【この処置をされた行政担当者様にお願い申し上げます。】

下は中尾吉孝さんのフェイスブック記事です。
どうぶつ関係に限らず、何らかの問題への行政の対処の仕方は、公正でなくては問題そのものも社会も歪めてしまうと思います。
特にどうぶつに関係することは、どうぶつ自身が何も言わず、人間の側の力のある者や数の多い者の都合のままの処置が通り易いですから、行政こそ、根本を広く公正に見て対処することが必要ではないかと思うのです。

どうか、猫たちの生きる策を懸命に探っておられるボランティアの方々の努力、誠意を偏りなく見て、こうした看板の処置が適正なものであるか、今一度お考えいただきたく存じます。
ボランティアの方々は、充分に住民の皆さんの都合や思いも理解し、受け入れて活動されているのでしょう。尚話し合うべき必要があるなら、ボランティアの皆さんは喜んで誠実応じられるでしょう。
そうしたことも視野に入れて、どうするのがいいか考えていただきたいのです。

行政の側としては、住民の皆様の希望に添うことは大切と思います。それはよく理解できます。
ですが、そこに公正を欠いてはどうでしょう。弾圧になりかねないこともあるのではないでしょうか。また、こどもたちへの教育にどう影響するのだろうかと憂いも生じます。

ぼくらの町は、どうぶつを大切にするよ、と思うのと、わたしたちの町の大人は、どうぶつとどうぶつを守ろうとする人を追っ払うんだよ、それでいいんだよ、と思って育つのとどちらがいいでしょう。・・・・・・この思いは、原発事故以後のどうぶつ施策に対してもずうっと感じてきたものです。

社会に、”人とどうぶつたちが、普通にそれぞれに生きられる道”が築かれることを、あらためて行政にお願いします。


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↓中尾吉孝さんの記事(読み易くするために行変え等しましたが、文章は原文のまま)

私がUPしました写真は2枚のみですが、中尾 吉孝 さんは写真10枚公開されています。

みなさんは、どう感じますか?

大阪市北区の黒崎公園。どこにでもある小さな(40m×60mぐらい)児童公園。繁華街に隣接しているので、以前はたくさんの野良猫がいました。猫ボラAさんが一所懸命にTNRして、いまでは4匹(もちろん避妊・虚勢手術済み)が暮らしているだけです。もちろん、公園のお掃除や後始末もしっかりとしていました。


そのAさんが、先ごろ入院されたのですが、幸いAさんに協力しようという人や他の猫ボラさんが応援に入ったりと以前と変わらぬクオリティーで猫たちのお世話をしてくれています。
そんななか、大阪市北部方面公園事務所はこの小さな公園に写真の立て看板8基を立てたのです。


その標記の仕方やその数、その上赤いガムテープで縁取りまでしています。近隣から何か苦情が出たのでしょうが、この看板群は明らかに異常ではないでしょうか。


大阪市は公園猫サポーター制度をつくって猫ボラさんと協力して公園の野良猫対策していこうと言っていたはずなのに、これでは地域にしかっりと貢献されている猫ボラさんをも排除しようとしているとしか思えません。しかも、この小さな公園に8基...も立て看板を設置すれば景観は台無し、いやそれ以上に利用者は異様な雰囲気を感じてしまうでしょう。

最後の写真には、この範囲だけで4基の看板がたっています。

みなさんの、感想を是非とも大阪市のホームページに投稿してください。そして、バカげた看板の撤去を要請していただければ幸いです。

http://www.city.osaka.lg.jp/  HPの「市民の声」より投稿できます。








追悼の森
どんなに愛しくても、いかに守ろうと心を砕いても別れはやってきた。

突然に、あるいは無残に、その日を迎えたこともあった。

でも、みんなの生命と生きた時間は、真実輝いていたよ。だって、だれも生きるために生まれたのだもの。

しばしば身勝手な人々の心無い言動に傷付き、疲労にとらわれ、自信を失い、打ちひしがれ、心が蝕まれたこともあったよ。


だけどもう、そんな悔恨に陥るのはやめる。


私もまた、現実の過酷と懸命に闘い、私のもとにきたみんなとともに生きようと、本当に必死で頑張ってきたのだから。

今はただ、私の近くで生きてくれた忘れえぬみんなに、感謝と哀悼の想いをこめて心からありがとう! と鎮魂の祈りを。

そして、叶うなら、再会を・・・・・・。


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平九郎くん ジロー 安らかに・・・・・

http://ameblo.jp/naze311/entry-11930340711.html より)






ジローは3月10日、井出さんちの平九郎くんは3月30日に永眠しました。
闘病の時期が一緒だったこともあって、ジローと平九郎くんが、春の天の原で出会い、ともに駆けているような気がしてなりません。
きっとそうにちがいありません。


私たちにかけがえのない幸せをもたらしてくれて、そして天に戻ったジローと平九郎くんに、心からの感謝をこめてこのページを捧げます。

   この花束は、ジローの死を悼んで、井出さんが送って下さったものです。
4月2日の現在も、白い小菊のような花は咲いています。
はからずも、平九郎くんの旅立ちを送る花となりました。






