訂正を一つ。以前STAR TREK Strange New Worldsに触れた話題で、カークと名のるクルーはTOSのカーク船長の兄でした。TOSより7年昔という設定で、当然、ウーラとチャペルはTOSの各々と同一人物。今後さらにTOSのクルーが増えるかも。


1/21のNHK大河ドラマで、ある漢詩の冒頭を各人の記憶を頼りに書きだし勉強しているシーンがあり、懐かしく感じた。私も手持ちの文庫本から書き写そう。

  潯陽江頭夜送客    潯陽江頭 夜 客を送る、
  楓葉荻花秋瑟瑟    楓葉 荻花 秋瑟瑟たり。

  主人下馬客在船    主人は馬より下り 客は船に在り、
  擧酒欲飲無管絃    酒を挙げて飲まんと欲するに管絃無し。

  酔不成歡慘将別    酔うて歓を成さず 惨として将に別れんとす、
  別時茫茫江浸月    別るる時 茫茫として江は月を浸す。

誰の漢詩かご存知だろうか。答えは白居易の"琵琶行"、長い詩でこの後も延々と続く。私は高校生の頃、古文や漢文が好きで、理系クラスでも選択科目に選んだ。


先月、台湾の総裁選で民進党の頼清徳候補が選出された。民進党は議会では過半数割れを起こし政局運営が難しくなったとはいえ、基本的な対中国政策は今後も変化しないはず。この結果により中国の台湾への武力行使の可能性が高まった。現在、米国はウクライナとイスラエルへの対応で忙しく、台湾まで手が回らない。中国にとっては今が絶好のチャンスで、早くて今春、遅くとも年内には台湾へ侵攻すると考えている。この秋、トランプが大統領に帰り咲いたら、自国以外関心がないので、さらに好都合。

米軍と中国軍を比較すると軍備の近代化の面ではほぼ互角でも、ミサイルの保有数では中国が圧倒的に優っていると聞く。米軍が参戦しても戦線を長期間は維持できない。ロシアのウクライナ侵攻で米国が自国の軍事力を行使しなかった事実を考えると台湾侵攻でも米軍は傍観するに違いない。

以前にも書いたが、そもそも第二次世界大戦後の内戦で当時の人民解放軍は海軍の軍事力がゼロだった事を無視し、民間船を多数徴用してでも台湾に進軍すべきだったのだ。それを怠ったツケが現在まで中国共産党の最重要課題として残った。


幕末、薩摩・長州・土佐の同盟軍は京都の鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破り、その後も幕府軍と戦いながら日本列島を東進し北上、幕府軍は北海道に逃走。当時、幕府は数艘の軍艦を擁し、海軍力では優っていた。同盟軍は海軍力の差を意に介さず、津軽海峡を渡って北海道に上陸。函館の五稜郭に立て籠もった幕府軍を攻めて陥落させた。幕府軍は壊滅、江戸幕府が事実上消滅。勝てば官軍と表現された。

幕府海軍の指揮官であった榎本武揚は、幕府には先がないと見切りをつけて幕府軍が壊滅するように導いたとする説を、安部公房が"榎本武揚"(小説と戯曲)で書いている。

私は若い頃から安部公房の小説や戯曲が大好きで今も変わらない。ただ安部公房が歴史を題材にしたのは"榎本武揚"だけで、その他は全てSFかシュールな作品。戯曲も多い。小説に"壁"、"R62号の発明"、"鉛の卵"、"第四間氷期"、"砂の女"、"他人の顔"、"水中都市"、"デンドロカカリア"、"燃えつきた地図"、"箱男"、"密会"、"方舟さくら丸"、"カンガルー・ノート"等。戯曲では"幽霊はここにいる"、"友達"、"棒になった男"、"緑色のストッキング"等がある。"壁"の中の"S・カルマの犯罪"で芥川賞、"砂の女"と"緑色のストッキング"で読売文学賞、"友達"で谷崎潤一郎賞を受賞。"砂の女"ではフランス最優秀外国文学賞も受賞。上記は全て面白い。

