小学校は、歩いて15分の児童数1.000人を
こえている学校に通いました。
わたしがかけっこが、
めっぽう速いということに
気づいたのは、
小学校1年生の運動会でした。
当時、運動会の花形は
地区対抗リレー。
まだ、娯楽が少なかった時代で
運動会には
おじいちゃんもおばあちゃんも
近所の人も楽しみにして
観覧する・・・
という時代でした。
部落リレーの時は
テントからはみだして
応援する大人たち・・・
てんやわんやな特別な雰囲気でした。
地区対抗リレーは、
1年生から6年生まで
グランドを半周(たぶん80mくらい)づつ
バトンパスをしてつなぐのです。
わたしの地区は予選を通過して、
決勝に残りました。
そこで、
6年生のお姉さんはるみちゃんが
「大丈夫、お守りの石をあげるね」
ってスタート前にくれたのを
覚えています。
ヨーイ! バーン!!
夢中で2年生のゆかちゃんの
ところまで
走りました。
1番でバトンを渡したような
そんな気はしました。
で、6年生のはるみちゃんは、
大接戦でゴールになだれ込み
倒れこんでゴールしました。
ぎりぎり優勝したのです!
部落リレーの優勝で
地区は大賑わい、
お祝いの食事を大人も子供も
一緒になって喜びました。
それから、
母とスーパーに買い物に
いくと度々
「運動会の時に、すごく速かったお嬢ちゃん?」
と声をかけられることがありました。
その時の母はとっても嬉しそうでした。
どうもわたしは、ぶっちぎりで
速かったらしい。
その後、
5年生、6年生になると
市内10校の小学校で
陸上競技を競う
市内体育会という競技会に
出場するのです。
100メートルに出場し
市内体育会で優勝したのです。
かけっこがはやいと
目立つし、
なんだか人気者になれます。
勉強は普通でしたけど
学級委員には、
毎年選ばれていました。
ただ、そんな目立った小学生でしたが、
実は家では暗かった・・・。
ちょうど、
小学生の頃、
母が内臓の病気で入院して
親戚の本家のうちから学校に通っていた
時期があります。
兄妹3人、
本家の家から学校に
通っていました。
ちょくちょく
おばさんが嫌みのようなことを
言われ、小学生なりに
とっても傷ついた記憶があります。
母に変わって、
保護者会の三者面談に
きてくれたおばさんが、
「この子は、ごはんを食べる時
くちゃくちゃ音がするような
食べ方を学校でもしていませんか?」
みたいなことを担任の先生に
わざわざ、言った叔母さんに
深い悲しみの思いが湧いた記憶が
あります。
自分の味方じゃないんだという
悲しさ。
必死に我慢して
こっそり布団の中で泣いたりしてました。
確か、小学校2年くらいだったと
思います。
母が退院したと思ったら、
今度は父親が
数か月入院。
それも精神的な病気です。
父はとても繊細な人で
たぶん、いい人だったので
仕事でのストレスが重なっていたようです。
ずいぶん、あとになって
同僚だった人から
父が上司から勝手に誤解をされ
公衆の面前で罵倒されたのが
きっかけになって、病になったと
いうことを知りました。
父の精神的な病は
退院したあとも
急に治おるわけではなく、
日によっては、
とても
些細なことを注意したり、
ひどいときは、
部屋の片づけができていない!
と本棚をひっくり返さりたり。
そういう父を見るのは悲しかったし、
それを嘆く母をみるのは、
もっとつらいことでもありました。
小学時代のかけっこの速さとは
裏腹に家庭は
父母が健康ではなく、
長女のわたしは、小学生のクセに
なんだかネクラな感じでした。
自分の感情を素直に表現すると
いうことがイマイチできない
小学生でした。
なんとなく、グレー色の時期です。