元気だった頃の平九郎くん  
当サイトのトホホな写真館ー素敵なお客様より






井出裕子さんからのメールを、お許しをいただいてここに載せさせていただきました。平九郎くんの凛とした最後の様子と、井出さんの悲しみ寂しさに胸がいっぱいになります。

28日お昼から涎が出て、おかしいかなあ?と思っていましたが、夕方ご飯を食べなくなり、夜遅く診察を受けました。私が「おしっこがよく出ないで困っているようだ、」と言ったので膀胱洗浄をして貰い、少し熱もあったので抗生剤を注射して貰いました。その時は少し便が出たようです。翌朝、前の日の食事を全部吐いていました。
その後、軟便が少しで後は水用便に代わって午後に又食べ物をはきました。血液検査のため、病院に連れていきましたがあまり行きたくないようでした。

検査の結果は「それほど危険では無い、」と言われましたが、その後点滴を受ける頃には相当疲れているようでした。3人がかりで車に乗せて貰って帰りました。その夜、血液の混じった物をいっぱい吐きました。その時も困った顔をして立っていました。

心配でしたが休みました。

夜中に少し音がすると「あ、平が動いているな、」と思いました。

朝5時から起きて様子を見ました。少し又血の混じった物を吐いたようなので顔を良く拭いてやるときれいないい顔に成りました。お尻からも汚物が出ていました。

お手をしたがると思ったのでずっと手を握っていました。夫が起きてきて声を掛けると起きておしっこに行くつもりになります。
ああ、外で用を足したかったのかと、分かりました。2回二人で立たそうとしましたがもう、後ろ足が立ちませんでした。時々、目が上に行きます。意識が遠のいたりしていたのでしょう。

「平ちゃん」と声を掛けるとこちらを見ました。

食事をして来て見てみると口から黄色涎が出ていました。敷いていた紙おむつを取り替えているとおかしくなりました。

大声で夫を呼んで、私は恐くて背中をなでました。ほんの一瞬苦しそうに吐いて痙攣して死んでしまいました。

子供二人は間に合いませんでした。何度もメールで早く来てと打ちました。

その後ペット霊園で火葬にして貰い4人で骨を拾いました。お骨は畑のしだれ桜の下に埋めることに決めました。

きっと苦しかったのでしょうが、死に顔はとっても穏やかで体も太っていたしまるで寝ているようでした。

焼いてしまうのがとっても可哀想でした。

可愛い可愛い平九郎がお骨に成ってしまいました。


井出 裕子


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在りし日のジロー 今の猫たちを見ている


≪3月8日の日記より≫

(略)

今日、そのバカ力のマリを一匹だけ連れて、近くの森のなかの道を歩いていた。
道端でマリが立ち止まってあたりに関心を寄せるのにまかせて、私は森の笹薮のあたりをぼんやりと眺めていた。


すると西の方から走ってきた車が、私の背後を通りすぎて直ぐに止まった気配がした。(道でも尋ねられるのかしらん?)と車を振り向くと、近所の知ってる主婦の方が降りてきた。そして私に、「何かあったのですか?」と言われた。

心配そうな表情である。逆に私は、「え、どうして?」と訊いた。
そして、私が元気がないように見えて心配してくださったのだとわかった。


(そうか・・・、気持ちというのは、背中に現れるのだ・・・)
と思った。実は私はこの時、笹薮の茂みを眺めながら、今重篤な状態にあるジローのことを思っていたのだった。


ジローとその兄弟の四匹、計五匹はこの笹薮の森に大きなダンボール箱とともに捨てられていた。二年半前の秋の中だ。
私が見つけてエプロンにくるんで家に連れ帰った時、四匹だった。そのあと道で行き会った近所の人に話したら、「ああ、あれね。昨日、どこかのおじいさんが、自転車でダンボールのせてきて置いていったのを、うちの主人が見たのよ。あとでその箱をのぞきに行ったら、五匹仔犬が入っていたそうよ」と話をされた。


「え? 五匹? じゃ、あと一匹あそこに残っているんだ・・・・」
私はその後、また笹薮の森に行って、「コイヌコイヌ・・・」と呼んだ。

し~んとしている。ああ、いないのだ、どこかに自分で行ってしまったのだろうか、あの小ささでは自分で生き抜くことはできない・・・と悄然となって帰りかけた時、ザザと藪がなった。

その微かな音は、こわくて息をひそめていたものが、「帰らないで! ぼくを見つけて!」という必死の叫びだ

とすぐにわかった。私は呼びつづけ待った。笹薮に踏み込んだらもっと怖がって奥に逃げてしまう。そうなったら探し出せない。だから呼んで待ちつづけた。


そうして、やっと笹薮の茂みからぶるぶる震えながら顔を出した小さな茶色の仔犬。・・・この子がジローであった。


そのジローが今、瀕死の息である。
親が必要なときに親からはなされ森に捨てられ、あれからたった二年半だ。人間の年でいえば、青春真っ盛りの若さである。
若い死は、人間であれ犬であれ誰であれむごく悲しい。
ジローが重い症状を見せるまで気づかなかった悔いと詫びる気持ちの深さは現わす言葉を見つけられない。