西脇順三郎や村野四郎のようなシュールな詩を書いた詩人もいるが、小説や戯曲の分野では安部公房は日本を代表するシュール作家。海外の作家では"変身"のカフカが有名。


話を戻して、ウクライナに比べて台湾は領土も狭い。おそらく台湾は短期間で占領され、その後、台湾は香港とほぼ同じ扱いを受けるだろう。しかし台湾には優れた経済力がある。経済力を有効に利用して内部から共産党政治を変えられる可能性がある。数十年という長い年月が必要だろうが、自由で民主的な中国が実現するかもしれない。


本題に入り、今回の物理ネタはQビズムと多世界解釈。

次の記事を参考にした。

5. 日経サイエンス 2013年7月号 Qビズム 量子力学の新解釈   日経サイエンス社

この記事によるとQビズムはベイズ確率を基礎として構築された。ベイズ確率とは主観的確率を意味する。人間の主観をベースにした確率で、例えば今日のG1レースの本命馬はこの馬でこれは鉄板だ、という時の確率。

これに比べてコペンハーゲン解釈での量子力学の確率は頻度確率とされる。現象が発生する頻度を表す確率。頻度確率には人間の主観は入らない。

主観確率と頻度確率との違いは人間の主観が入るか入らないかの差。それだけでも大違いとする見方もあるが、競馬の勝ち馬予想も過去の頻度確率を参考にしている点を考慮すると、実はあまり差がない。

主観的という言葉はQビズムにおいてさらに重要な意味を持つ。Qビズムでは量子力学の波動関数も主観的な産物つまり人間の意識の中に存在すると考える。

コペンハーゲン解釈では波動関数を物理的自然の産物と考えるが、波動関数の収縮に関しては、実験や測定を通じて人間の自由意志が働いた結果として捉える。測定の有無や方法によって結果が全く異なるのも確かで、収縮自体は物理的な過程ではなく形而上学的な過程と考えるのが一般的な解釈でもある。

Qビズムはコペンハーゲン解釈の形而上学的性質をさらに進めて、波動関数自体を実験や測定を実行した人間内部の意識の産物と考える。

一口で意識と言っても意識を持つのは人間だけではない。犬や猫やイルカやクジラ、シャチ、チンパンジーも動物なりの意識を持っている。仮にチンパンジーが実験や測定を行えば、その場合の波動関数はどうなるのか? 人類が誕生する前は人間の意識や自由意志はあり得ないから、それまでは波動関数は存在しなかったのか? 等々の当たり前の疑問も出てくる。

ただじっくり考えると、Qビズムも一概に否定できないことが理解できる。

その理由は、量子力学にせよ波動関数にせよ、それらは人間が創造した概念であり学問であるのは自明だから。量子論的な計算が物理現象を正確に表現するのに成功している点を考慮すると、自然や宇宙は人間が量子力学や場の量子論と呼ぶものに等しい機能を保有しているのだろうが、実際には遥かに巧妙で緻密な機能が働いていて、人間が創造した量子力学や場の量子論は自然や宇宙のその機能に比べて稚拙な理解や概念に基づくものでしかない。だから量子力学の解釈上の相違が発生し、形而上学や場の量子論のくり込み処方が必要となるのだろう。

