ライブハウスに初めて入る羽目になったのは、ネット上に浮かんでいたある男の子の一言だった。それはRadioheadのアルバムKID Aについての、印象。たった一言だったのだが、フジエさんに教えてもらったばかりの音楽がネットで話題にのぼっているのを見てわたしは興奮し、あったこともないその子に共感を意味する返信を送った。
買いたてほやほやの真っ白なノートパソコンのモニター。電気のつかない元納戸だった自室でひとりで光っていて、ロウソクとかホタルみたいな健気さでひとりで頑張っていた。暗い部屋に一筋のひかりが、新しい出会いに対する私の興奮を加速させた。
初めてのライブハウスは息が苦しかった。緊張もあるし、どんなふうに動いたらいいかわからない。内輪の空気感がぶつかりあって成り立っている雰囲気。ステージの上の人間は思いを発露することを許されていて、客は客席にしばられてただ流れてくる音楽を受け入れざるをえない。客が思いを発露することは許されないような雰囲気。
内気でおとなしい少年にみえたあの男の子が、おっきな声でギターを弾いて歌っていた。とてもうまいとはいいきれなかったけれど、息をつく瞬間や曲と曲の間の表情と、耳がぶちぬかれてそこからお昼に食べたごはんが出てきそうなほどの爆音に、すいこまれていったのであった。
音楽を聴くことは人間にとってかなりのストレスなのかもしれないと思った。人間の耳や心に作用して苦しさに拍車をかけ、おかしな状態にしてしまう。だからそういう強いストレスに耐えるために、人間の脳は脳内麻薬をつくりだして、体全体を気持ち良くする。人間はばかだから、気持ち良くなったのが麻薬のためではなくて音楽のせいだと思い込む。だから音楽を好むようになる。パブロフの犬なのだ。パブロフの犬は耳がいいくせにうるさい蓄音機に耳を傾けて、主人の罵声を聴き続け苦痛のあまり自家トリップを実現するのだ。ビクター犬の顔はラリっている顔だ。そういうことで音楽の体験は苦しければ苦しいほど美しく嬉しいものになる。
その日のライブは、その日から始まった小さな恋の苦痛が混ざったためにかなりの量の脳内麻薬が使用された。
はじめてのライブを聴かせてくれた男の子のバンドは、I Think Otherwiseといった。わたしたちはその名前を略して、アイシンクとかITOとかイトウとか呼んでいた。麻薬を求めてジャンキーのようにアイシンクのライブにかよいつめ、看護実習前日もお構いなしにライブへ行って終わりに飲み明かし、そのまま家にも帰らずお酒の匂いをさせながら実習へ行ったことも何度もある。
じぶんの人生のほとんどすべてを捧げていた母を失ったショック。…といえば聞こえはいいが、学生時代の私は母を失ってから、かなりのふぬけだった。大学もさぼりがちで、家や映画館で映画ばかり観ていた。恋人もおらず、こんな不遇な人生を生きているのは自分だけだと思い込み、友人からもすこし距離をおいていた。おしゃれでまじめで頑張りやでかわいいものが大好きな彼女たちとは一緒にいても違和感しか感じられなかったから、常に自分は中身がからっぽのニセモノの人間なんだと思っていた。
アイシンクの「君はただのサイボーグ」を聴いた時、わたしがイメージする美しいロボットの稼働と悲哀を全部音で説明したようなサウンドに興奮しつつ、ああ私もただのサイボーグだ、と思ってこっそり泣いた。私はニセモノなのだ。アイシンクの人々や、ここにいて演奏したりお客として音を楽しんでいる人たち、大学で頑張っている友人たち、彼女らはほんものだけれど、わたしはニセモノだ。音楽に詳しいわけでもなく、何ができるわけでもなければ、何かを頑張っているわけでもない。わたしはニセモノなのだ。ホンモノになんてなれやしないのだ。
帰り道もずっと泣いていた。どうせわたしはニセモノだし、と思うと電車内で涙を流すことも恥ずかしくなかった。みんなわたしのことなんか見えないのだから。
ーーーーーつづくーーー