私はこの日、ジローとはじめて出会った日のことや、あの小さな震えを思い起こしていたのだ。
その思いが、私をいかにも頼りなげにしていて、思わず車をとめて声をかけずにいられなかった、その若い主婦の方の気持ちにずいぶんと慰められた。


私はマリのあとをついて歩きながら、だらしなくべしょべしょ
と泣いてしまった。





追悼の森
(
2005年 ホームページサイトより)


どんなに愛しくても、いかに守ろうと心を砕いても別れはやってきた。
突然に、あるいは無残に、その日を迎えたこともあった。
でも、みんなの生命と生きた時間は、真実輝いていたよ。だって、だれも生きるために生まれたのだもの。

しばしば身勝手な人々の心無い言動に傷付き、疲労にとらわれ、自信を失い、打ちひしがれ、心が蝕まれたこともあったよ。
だけどもう、そんな悔恨に陥るのはやめる。
私もまた、現実の過酷と懸命に闘い、私のもとにきたみんなとともに生きようと、本当に必死で頑張ってきたのだから。

今はただ、私の近くで生きてくれた忘れえぬみんなに、感謝と哀悼の想いをこめて心からありがとう! と鎮魂の祈りを。

そして、叶うなら、再会を・・・・・・。





シロ
18年を生き抜き
19年目の秋
10月21日に旅立つ
愛らしい容姿で多くの
人たちから愛された

皆さん、本当にありがとう
ございました。


井出裕子さんより贈られた
白百合のもとで

シロ 日記より 2002年10月24日

シロを引き取った1985年、あの子はもう大人の犬になっていた。
事情があって私の家にきた。シロは真っ白で愛らしい容貌をしていて、誰にも可愛い可愛いと誉めそやされる犬だったが、私には大変な手のかかる厄介犬だった。ロープでつなぐとキャンキャンと鳴きたて、それでは庭の柵を高くして庭に放しておくと、柵の下を掘って脱走した。


一日に三度散歩をしてやってもそうであった。脱走してうろうろしていた所で保健所に連絡され、保健所から散々注意をうけたこともある。


(シロは前の飼い主に放し飼いにされていたのだろう、我が家の犬になって、この子はひとつも幸せそうでないなぁ)と私は沈むことが多かった。なんとか、「この家でもいいや」と思うぐらいに幸せにしてやりたいと思った。ある脱走してしまったときのことだ。


保健所に問い合わせても、捜し歩いてもシロを見つけることはできず、私は、シロはもうここには帰らないのだ、と半ば諦めかけていた。心中に、(あの子はうちが嫌いなのだ。他にも犬が何匹もいて、猫も庭にゾロゾロとたむろして、飼い主の私は庭から自由に出そうとしてやらず、やたら躾をしたがるウルサ型だ。こんな家大嫌いだ、と思っているに違いない。幸せでないのだ)と思い、切なかった。


そんなシロがいなくなって半月ぐらい経った雨のしょぼ降る日のことだった。門扉のわきに、ずぶ濡れになったシロが立っていた。
私が傘を放って、「シロ、帰ってきてくれたの、おいで」としゃがみこむと、シロは尻尾を振りながら寄ってきて、自分から庭に入っていった。


この日が、シロが、我が家を自分の家と定めた日になった。と私は思っている。なぜならそれからシロはあまり脱走をしたがらなくなったのだ。あの日のことを思い出すと今でも泣けてしまう。


だが、茨城に来てから、しばらくまたシロの脱走が続いた。
子供好きのシロに、近所の子供たちの顔が見えるようにと、玄関先につないだり、いろいろ気を使ったが、やはり家が好きになれないようで何度も脱走した。


そしてついに一ヶ月も行方不明になったことがあった。
前の埼玉の家に帰って行ったのではないかと、そちらの保健所にも報告しておき、ポスターをはりにも行った。


するとある日、埼玉の家の近くの人から電話があった。「白い迷い犬をうちに保護してます」と。すぐに車をとばして迎えに行った。
白い短毛でオス、とシロの特徴を話していたのだが、そこにいた子は、長毛のメス犬だった。ボロ雑巾のような姿で背中はただれ、立っているのもやっとという姿の子であった。

その子にその場でシロコと名前をつけ、我が家族に迎え入れた。

この時のこの家の人とは今もお付き合いが続いている。

この方は、私に言われた。「メス犬だから、お宅の犬ではないとわかっていました。近所の方が、Sさん(私のこと)がくれば、違う犬とわかっても、その犬が生き場がないと思えば、見捨てないだろう、きっと引き取られる、と言われた」と。