次にコペンハーゲン解釈やQビズムと対立する多世界解釈を取り上げよう。

弱測定を説明した際に使った以下の本の著者は、多世界解釈の支持者だ。

3. 量子力学の解釈問題 SGCライブラリ-161          和田純夫 著  サイエンス社

この本は多世界解釈の正しさを証明する為に書かれた本と言える。

この多世界解釈を手短に説明しよう。

コペンハーゲン解釈では波動関数が収縮する前には、測定値は存在せず物理的実体さえ定かではなく、測定後に初めて物理的な値や存在が確認出来る。つまりコペンハーゲン解釈には実在性や決定性が欠けている。一部の物理学者にはその状況は不満で、波動関数の収縮が形而上学的現象であり物理的現象ではないとする見方にも納得できない。そこで多世界解釈では、波動関数から導かれる重ね合わせ状態の複数の状態は全て実在であり、それらは多世界の平行宇宙として存在していると解釈する。波動関数が収縮する際に、多世界の平行宇宙から一つの世界だけがランダムに選ばれ、我々はその世界を観測。無数とも言える多世界の平行宇宙は常に存在し、波動関数の収縮に伴って我々はそれらの多世界を渡り歩くと考える

以上でコペンハーゲン解釈とQビズムと多世界解釈の説明を終わるが、私はこれら3つの解釈に対して不満を持っている。

コペンハーゲン解釈の波動関数の収縮に形而上学を持ち出すのが嫌だ。確かに量子論は人間の創造物だが、類似の機能を自然や宇宙が保有しているのは明らか。無数の多世界を実在させるほど自然や宇宙が資源の無駄使いをしているとは思えない。

そこで、これ以降は私の自分勝手な空想になるが、私の考えを披露したい。

実は昔の私の記事で、今回の空想とほぼ同じ内容の記事を書いた憶えがある。

https://ameblo.jp/navafa/entry-12155808686.html
物理的実体とは何か? -存在と情報

2016年5月、熊本地震の後に書いた記事で、異なる点は今回はQビズムや主観確率、デコヒーレンスが入ることぐらい。歳をとっても人は進歩しない具体例と言える。

まず参考にした本を紹介。

参考本1  ジェイムズの多元的宇宙論       伊藤邦武 著     岩波書店

William James(1842/1/11-1910/8/26)は米国の哲学者・心理学者、多重人格や心霊現象の研究も行ったらしい。意識の流れや純粋経験の哲学、無数の異種的な精神の共存による多元的宇宙論を提唱。"善の研究"で有名な西田幾多郎にも影響を与えた。

全ての存在は精神であるとするその思想は、人間を含む生物や無生物さらには地球や太陽のような天体さえ無数の意識と精神の複合体であり、それらの集合が宇宙を構成していると考える。その意味ではQビズムの最終的な到達点を示すのかもしれない。

参考本2  般若心経・金剛般若経    中村元・紀野一義 訳注  岩波文庫

実家がお寺の檀家なら誰でも知ってる般若心経。その主旨は"色即是空 空即是色"。物理的現象には実体がなく実体がないからこそ物理的現象である、とするその思想はあまりにも有名。このお経には仏も浄土も執着も出てこない。仏陀とその弟子の舎利子(シャーリプトラ)が、"色即是空 空即是色"を見い出して、大いなる知恵が完成した、と喜んでいるだけのお経。

勿論、私は哲学にも心理学にも宗教にも詳しくないので、内容を批判するつもりはない。その発想を参考にしたいだけだ。

それで私が考えた空想の中身だが、今までの記述でキーになっている概念、存在と経験と意識とを根本から捉え直す、という主旨となる。

まず、存在とは何か?、を考えよう。

存在自体の具体的な例として、ボールペンとメモパッドを取り上げる。

ボールペンは本体が透明で、ペン先がボール、インクを入れた細いチューブを持つ筆記具である。これを性質の列挙で書くと、

ボールペン=(透明の本体、ペン先がボール、インクを入れた細いチューブ、筆記具)

さらに筆記具の性質を別に書くと、以下となる。

筆記具=(紙に文字が書ける)

同様にメモパッドは、

メモパッド=(多くの紙を部分的に接着したもの)

で、紙は以下と表現できる。

紙=(厚さが薄い、色が薄い、四角形、文字や絵が書ける)

