また森に猫を置いていった人がいる。女性猫のようだ。
その猫の不妊手術をするつもりである。
それにともなって、相変わらず悶々とした苦しみが胸に留まってくる。
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数年前のことだ。
日に日に認知症の状態が悪化する夫の自宅介護をしている最中の時期だ。
月に二度ほど一泊二日のショートスティに夫を預かってもらいながら、ある月刊誌の記事を書くための取材に出かけていた。
この仕事は、止むことのない我が家への捨て猫や犬にかかる不妊のための手術費用や食費を得るためにやっていた。
夜間の徘徊が多かった夫の介護、他者の置き捨てによって増え続ける猫や犬の世話、取材の必要な仕事は、本当に過酷だった。
そういう中私は、高齢者支援の活動を記事にするため、代表にお会いしに茨城の北部に出かけた。
実は私がここで書こうとしているのはその方の活動のことではなく、回りで見かけた数匹の猫のことである。
取材中、猫があたりに多くいることに気付いて、私はすっかりそちらに気をとられたのである。
「猫がたくさんいますね」
「ええ、子猫が生まれて大きくなったものですから」
「え!? 不妊の手術はされていらっしゃらないんですか?」
「ええ、不自然なことはしたくないんです」
「え!! 増え続けると結局は猫たちを不幸にしませんか?」
「幸、不幸って結局は人間が自分の考えや都合に合わせて決めるわけでしょ。私はそういう尺度を持っていないから」
その人はここまでの会話の間、伏し目がちにして私と視線を合わすことはなかった。きっと、私の口調の内に咎めモードが滲んでいるのが不快だったのだろう。
『ああ、またか・・・』といううんざりもあったに違いない。
それが私の顔に視線をまっすぐに向けてこられたのは、私が、
「はぁ・・・それはそうですけど・・・そうやって地域が猫だらけになってしまうと、必ず人為的に排除しようという人があらわれますでしょう? やはりそれは不幸だし、その不幸を避けようとは思いませんか?」と言ったあとだ。
「猫だらけにはなりませんよ。自然淘汰をしますから」。
その人はきりっという感じに私を見つめたのだが、眼差しはきつくはなかった。
「自然淘汰というのは人間の処分も含みますよね。私はそれが哀れでまたやりきれなくてこどもを生ませないようにするのは必要だと思えてならないのです」と応えた私のほうが強い視線であったかもしれない。
その人はこの私の言葉に対してふっと笑い、その後口をつぐんでしまわれた。もうこの話はお終い、と決められたのだろう。
その後この人とお会いすることはないのだが、時折ふいに思い出してきた。
そして、『究極の愛護とはあの人の姿勢でいいのかもしれない』と思う。『実際猫たちが自分たちの運命を決めることができたら、ほっといてくれと言うだろう』とも思う。
だが私は自分の回りで野良ちゃんに出合うと手術をしてしまう。心に痛みと罪の意識はありながら、『彼らが生きることを守るにはこうするしか方法がない』と硬く思い続けているのだ。
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とはいえ、もし茨城県の北部で出合ったあの女性が、世間や行政から弾圧のようなバッシングを受けるようなことがあったら、私は躊躇することなく彼女を擁護するだろう。考えや方向は違ってもその人がその人の信念をもって生きる姿勢と人間性に敬意を持ちつつ。
動物たち自身、人間のそれとかわらぬ命と心と尊厳を保有していながらそれを言葉に出すことはできない。それゆえに、人間の誰も、彼らに対することにおいて何が正しいか実際にはわからない。
わからない以上、自分は自分の内の思いに従い、自分の痛みと罪の意識を引き受けて実行するしかないのだ。同時に他者の自分と違う思いと考えを理解するしかないという真理も受け入れるほかないだろう。
などなど思いにとらわれながらも、朝になったら動物病院に予約の電話を入れるのだ。こうして今生きている命を守るしかないのだと今更に自分に言い聞かせて。

