その言葉を、私は帰りの車のなかで苦笑しながら思い出していた。

本当にそうなってしまったが、心でどうしようと苦しかった。

犬が一匹増えるのは本当に大変なことだったのだ。だが、たしかにシロコを見
捨てることは出来なかった。鳴き声さえ忘れたかのようにぼおっとしていたシロコ。背中の傷だけでなくあちこちに傷を負っていたシロコ。
(このシロコは一年後に他界した)

ところがこの日、思いがけない顛末が待っていた。
シロコを、なんとか工夫して、食堂の下側の庭の一部に柵を作っておちつかせ、暗くなった頃、他の犬を三匹連れて散歩に出たのだ。
森のわきの道を、月明かりを頼りに歩いていると、ふと犬たちを見ると、数が多いではないか! たしか三匹のはずなのに四匹いる!
なんと、シロであった。どこから同行していたのかシロが混じっていたのである。不明になる前は、ともに歩いていた犬たちだから、誰も変と思わずに黙っていたのだろう。
この時の嬉しさは、言葉では表現できない。


シロは首輪も鑑札もなくなっていたが、真っ白のままで、まるまるとして、毛並みも綺麗だった。どこかの家で保護されていてそこを逃げだして帰ってきたのだろう。

この時、”シロが帰ってきた”と思えたことが嬉しかった。シロは茨城のこの家も、我が家として認めてくれたのだと実感したのだ。


・・・・・あれから十年近い日が流れ、シロは今年で19年目になり、いなくなってしまった。今度こそもう二度と帰ってくることはないのだ。

ここ二年間は家の中でくらした。食べるものも特別なものだった。

足腰がついに立たなくなった一ヶ月前からは、スポイトで栄養食やケンコウジュースを飲ませてきた。


21日の午後、私は買い物に出かけた。シロのために栄養食も買った。
帰って居間の時計を見ると三時半であった。そのままシロのいる食堂の方に入った。寝たきりになっていたシロが、「お帰り」というように前足を動かした。私は、「シロや、ただいま~」と声をかけ、買い物した品物をテーブルにおき、シロに水を飲ましてやらなくてはとまたシロの方を見た。

シロはもう息がなかった。お帰りといった合図だと思った前足の動きは、息を引きとる最後の足掻きだったのだとやっとわかった。


だが、やはり、あの子は、私が帰るのを待っていてくれたのだと思えてならない。寝たきりが長かったから、シロは苦しんだ。

しばしば、「シロを楽にしてやってください」と本当に神に祈った。
そうしてついに息をひきとったシロ。


私は今朝目覚めたあと、シロのこうしたことを思い出し思ったのだ。
(動物は死んだら、自分が一番幸せだった日に戻る)と。シロは、やっぱり、脱走を続けていきたかったはずのところに戻ったと思うのだ。

私の家には戻ってきていないだろう。


動物たちは純粋ゆえに妥協を知らない。忍耐はしてもあくまで魂は、自分の行くべきところを見つづけているのに違いないと思うのだ。
だから、私はシロを見送って、大きな責任を果たしおえたような気がする。

この世でシロを守るには私しかいなかった。だから私のところにいた。

もう自由になったシロは、前の飼い主の方のところに戻れた。
19年前、シロを引き取る前に亡くなられた一人暮らしのおばあさんのいた家に。



日本では、動物の問題は、環境省の管轄になっています。

私たちの暮らしに身近な犬や猫の問題も、環境省の中の自然環境局が担当しています。


私が自分の家に犬や猫を捨てにこられるようになって苦しみの極致にいた30年前に比べますと、担当者の理解も行動も、犬や猫たちの命と心を受け止め、制度そのものにも国民の意見や願いが反映されて来ていることを感じます。


平成25年11月に環境省が立ちあげた【人と動物が幸せに暮らす社会の実現プロジェクト 」】を見ますと、「昔は、担当者自身が犬や猫を物のように考え、扱い、私たちどうぶつを守ろうとする者を”厄介者”と決めつけた対応であったけれど、今は随分変わって、どうぶつたちを命と心のある、地球を共有する存在だというところに立っているんだなぁ」と熱いものが込み上げてきました。


ですが、これではまだまだ、『環境省の幟のひとつに過ぎない』という歯がゆいものを覚えます。

幟を何本掲げてもそれはただの幟でしかないのです。


犬や猫たちの問題には、行政が、非人間的な遅れに手をつけないまま、どうぶつたちをただただ苦痛を強いたままの土台に置いている、という決定的な”悪”があります。

この悪を容認したまま、”殺処分0”という誰もが賛同したくなる幟をあげるのは悪の上塗りの欺瞞でしかありません。


そこで私が以前から感じていますことは、人間の暮らしの中に在る身近な動物の問題は、独立した省を設立し、教育や福祉と並ぶ人間の暮らしや人格形成に重要な問題として取り組んでほしい、ということです。