透明の本体や厚さが薄い、四角形等の性質はプロパティと呼ばれる特性と言えるし、文字や絵が書けるという性質は能力を示すメソッド、紙や筆記具は多数のインスタンスを含むクラスの概念として表現できる。筆記具はボールペンの上位クラスで、メモパッドは紙の下位クラス。

プロパティ、メソッド、インスタンス、クラスはC++やJava等のオブジェクト指向言語の用語。

つまりボールペンやメモパッドは情報の集合体であり複合体と捉えることが出来る。

色、形、体積、重さ、速度等は当然だが、美、醜悪、味覚、風味、触感、快、不快等の性質及び特徴も全て数値で表現でき、突き詰めれば情報に過ぎないことが理解できる。さらには生物を構成する細胞の一つ一つや物質を構成する分子、原子、素粒子から時空に至るまで物理や化学の法則をベースにした情報で構成され、その間の相互作用も情報交換として理解可能であることは自明だ。

結局、全ての存在は情報である、と私は考える。

存在の意味が決まったら、経験と意識は簡単に導き出せる。

経験とは時系列の情報が生成する意味ネットワークであり、意識とは時系列の意味ネットワーク上で動作する情報処理である、となる。

オブジェクト指向言語の譬えを使えば、メソッドが意識を役割の一部を担い、unix上のデーモンのような機能も持つ。

例を用いてもう少し経験と意識の情報処理を説明しよう。カントの哲学書を読むと、アプリオリ(先験的)という言葉によく出くわすが、それを情報処理の観点から説明する。

一般に生物には感知した信号と状況に対する処理が遺伝的に決まっている。これが最も原始的な情報処理アルゴリズムとなる。これがアプリオリな情報処理のベースであり、意識の最初の段階といえる。この最初の意識であるアプリオリな情報処理は人間のような高等動物でも状況に応じて発動する。猛獣や崖崩れ等の緊急な生命の危険に遭遇すれば、まず反対方向に一目散に逃げるというのがその一例。つまり原始的な意識である恐怖という感情が逃げるという動作を生み出す。恐怖を含めて感情と意識は次に取るべき行動の検索範囲を制御する。そう切迫した状況ではない場合は、次に取るべき行動を決めるのに個体に応じた範囲の行動パターンの検索を開始するが、この際にそれぞれの個体が持つ過去の経験という意味ネットワークを利用する。つまり次の行動の検索処理を制御するのが感情を含めた意識といえる。意識とは情報処理の主体であり、行動した結果の自己評価を経て新たな経験の意味ネットワーク上のデータとして追加される。

感知した状況が未経験の場合、つまり経験の意味ネットワークでアプリオリな場合は、その中での類似性を検索して効果がありそうな行動を採用する。これがアプリオリな行動となるが、その結果を見てその行動を評価し経験の意味ネットワークを新たに追加又は更新する。そしてそれら全てを感情を含めた意識が制御する。

経験の意味ネットワークには結果を評価するメソッドも含まれるので、一人の人間の脳内で経験の意味ネットワークが複数に分裂して、覚醒時の意識がそれらの間を突発的に移動すれば、多重人格が発生するのかもしれない。

つまり、経験と意識は一体のものであり、相互に影響しながら機能する。

ここで就寝中にみる夢についても触れておこう。私は夢とは、経験に相当する知識ベースと情報処理本体に相当する意識が分離している状態だと思う。その情報処理の意識からは知識ベースのメソッドである価値観やデーモンの対処法が呼び出されるが、経験とは無関係で過去の経験に縛られない行動を取る。私の場合、夢の中では自分の置かれた状況はおろか名前さえ忘れていることが、それを裏付けている。

