言葉たち。
何を言っても見飽きた感じになってしまうこの倦怠感は10年目の春。
2017年からはじまったことを10年目だと言いたいのは、仕事キャリアにコンプレックスがある私の些細なマウントだ。
私とあなたは負けず嫌いなところは多分そっくりで、それ以外はだいたい全部違っている。
あの子のポニーテールはもうない。
世界中どこを探してもない。
あの子はそのまま、
でもあの子のポニーテールだけがどこを探しても、もうない。
言葉がどぼどぼと、ケガしたときに出てくる濁流のように、指先から溢れ出て戸惑うほどに溢れ出てこそ私ではなかったか。
わかりやすい言葉がいらない時にはわかりやすい言葉にたより、シンプルでなくてはいけない時に言い淀んでは誤解されてしまう。言葉に詰まる他人の必死さがとても愛おしいのに、しゃべれない自分はみにくいと思う。
忘れたくないのに空気だけがそこに漂っているその空気は言葉というテクニカルをはずれてしまっていて、どんなに説明しようとしてもすりぬけてしまう、だって煙みたいなものだった、それは前からそうだったじゃないか、大人だからぜんぶ掴めると思ってた私の方が傲慢だった。
こうしている間にもニューロンはどんどこどんどこ、あちこちに手を伸ばして増えて、30代の意味記憶の世界と世界を繋げていく。気持ちいい。繋がるのは気持ちいい。なんでも私に関係してる。世界は私で回ってる。みんな私のことを知っていて、みんな私のことを見てる。そう思いたい気持ちはきっと、スポットライトのうしろで多くの人が思い浮かべているけむりだ。
「あなたが好きすぎて苦しい」
そう言われて寄り添われながら、ああこれはきっと私がそうあってほしいと思って私に見せてあげている自己満の願望なんだと思う。
わたしに苦しみを押し付けていのちの電話であれと行動でしめしたかれと、執着にのまれて依存しているわたしと、何が違うというのだろう。思いの形は違っても、やっぱり板みたいにじょうぶなMOTHERを求めているだけだと、あなた自身を見ていないのだと、そういう点ではわたしもかれも同じだ。わたしはかれを見捨てた。あの人はわたしを毎日傷つけることにした。同じだ。目の前の現象を何でもかんでも繋げる愚行を見守りながら、グーの次はパーだとか、マークシートの回答が同じ3のまま何問も続くことはないとか、そんなレベルの関係性と同じレベルで気のせいだと吹き飛ばせればいいのに。解答がないのだから、証明もしようがない。途中式を書かせてもらえる場所もない。わたしが塗りつぶしてやぶいたからだ。
5年間で死のうとした回数ぶんだけ腹筋をしたら、たぶんわたしのおなかはちぎれて腐ってしまう、桜はまだ咲かない何回目かの現地で思う。
MOTHERでいられればもう少し幸福だっただろうか。SONが羞恥心みたいなナイフで習慣的に削り取った私の心はMOTHER向けではなかったの。返ってくる思いは私の削りかすに見えて、オキシトシンを見つけられなかったの。MOTHER、MをとったらOTHER、他人です。そう、母は他人だよ。そして、母は他人になった途端、きっと角度によっては誰よりも冷たい鬼のような顔をしている。Mが、見えなくしてることがきっとたくさんあって、これはホルモンとか薬物みたいな化学的な何かが作用している。
MOTHERをMOTHERたらしめているのは、生物の脳内で分泌と分解を繰り返されているM=MEDICINEだ。
ごめんね。MOTHERになれるだろうか。
もう少し優しくなれるだろうか。