ミニマルな生活とか金持ちがやることっしょ | ぴいなつの頭ん中

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殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

どう考えてもおかしいことがあって
住人がどんどん減少しつつあるんですね
世界の振動、私の振動、キーをタッチする時どうしても
かたかたたーんしてしまう現象、
それでゆれて本が落っこちてまた崩れてのやり直し。
カタカタターンをすこしだけずらすとそれだけで、
私の脳がおぼえていたローマ字かなの出し方が全く混乱する。

ああ、紅茶をいれてたんだった。

私は私の記憶に全く自信がないので、私がいつまでも憶えていることを
私以外の人が憶えてなかったり「そうだったっけ」とか言うとものすごく
ものすごく安心するんですよ~。
私に影響なんて受けないでください。
私の領域を侵犯しないでください。
私があれをしたりこれをしたりするのは私の個性であり自由であり、
商売なのですから。
こっちこないでください。
思ったこと書いたものこちらに大公開され、
そうですかふんふんと思って見ていて楽しいんだけれど
私はますます自分に何もなさを感じてしまい
それをかわいい動物やおいしいごはんや特撮女子の教訓譚に変換することも
ままならず
なんだかな、焼く前のクッキー生地状態でも舐めてくれるなら書いちゃうしさ、
あんたたちが私の口調やボキャブラリーを真似してくることで
私はとっても居心地が悪いのですよ
真似するってことは少しでも尊敬していないと生じない現象であると
でんぱちゃんが言ってましたのでそれはうれしいですしいいんですけど
私はそれをされることで消えてしまう。ガーゼだもの。
それをどこに吐いていいのかわからないまま、結構時間が経ってしまって
書け書けと自分をせかすテーマなんかも増えてきまして
とってもいいこと結構なことうれしいことですけれども
はけぐちとはちょっと違うような様相になってきましたね。
私はぐちを書きたいのではなく、
私に関する、思いを整理するために
今まで書いていた紙の日記は紙が変わってムーミンのガチ日記帖みたいなやつにしたのね
そしたらなんかそれに書いていること、書こうとしていること、書いたこと、ぜんぶ、
誰か何かに見張られているような気がして

私が昔から書いていたブログの文章と大森靖子ちゃんのブログの文章は似ていて
真似したわけでもなく、私はどっちかというとこんな殴るような書き方をするのは
川上未映子さんの「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」から影響を受けてるのね
それで私が殴るような文章を書くと靖子ちゃんみたいだし
メンヘラが思いを吐露すると靖子ちゃんみたいだって言うから
「独特な世界観」でぶちまけ系の曲を吐くと、よくみんな(私についてだけじゃなくて)
大森靖子ちゃんみたいだって言うし
そにこちゃんメンヘラ卒業でちゅ!って私が言ったらとみーさんから
「そにこから大森靖子ちゃんぽさがなくなるってことか~」って言われて
あっものすごい面白い形容のしかただ!と思ったんですよ。
ただね、大森靖子ちゃんをメンヘラだと思っている人が多いの不思議だよね。

大森靖子ちゃんはメンヘラじゃないんだよ。
大森靖子ちゃんはうつでステージ出られなくなったボーカルの女の子の代わりに
バンドでボーカルをやらされはじめたのが最初なんだよ。
あれだけ強くて強くなければ、
繊細なものも書けないってこと。
弱い人の思考はシンプルで芯がとても強い。そしてこころはすべて自分自身に向いている。
強い人はいつも周りの感情や揺れ、動き、に、良い意味で、興味がある。
ファンサービスちゃんとする人ってちゃんとプライドあるし強い人だってことなんだよ。
お客さんをお迎えするというプライドがある人ってことなんだよ。
私みたいにシャイだからとか自分が相手と話すのに勇気がいりすぎるからとか言って話しかけにもいけない人間がファンサービスなんてできないのと一緒で。

強い人、強く見える人ほどいろいろ抱えなくちゃならなくなる世の中ですし、弱い人は弱さによるつらさはあるだろうけれど、弱さがあるから芸術ができるんだと思い込んではいけない。
ほんとうは、強い人ほど、芸術ができるんだ、と思って、
強くなることを目指さなくてはならない。
三島由紀夫も言ってた。
「太宰の持っていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」
と。
どうにもならない弱さを有効活用して芸術する人はとても前向きで素敵だと思う。
けれど弱い自分を連れてこないと芸術ができないと思いこんでしまっていた自分はくそだ。

たしかに弱くなると、Tシャツの色やパンの袋のしわにも心を激しく動かされてめちゃくちゃに泣けてきたりとか、そういういっしゅんきもちよくなっちゃうような感性がぼろぼろでてくることがある。

けれどいま、何か書こうとするならそれだけではないと思わなくては。
今現在の社会性レベル高めの時に書くものがとても糞に思えて悩んでいたけど、
自分だけが自己陶酔して楽しくなっちゃっているだけの私小説にはもう飽きたんでしょ?
だからもっと客観的で面白いものが書きたくなったんでしょ?
だったら書くしかないんだよ。
自分の経験と感性にたよって甘えていすぎたからそういうの書くのほんとうにほんとうにへたくそだけれど、
それも書いているうちにかけるようになっていくはず。俯瞰の目がほしい。鳥さんみたいに羽をバサバサ広げて飛んで、そこからの世界を見て、ものを書きたい。