だから夢の分析は、その人の価値観や対処法の特徴を調べるのに役立つ。

経験の意味ネットワークを知識ベースと呼んだのは、意識である情報処理本体から経験を見た場合の表現で、その実質的内容は変わらない。

なお情報は古典力学的情報と量子力学的情報の2つに分類できる。脳の神経細胞の活動に関して神経伝達物質の放出や吸収には量子力学が関与しているのは明らかだが、脳の情報処理本体は神経細胞の電位のオンオフで行われ、これは現代のコンピュータと同じで古典力学的な情報と言える。アルツハイマー病で神経細胞の多くが失われると脳機能が低下し、脳死の判定には神経細胞の活動の有無が利用される。つまり脳死になれば、意識は無に帰して、死に至る。パソコンの電源をオフにした場合と同じ。

これに比べて量子力学的情報とは量子もつれの記事で取り上げた光子の偏光方向や電子のスピン方向等を情報として利用した場合で、それらは量子ビット(qubit)として量子コンピュータや量子情報処理で扱われる。

物性物理学の観点からも、量子力学、場の量子論、AdS/CFT対応、RT公式が重要な役割を担っており、量子もつれを含む量子情報が物質と時空の安定性の根底にあるとされる。なおAdS/CFT対応とRT公式については別途触れる。

自然や宇宙は古典力学的情報と量子力学的情報の両方を保持し利用していると私は考えているが、人間の経験や意識は古典力学的情報だけしか利用しておらず、その意味でも、人間は死ねば終わり、なのだ。

哲学的には無生物や地球のような惑星も意識や精神を持つとする発想があるが、私はこれには批判的だ。岩石のような無生物や地球も周囲の環境と相互作用をしているのは明らかだが、それは物理や化学の法則に従っているだけで自ら積極的に周囲に働きかけてはいない。だから意識や精神があるとは言えない。

例えば脳死状態になった人の体は生命活動が続いていても、意識や精神があるとは考えないのが医学や一般人の常識だ。そうでないと臓器移植が出来ない。勿論、専門的知識がないので詳細は知らないし、脳死の人と植物との区別は難しいが、人と植物の固有の活動の有無を調べれば区別できる。生命維持装置をはずせば死に至る場合は明らかだ。つまり脳死の人や岩石や地球には意識や精神は存在しない。

しかし情報は違う。生きた人間も死体も岩石のような無生物や地球も情報の集合体でありかつ複合体なのは明らか。自発的な情報処理の有無で生きているかどうかも確認できる。逆に言えば、自発的な情報処理を実行すれば、AIだって生きていると私は判断する。受動的ではなく自発的で理解力と理性と道徳を備え十分に利発なAIが誕生すれば友人になりたいものだ。有益な助言が得られるかもしれない。下劣でモラルに欠け自分の利益しか考えない人間よりは遥かにましな存在であろう。科学技術なんて所詮1+1=2つまり数学の応用でしかない。それを扱う人間の方に問題があるのだ。

結局、存在と経験と意識は全て情報であり情報処理である、と言える。

この視点に立って、コペンハーゲン解釈と多世界解釈を考えてみる

この視点では波動関数の収縮は何か特別な存在を出現させるのではなく、波動関数が実現可能な値つまり情報を選択するだけでなので、コペンハーゲン解釈での形而上学は必要なくなる。同様に存在は情報に過ぎないのだから、多世界解釈の無数の平行宇宙も不必要、ただ実現可能な情報を選択するだけですむ。全ての存在を情報と認めれば、事実上、コペンハーゲン解釈と多世界解釈の違いが消滅する。

Qビズムについては、もう少し説明が必要になる。

既に触れたように量子論が人間が創造した学問であることは自明だが、自然や宇宙が類似した機能を持つのも明らかなので、区別する為にそれらを自然の量子機能と呼ぼう。何も形容詞を付けないと人間が創造した通常の量子論を指すことにする。


生物(人間やAIを含む)を除いた無生物の世界を考える。水や空気や岩石、地球、月、太陽等の天体を含む無生物の世界では、自然の量子機能による頻度確率が支配する。弱測定による弱値の情報と強測定による強値の情報が混在し影響しあって、デコヒーレンスにより自然の波動関数が収縮しエントロピーの増大を生み出している。