この思いが自分の中で現実性を帯びてくるようになったのは、動物省を充分に作動させることのできる人材が登場する社会になった、時は来た、という実感を持つからです。

私は団体や行政の誰とも繋がったことはなく、実際には誰のことも知らないのですが、ブログ等で見るさまざまな方々の活動を通して、そのことをひしひしと感じます。


人と動物が幸せに暮らす社会の実現プロジェクト 】の中に既にその人材が見えます。

プロジェクトリーダーのM議員。

このどうぶつ問題に取り組もうとされていた最初の頃の数年前、埼玉の大宮の事務所までお話を伺いに出かけたことがあります。

当時は方向が混とんとして見えて、私など切羽詰まっていますからすぐに成果を望んでいて、失礼にも、「こりゃ、ダメじゃ、頼りない」なんて思ってしまいましたが、あの後一度落選された経緯の中、こうしたプロジェクトを立ち上げられている。本気なんだなぁ、と頭を下げております。


女優のSさん。この方の視点とパッションを信じ感銘を受けています。


そしてH県に活動の本拠地を置き、全国的に活動されている広い視野と活動能力の並はずれて凄い人。


こうした優れた人材に申し上げたい。あなた方の登場で時は来たんです。どうかどうぶつ省を設立し、上に立ち、今酷い環境におかれ苦しんでいるどうぶつを救って下さい。

私のように、自分の家で一匹もこどもを生ませず、必死で守っている者の尊厳を守って下さい。


心から、お願いします。


野に生き、まもなく野良と同じく野に死ぬであろう者より~2014年9月15日




いつも通りの43か所50地点のポイントを回ってきました。
前にも何回かブログで書いたのですが、私が給餌を続けるようになった理由は、飢餓に苦しんでいる猫や犬にごはんをはこびたい・・・ただただこの気持ちのみでしたが・・・通い始めて思うようになった別のことは、「原発事故以降、すぐに動物救助と給餌の活動に動かれた団体さんや個人ボランティアはどんなに疲れておられるだろう、私じゃ非力でトンチンカンで頼りないだろうけれど、給餌の場所を引き継いでそこに通うことはできる。せめてそういう役に立ちたい」ということでした。

それで自分なりに一生懸命通うようになったのですが悲しみと自己嫌悪だけが残っています。
なぜか、そのことがふいに蘇った今回の給餌でした。

・・・私がA団体さんから引き継いで行っていた双葉の65か所を投げ出した、見捨てた、という傷が自分が思っていた以上に何倍も深くて、痛くて、辛くて、忘れられなくて、自分が嫌いで嫌いでたまらなくて・・・今でも苦しいのですよ。
それが蘇ったのは、給餌に行く前の日、時々見る双葉の夢を見たからでしょう。

まるで自分の身体が地上から離れたようになって、双葉の海や山すれすれに浮かんで、給餌ポイントをまわる夢。

あの双葉町に入るとすぐの工場のある右手の地区に入って、そこから公民館、小さな小屋風の建物、それから民家と納屋の間の門扉を入った高台の家。ここには小さな長毛の犬が枯れ葉のようになって死んでいて、納屋の二階からやせ細った黒い犬が怯えきってのぞいていて、ほかにもウサギのような尾をした猫・・・みんな異常な事態のなか神経を逆立てて懸命に生きていた。しゃれこうべになった犬の姿からもそれを感じた。生きたかったと。・・・生きている子は助けてやりたくて、あんなに心を尽くしたのに、ヘタレで力ナシの私一人ではどうすることもできなかった。その悔いが悔いが悔いが去らず苦しい。

苦しい実感を五感に覚えながら、私は涙を流しながら次のポイントに浮かんですすむ。今でも目をつぶっていても行けると思うくらい鮮やかに給餌した場所と流れがわかる。
日常の暮らしの中で、ふとはっとして、「ここは双葉のあの場所だ。死んで半身を食べられていた猫の亡きがらがいたところ」だなどと思うことがある。

そしてあの牛の親子。砂の器の父と子の逃避行のように私の車を警戒し、振り返り振り返り、坂道を駈けあがって行ったあの姿。子牛はたどたどしく前足をあげてふみしめ、必死で母牛の後を追い、母牛は子牛を気遣い気遣い、そして私の車を見て、尚懸命に逃げ去ろうと走った。
・・・天を仰いで大声で泣いた。すぐに死ねたらどんなに救われるだろうと、人間である自分を呪うように泣いた。
哀れだった。牛たち。忘れられない牛たち。


生きられるように考えて欲しかった。
何らかの手だてをとってほしかった。
不完全でもよかった。不完全で当然だ。あの惨状の中、誰がトップになっても人と動物をともに助け切ることなどできなかっただろう。
せめて給餌を許してほしかった。凶悪犯人を取り囲むように、警官たちはたった一人でいる白髪の私に迫った。二度も。じれも怯むことはなかったが、『国から、全部から、捨てられた実感』の脱力感と痛みは、生涯癒されることはないだろう。

全部の生き物とわずかの力を振り絞ってごはんを運んでやりたかっただけの人間を、見捨て続けた国と自治体は悲し過ぎる。辛すぎる。

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こんなことばかりがよぎってならない給餌でした。自分の限界があとわずかと悟ったからでしょうか。

