夏、子供の頃、須磨の海水浴場に何度行ったことか、
大人になり、ハワイの海や奄美の海、グアムの海、新潟の海、
足に当たるナマコの感触やクラゲに刺された痛みなど、
体で覚えている思い出も確かにあるが、
最近、朝起きる度に体の何処かが衰えているような感覚を覚える歳となり、
思い出すのは旅先の心で感じた思い出ばかり。
海水の塩辛さやナマコの感触クラゲに刺された痛みなど、思い出そうとしても思い出せず、
思い出すのは、共に行った友の笑顔や、女性の笑顔や、加計呂麻島の女の子たちの笑顔。
時には、別れとなった女性が1人乗る飛行機が飛び去る姿だったりする。
数知れぬ旅が、私に何を残し、何を与えてくれたのか、今も分からない。
矢張り旅は、足や肉体でするのでは無く、心でするが良いのだとつくづくと思う。
加計呂麻島の夕陽や、
学校帰りに全く私には分からない言葉で話す加計呂麻島の女の子たちの笑顔。
そして、老夫婦が朽ちた木のベンチに2人座り、何も喋らず見ていた夕陽、
その朽ちたベンチに手を置いて、その木にあった節をじっと見ていた私を思い出す。
当時に肉体は戻れないが、ペンチに手を置いていた私の心には戻れる筈であるし、
私のその心も、決して永遠に壊れない筈である。