丁度一年前にイギリスでお会いした女性を思い出しました。
彼女も、叶いはしないでしょうが、この街に招きたい人の1人です。
寒くなってきた。
昨日は雨だったが、日中の気温は20℃を超えたようだ。
暫くは11℃から17℃位が続きそうだ。
昔、しめじを栽培したことがあるので、秋の気温は結構気になる癖が残っている。
きのこには、全般的に朝晩の気温の差が大きいほど良いと言われている。
日の出が7:44で、日の入りが5:44か、丁度8時間から10時間位が明るいことになる。
皆さんはご存じだろうか。
日本の場合、1962年1月以降にサリドマイドを服用した母親から生まれた患者数が、
全体の43%以上になることを。
当時「レンツ警告」なるものがあり、「サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、
1960年代初頭に西ドイツで多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、
直ちに全製品を回収すべきである」としたレンツ博士(西ドイツ)による警告のことですね。
今回のコロナと無理やり重ねる必要は無いのかも知れませんが、この3年4年を観るに、
日本の厚労省や医師会や薬品メーカーの対応は何ら当時と変わらないように思えてならない。
今回は、本来免疫は最強の幼児にまでワクチンを打たせようとする、
結果、免疫力が阻害され、免疫不全の子供や大人を生み出し兼ねない。
実に恐ろしい日本の社会となったものです。
メディアもね。
レンツ警告の内容はグリュネンタール社から大日本製薬(株)に届けられ、
当時の厚生省にも報告されました。
しかしながら、大日本製薬(株)や厚生省はそれらの情報を何一つ公にしなかったのです。
大日本製薬(株)が、自社のサリドマイド製剤を出荷中止(1962年5月)にするのは、
レンツ警告の約半年後のことであり、
製品の全面回収を決定(1962年9月)するまでには、それからさらに4か月を要したのです。
その間、厚生省から製品の回収命令が出されることはありませんでした。
それどころか、
厚生省はレンツ警告後にも新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)を2剤認可しているのです。
マスコミの対応も遅れに遅れました。
何と、レンツ警告後の約半年間、国ではサリドマイド事件は全く報道されなかったのです。
詳しくは書きませんが、製薬会社の動きや厚労省の対応の杜撰さを知れば、
今回のコロナへの対応の愚かなる様々な不可解な現象も答えは簡単に出ると思います。
先日、当地の地下鉄の電車の中で、車いすで乗り込んで来られた若い女性が居ました。
駅員さんが、ホームと電車の間に板を渡してくれるんですね。
初めは気付きませんでしたが、両足が赤ちゃんのように小さな障碍でした。
サリドマイド特有の症状ですね。
歳の頃は20代、栗色金髪の美しく可愛い女性でした。
考えてみれば、彼女は決められた時刻の電車にしか乗れないのではないか、
そう思って聞きましたら、その通りでした。
やけに早く、駅員が渡す板も持って待っていたので、そう感じて聞いたのですが、
何と乗る入り口も何時も同じにしないといけないらしいのです。
だから、帰宅は何時も1人で帰らなければいけないんですね。
イギリスにおける障害児童への教育はSENと呼ばれています。
(SENはSpecial Educational Needs{特別な教育的ニーズ}の頭文字をとったものです)
日本と異なるのは、障碍の有無ではなく、「学習における困難さ」の有無によって、
一人一人に合わせた「特別な教育的な手立て」を用意するということ。
如何でしょうか、1981年に松山善三監督が作られた、
サリドマイド児の辻典子さん本人が主演した、
典子さんの日常を描いたドキュメンタリー映画を思い出された方はおられますか。
足で器用に絵を描く姿と書けば、思い出される人も居られるでしょう。
私が丁度役所を辞めた頃に観たドキメンタリーでした。
今回電車の中でお会いした女性、実に明るい人でしたね。
本来、あのような障害を持つ、それも若い女性は、
お顔は笑顔でも、何処か笑顔とは違う何かを感じてしまう時もあるのですが、
少しだけお話したのですが、お顔からもお声からも一切感じませんでしたね。
何と言っても周囲の私ども2人に向ける視線が日本とは違うんですね。
何と言うのか、周囲にも「微笑ましい2人に向ける笑み」があるんですよ。
日本は、例えば今回のように障碍者がいると、目を向けてはいけないんだ、
そんな空気がありますね。
日本も一刻も早く、同じような社会になれば良いのに。
そう強く感じたひと時でした。
その女性と逢えたお陰で、若い頃お会いした坂本九さんの言葉も思い出すことが出来ました。
「僕たちは、1日も早く、この世から{障害者}と言う文字を消さなければいけないのさ」
【「差別」と言う言葉も無くさなければならないんです。」】
余談で、幾度となく書くことですが、現在パラリンピックが開催されるのは、
坂本さんの活動のお陰でもあるんですよ。
もし、あの時、坂本さんのチャリティ資金が無かったら、
今、パラリンピックは無かったも知れないのです。
そのお金を坂本さんは1人で集められたのです。
確か、当時、国がパラリンピックに用意した金額は2千万円だったかな。
比べ、坂本さんが集めた資金は確か6億円だったように記憶しています。
当時、同じ時代に撮影した坂本さんを写した写真と私の写真。
(オヤジよ、何の関係もあらへんやんか !!!!!!)
(関係ないついでに、柔道一直線の桜木健一氏は私の高校の先輩であります)
(それも書いといたらどないや、 オイ!!!、そこのギター片手のアホオヤジよ)
(聞いてんの !!!!!)
(この際や、10年も前にガラ携に保存した写真も掲載しといたらどうや !!!)
(そうか、そうか、磯に移る時、船から転落して、血だらけで釣っとったんやな)
(脇腹にその時の傷がまだ残ってるんやろ !!!、大変やったな !!!)
(なんや、もう1枚あんのかいな!!!、あぁ、大阪城でトランペットを吹いてた時の写真か)
(ついでに、載せといたらええがな !!!、トランペットは ? 、あぁ、下に置いてんのかいな)
(大きな楽団に入り弘田さんの後ろで吹くのが夢やったんやな、でも入団テストには落ちた)
(もう、ええか !!! これで打ち止めやな、ハイ、ご苦労さん !!!!!」
(なんやねんな!!!、なに !! スイスに行った時に買うたロンジンの時計が出て来た ??)
(うるさいなぁ、この際や、それも載せといたらええがな !!!、)
(当時のお金で30万円したんかいな、アッサリしたとこが良かったんやな、そうかいな)
(ええか、これで写真に合わせた記事を中身の無い頭で書く必要も無くなった訳や !!!)
(ほんまに、世話のやけるオヤジやで、もう無いな !!!、これで仕事に専念出来るやろ)
(ええか、今オヤジに一番大事なんは死ぬまでに目標に到達することなんや)
{逃げたい気持ちも分からんでもないけど、逃げたらあかんのや)
(いつかは叶う、そんな生ぬるい考えが許される時期でもないんや)
(最上段の数字だけに集中せよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!時間も無いんや)
(もう、そのことだけに集中してやらんといかんのや、ええな !!!!!!)
(ほな、さいなら・・)
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