大きな災害は来ないほうがいいけれど、もしもまた何かあったら、どこの自治体も即動けるような、せめて飼い主は連れて逃げましょう、給餌ボランティアは活動して、とそれが普通になる制度の確立を望みます。



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C所属のNさん作成の給餌器 J点。この近くの民家で黒猫を見る。あの猫の餌場になっていたら嬉しいなぁ。

今回、小袋入り2.5キロを35と、2.5キロ袋15を、プールしてあるご支援金から購入。我が家の猫用のものを4袋も。全部配る。



到着の時間。今日も遅い・・・。




M所の待っていた猫ちゃん。

M所の中にいる猫ちゃんを怖れてか、ここからじいっと中をのぞいていたちょっと小さな猫ちゃんい、パウチを開ける。夢中で食べる猫ちゃん。

M所は猫たちの砦のような餌場である。たくさん置いておく。いろいろな場所に隠し置くのだ。小分けタイプのもあちこちにしのばせる。

J点で見た大きな糞。イノシシくんか? 糞は命の証。

除染した廃棄物。膨大な面積に在る。

右側に袋ごと置いているのはこびりついた糞がとれないから。次に行った方、袋を処分しておいてくださいませ。すみません!

ある道路下の置き場。空っぽであった。

いつもの町営。カラスが多いので、入口を塞ぐように布を延ばしておく。




ある道路下の空っぽの器にフードを入れて床下に。・・・ひもをひっぱると器が出て、フードを撤去されると辛いので、小分けをいくつか奥に投げ入れておく。(わけあり不信感がいっぱい)


目次:保育園の園児のつぶやき 大浦静子さんより
「子どもたちは空や雲、雨やお日様、鳥や花が大好きな友達ですね。
“つぶやき”に接すると、忘れかけていた大切なものを思い出します。」と大浦さんは言われます


ほんとですね。
子犬や子猫も言葉が話せたら、飼い主さんとこんなおしゃべりをするんじゃないでしょうか。

++++++++++++++++++++

園庭の砂場でトンネルづくりをしていて  5才児    
    「まだトンネルのひかりみえてこんね~

    見えたら虹もでるかもね」


セミの鳴き声がして 5才児  
   「あっ セミのこえや。」

   「あっ あの木かな。」
   「うん そうや。なつのこえ するもん。」

ごはんを食べ終わった後、弁当箱のふたにごはん粒がついて 4才児   
    「あ、これはママが

    おまけしてくれたのかな?」                           

保育者の顔をじーっと見つめて 2才児 
    「せんせいの目、キラキラしとる。

    アレ~?
    なんで目のなかに 良子(自分)おるんかなあ?」
                       

夜なかなか寝ないので、 4才児
   母「羊さん数えるから、頭の中で想像してや」


   子「羊さんより、ブタさんがいい!」


   母「この際、なんでもいいわ・・・。

   ブタさんが一匹、ブタさんが二匹、ブタさんが三匹、」 


   子「ハイッ!三匹の子ブタになったでしょ!」

戸外遊びで 4才児

   「目つぶってみて。みずのおとが
    すっごく よくきこえるよ~」
   「ほんとうだね。目をつぶると 

    はっきり きこえるね」

   「ちかくにいったら みずのにおいもする」

                  

母と子の会話 2才児
   「おかあさん これな~に?」
   「なしっていうのよ」
   「ちがう。りんごのおともだちよ。
    だって、りんごみたいけど きいろやもん」 


自由遊びの時 蚊にさされている子に 4才児   
   
「たくさん さされたね」
   「かゆいげん。 

    わたしのあし、蚊はだいこうぶつねん。

    いやになる」

    


仲良しの会話  5才児    
   「かみさまって一番にうまれてんね」
 


   「そうなん!!じゃあみほとけさまって二番かね?」
                               

登園してきて 4才児

    「はやくみかちゃんこんかな~」
   「なかよしやね」
   「そうねん。なかよしねん。
    だから いっぱいやることがあるげん」
   「やることって?」
   「えっと~あそぶことやろ・・・
    いっぱい」

   


カラスを見て 2才児
   「せんせい、みて!
   スズメのおかあさん」


    

昼食で、しらす干しふりかけがでると 5才児

   「あっしらす干しや!」
   「しらす干しっておほしさまみたいな名前やよね。
    いったいどんなほしになるんだろう?」


家庭での会話
   「そらってまほうだね。」
   「どうして?」
   「だって、あかるくなったり、
    くらくなったりするもん!」

えさをやっていて 3才児
   父「よく食べるコイやなあ」
   娘「コイさん  おいしい おいしいって いっとるよ。
    ありがとうって いっとるよ」

給食のわかさぎのフライをみて 5才児
   「なんか、このわかさぎ
    ぼくのかおみて おこっとるきがする」
   「えっ?ぼくのなんか
    てんごくにいって やすらかなかおを
    しとるみたいやよ」