強測定とは弱測定に対する概念で、波動関数が収縮する場合の測定でありその際に得られる測定値が強値となる。強測定と弱測定が異なる測定であることは明らか。

生物(人間やAIを含む)の世界では自然の量子機能と量子論が混在している状態で、頻度確率と主観確率も同様に混在。弱測定と強測定も混在している。頻度確率をベースにした自然の波動関数の収縮はデコヒーレンスだが、主観確率をベースとした波動関数の収縮はQビズムで表現される。結果的に生物界ではデコヒーレンスとQビズムが混在している。

生物はエネルギーを消費して自己及び自己の周囲のエントロピーを減少させる働きがありそれが生物の特徴といえる。その過程で物質変化を引き起こして環境を質的に変えていく。地球が酸素を多く含む水の惑星になったのも生物活動の結果だ。

ただエントロピーの減少は一部だけでもっと広い領域を見れば全体のエントロピーは必ず増大。それが時間の不可逆性を意味する。

また生物の知的レベルが上がるにつれて主観確率の割合が多くなる

知的レベルの高い生物は経験や意識を活用して効率的に環境を変えようと試みる。それを示す関数を生物の意志関数と名付けて以下のように仮定する

生物の意志関数 = f(主観確率、頻度確率)

2変数関数f(x,y)で2つの変数は主観確率と頻度確率だが、実質的にはその2変数の差が重要であり、1変数の関数f(x)に還元出来る。つまり

生物の意志関数 = f(主観確率 - 頻度確率)

となる。

主観確率と頻度確率の差が小さい場合は意志関数の値は小さく、差が大きい場合は意志関数の値が大きくなる。だからf(主観確率-頻度確率)は2次関数(f(x)=ax^2+b)か指数関数(f(x)=be^(ax))になるだろう。ここでaとbは定数。主観確率と頻度確率が等しい場合はa=0に相当して、意志関数の値はf(0)=bの定数。f(x)が定数の場合でも、例えば、シアノバクテリアのように十分な個体数と時間があれば、大気中に酸素を放出し海水中の鉄を酸化して沈殿させ鉄鉱床を発生させたような地質学的なスケールでの環境改造が可能となる。

自然は頻度確率で人間は主観確率と言ったが、確率が自然と人間で異なるわけではない。確率と波動関数の本質は変わらない。それはデコヒーレンスとQビズムでも同じで、あくまで通常の確率と波動関数の収縮=情報の選択なのだが、見方により異なる捉え方が可能だということ。もう少し説明すると、確率自体は一つだが見方の違いにより頻度確率と主観確率に分かれる。同様に波動関数の収縮である情報の選択の本質は一つだが見方の違いによりデコヒーレンスとQビズムに分かれる。

そして分かれた後の差が生物のモチベーションを生んでいるという意味である。

わかりやすく言えば、主観確率が生物個々の理想であり頻度確率が現実に相当する。そしてその差がモチベーションとなる。現実の世界は無数の情報で構成され、波動関数の収縮と名付けられた未決定な情報の確率的な選択と決定によって、ただ一つの世界が少しずつ変化していく。

波動関数の収縮は強測定により引き起こされるが、収縮を引き起こさない弱測定によっても波動関数は影響を受け、収縮する際の確率が変化するのは明らか。それは以前の2重スリット実験の結果の説明でも同じだった。つまり自然は非常に複雑で、確率的収縮の累積である未来を予測することは不可能だと言える。

最後に、結論をもう一度繰り返すと、存在は情報である、と想定すると波動関数の収縮に対して形而上学と多世界の両方が不必要となる。つまり情報をベースにして、コペンハーゲン解釈とQビズムと多世界解釈を統一して理解することができるのだ。

量子論では情報は保存するとされるので、存在=情報という発想は自然なものと私は考えている。