「民族」とは、単なる血筋ではなく、周代から始まり唐・宋の時代に洗練された「礼楽(儀礼や音楽)、思想、衣服(漢服)、制度」という文化によって定義されていました。この文化を体現する人々こそが「漢民族(中華)」だったのです。
しかし1279年、南宋はモンゴル帝国(元)との「崖山の戦い」に敗れ、滅亡します。この時、南宋の幼い皇帝を抱いた大臣の陸秀夫をはじめ、10万人もの知識人や官僚、兵士たちが海に身を投げて殉国しました。また生き残った兵士も元寇に投入されて台風で殲滅されました。
歴史思想において「崖山以降無中華(崖山の戦い以降、中華はなし)」と言われる由縁です。
これ以降、中国本土はモンゴル族(元)や満洲族(清)といった異民族に完全に支配されました。言語は北方方言へと変容し、衣服は奪われ、髪型は辮髪(べんぱつ)を強制されました。宋代までに完成された「純粋な中華のDNA(文化)」は、この瞬間に地上から完全に消滅したのです。
根拠2:異民族の流入による「DNAの非連続性」
「南宋が滅びても、庶民の血(DNA)は地続きで残ったのではないか」という反論があるかもしれません。しかし、生物学的な観点から見ても、南宋以前とそれ以降では大きな断絶があります。
南宋までの漢民族は、数千年におよぶ黄河・長江流域の農耕生活の中で、ある一定の遺伝的バランス(プール)を維持していました。しかし南宋滅亡後、元代、そして特に清代の約300年間において、大規模な戦乱、虐殺、そして異民族との強制的な移住や混血が繰り返されました。度重なる人口の激減と、北方・周辺民族の遺伝子の絶え間ない流入により、集団としてのDNAの配合は決定的に書き換わってしまったのです。
南宋までのDNA構成を「漢民族の基準」と厳格に定義するならば、元代以降の人々は遺伝学的に別の配合になった「似て非なる新しい集団」であり、これを同じ漢民族と呼ぶのは科学的な欺瞞にほかなりません。
根拠3:現代の「漢民族」は20世紀に作られた政治的創作物
では、なぜ現代の中国人はあれほど強く「自分たちは漢民族だ」と主張するのでしょうか?
実は、現代の彼らが持っている一体感は、古代から続いてきたものではありません。20世紀初頭(1900年代)に、孫文ら革命家たちが政治的目的のために都合よく作り出した「フィクション(想像の共同体)」なのです。
当時、清朝(満洲族の政権)を倒すために、革命家たちは「野蛮な満洲族を追い出し、漢民族の国を作ろう!」というスローガン(反満興漢)を掲げ、大衆の民族意識を人工的に煽りました。
さらに清朝が滅亡した後は、満洲、モンゴル、チベット、ウイグルといった広大な領土を中国から独立させないために、今度は「56の民族はみんな一族(中華民族)であり、その核となるのが漢民族だ」という新しい物語を国策として刷り込みました。
つまり、彼らが言う「漢民族」とは、歴史的・生物学的な実体を伴ったものではなく、「多民族国家を1つにまとめるための政治的な記号」に過ぎないのです。
結論:私たちが目撃しているのは「別の何か」である
歴史のレールを正しく辿れば、宋代までに洗練された「本物の漢民族」は、モンゴルと満洲族の征服によって完全に変質し、南宋の終焉とともにその歴史に幕を閉じました。
現代の中国人が語る「漢民族物語」は、近代の政治によって塗り固められた都合の良い神話です。
彼らの主張に惑わされることなく、「南宋以降、漢民族は途絶えた」という冷徹な事実を受け入れたとき、初めて私たちは現代の中国という国が抱える「民族問題」や「アイデンティティの歪み」の本質を、正しく理解することができるのではないでしょうか。