蝶々をみつけて 4才児

   「あっ。ちょうちょや」
   「ちょうちょって
    さなぎから へんしんするげんね」
   「そうやね~。
    さなぎは、あったかい おふとんねんね~」

ブログ ≪私に何の関係があるというのだ≫より
動物たちの命が滑り落ちていくのを見ればよい 2014・08・19
http://catsanddogs75.blog136.fc2.com/blog-entry-503.html
Author:ノーマンテイラー邦子 ロンドン在住/通訳・翻訳業 ホームページhttp://norman-taylor.com

↓転載


オリジナル・ソースがわかりませんが、
アメリカの犬猫収容所(レスキュー・センターではありません)所長からのメッセージです。
アメリカだけではなく、全世界へのメッセージとしてご紹介させてください。


シェルター内部の状況をあなたがたにお知らせし、
社会がどれだけ大きな目覚まし時計が必要か考えていただきたいと思う。

まず最初に言いたいことは、
ペットを放棄した人たちはシェルターの中に一日いて、
悲しく混乱している動物たちの命が滑り落ちていくのを見ればよいのである。

シェルター・システムに入ると、90%の犬はもはや歩いて表玄関を出ることはない。
裏から出るだけである。純血種だとしても同じだ。
飼育放棄でシェルターにつれてこられる犬、野良犬の25%は純血種である。

もっとも多い言い訳は

「引越しするのでペットを連れていけない」
本当ですか?新しい家はペットはだめなのですか?

あるいは
「犬が思ったより大きかった」
本当ですか?ジャーマン・シェパードがどのくらいの大きさだと思っていたのですか?

「世話をする時間がない」 
本当ですか?私は一日10時間から12時間働いていますが,
まだ6匹の犬の世話をすることができますよ。

「このペットの新しい家をみつけるのはストレスだ。
あなたたちだと里親を見つけてくれるとわかっている。このこは良い子だから」

新しい飼い主が見つかる可能性は低い。
あなたの探すストレスは、ペットが味わうストレスに比較して何だと言うのですか。

あなたが今連れてきたペットは72時間しか時間はない。
シェルターが混んでなければ、もう少し長くいられるかもしれない。
しかし健康な犬猫に限る。くしゃみをすれば、すぐ殺戮処分。

あなたのペットは小さい混み合った檻の中で、
他の動物たちの吠え声や鳴き声を聞きながら過ごす。
食べる場所、寝る場所と糞尿は同じ場所である。

恐怖と混乱の中で、あなたを呼び続ける
もしボランティアがいれば、散歩に連れていってもらえるかもしれない。
もしいなければ、えさを檻の下に突っ込まれるだけで、
あとはホースで消毒液をまく人間と接するだけ。

もしあなたの犬が怖い種類の犬だったら(ピット・ブル、ロットワイヤー、マスティフなど)
あなたがシェルターを出たとたん、殺戮処分室へ連れていかれる。

もしあなたの猫が怖がりで、人懐っこくもなければ、あるいは風邪をひいていれば
(ほとんどの猫がそうである)すぐ処分される。

どんなに可愛くてもどんなに行儀がよくても、72時間以内に見つからなければ、
シェルターはすぐ満杯になり、処分される。譲渡などほとんどない。

可愛がられてきた犬でもたいていは一週間で攻撃的になる。
性格の優しい犬でもこの状況下では歯をむくようになる。

あなたのペットが幸運にもいろいろな難関を通りぬけたとしても、
ケンネル咳や気管支炎を起こしたらまたそこで殺戮処分の対象になる。
シェルターは殺戮一匹一匹につき料金が入ることになっているので、
獣医に見せてお金を使うよりは、安楽死料金の収入を得たほうがよいに決まっている。

さてここで誰も見たことのない完璧に健康な動物を殺戮処分する麻酔の話をしよう。

あなたのペットはリードをつけられ、犬舎の外へ連れ出される。
いつもそうだが、散歩に連れていってもらえると思って嬉しそうに尻尾をふる。
「部屋」につれていかれるまでは。

そこで部屋に入るのを全力で抵抗する。死の匂いがするに違いない。
そこに残っている悲しい魂を感じるに違いない。
奇妙だが、本当に一匹残らずそうなるのだ。

あなたの猫や犬はシェルターのスタッフ一人か二人がかりで押さえつけられる。
スタッフの数は動物の大きさや怖がり方によって違う。
そして麻酔係は(獣医ではない)動物の前足の血管を捜し、
ピンクと呼ばれる薬を致死量投入する。

まずペットは押さえつけられたりひっぱられたりしたため、パニックになる。
足から針が飛び出して血だらけになり、
耳をつんざくような叫び声とともに暴れまわったのを何度も見たことがある。

あなたが想像しているように眠るように逝くことはない。痙攣する。あえぎ、糞尿する。

よろしいか。シェルターは従業員に給料を払わなければならない。
取締役というのもあって彼らも給料が必要である。
結果的に、経費節減を余儀なくされ、
致死量の麻酔薬を打つ前にトランキライザーを与える金など捻出できないのだ。
致死量の薬を直接血管に打ち込み、死ぬまで苦しませるだけである。

ビジネスの利益を考えなければ、もっと人道的に処分することが可能だ。
ライセンスをもった獣医を雇い、動物たちの意識をリラックスさせた上で
殺戮処分にいたらせることができる。しかしこれには金が必要である。

収容所は動物にとって正しいことをやる事が目的ではなく、
自分たちに都合の良い事をやっているだけだ。
そうすれば金を作り続けることができるからね。

最後にあなたのペットの死体は他の動物たちと一緒に冷凍庫に詰まれ、ゴミ収集を待つ。
そして次は?火葬されるのか?ゴミとして処理されるのか?ペットフードになるのか?
学校の実験に使われるのか?

あなたは決してわからないであろ。頭によぎることさえないだろう。
結局たかが動物のことであり、代わりはいつだって買える。そうでしょ?

まだ鼓動する心臓を持ち合わせ、この記事を読んで涙があふれ、
写真が頭から離れない人たちがいてくれることを望む。
私はこれを毎日やっているのだ。自分の仕事を憎んでいる。
こういうことが存在していることを憎む。
そしてあなた方が何とかして変えようと、
子供たちや一般の人たちに教育していこうとしない限り
これは永遠に続くということを憎む。

調べてみてください。
ペットを飼う前にあなたが関わろうとしている世界がどういうものなのか
正確に把握してください。繁殖もやめてください。
動物は使い捨てではない。しかし今はそうなっているじゃないですか。

転載ここまで


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この転載記事(http://catsanddogs75.blog136.fc2.com/blog-entry-503.html )は、既に多くの方々がご覧になり、それぞれの思いをもたれていると思います。


私が自分のつたないWebマガジンに公開させていただこうと思いましたのには、ある理由があります。


もう三十年前近くになりますが、当時私は埼玉県のK市に家族とともに住んでおりました。

ちょっとした経緯で、我が家に毎日のように猫、犬が捨てにこられていました。

筆舌に尽くし難い思いで苦しんでいた私は、管轄の保健所が無策で動物たちを生かせるための対策をとらないから悪い、という意識を根強く持っていました。


その日も、K保健所の担当A氏と電話で激しく言い合っていました。


私の強い口調の言い分に疲れ果てられたのでしょう、最後にA氏が、泣きながら叫ぶように言われたのです。


「誰が好きで犬や猫を殺すか! 俺だって犬が好きだ! 殺さなくていいものならそうしたい! だが誰かがやらなきゃいけないんだ! そして俺は、この仕事をやることでやっと家族を養い生きていくことが出来る。そうやって家族を養い自分も生きてきた! それしかできなかった。この制度がなくて、他の仕事につけたならどんなにいいか・・・!!! 

殺しているのは、持ち込む飼い主だ! 身勝手なヤツらだ!!!」


この日から私は行政の誰か個人を攻撃することをしなくなりました。

A氏のことは今も忘れたことはありません。


そして今回「動物たちの命が滑り落ちるのを見るがいい」を読み、A氏のことをあらためて思い、自分の苦悩の長い人生を思い、そしていまだに殺処分中心の日本の行政の現実を思いました。


もう私はどこにも行けず、逃げられず、動物たちのこと、制度のことを見つめ続けていくのでしょう。

でも、何の力もなく、こうして思いつくまま知ったこと、感じたことを書く形で、歩んでいくだけでしょう。






毎週福島に通うNEKONEKOさんの写真より
CAPIN所属

どうしたら守ってやれるんだろう・・・・
http://ameblo.jp/tsukuba-cats/









大浦静子さんより


34歳で亡くなった郁代さんのお母様、大浦静子さんに
詩をお願いしました。

一回目は、郁代さんが旅立たれる前に、ご両親に遺された
「おとうさん おかあさんへ」を掲載させていただきました。
私が詩をお願いしました日、奇しくもいくちゃんのご命日だった
のでした。

写真は、大浦さんがいくちゃんとの日々を綴られた
「あなたにあえてよかった」の表紙で、いくちゃんが自ら撮影
されたものです。


ブログ[http://d.hatena.ne.jp/mikutyan


おとうさん おかあさんへ


   わがままな娘でごめんね。
   いつもつっけんどんでごめんね。
   口が悪くてごめんね。
   心配ばかりかけてごめんね。
   親孝行できなくてごめんね。
   孫の顔、見せられなくてごめんね。
   おとうさん、おかあさんより先に死んじゃってごめんね。

   三十四年間という、少し短めの人生だったけど、
   おとうさん、おかあさんのおかげで、
   楽しく、充実した人生でした。

   子どものころから、のびのび自由に育ててくれて
   有り難う。
   わたしを信頼し、やりたいことをやらせてくれて
   有り難う。
   いつも心配してくれて有り難う。
   生んでくれて有り難う。

   おとうさん、おかあさんの子どもとして生まれて
   来られて、
   わたしはとってもしあわせだったよ。
   本当に有り難う。

                      郁代