S社の入社当初からいた厚木工場には1985年までの勤務で、その後、私の所属する部署は本社圏に移った。1985年から1994年までは北品川の古い自社ビルと五反田駅近くの貸しビルでの勤務となった。1994年から1998年まで藤沢駅からバスで数分の湘南テック勤務。1998年から2005年までは本社圏に戻って様々な建物で勤務した。部署の引っ越しは春から夏にかけてが多かったと思うが正確な日付は覚えていない。

 

厚木工場から北品川の古い自社ビルに移って1年目か2年目、私がまだ30歳前だったと思うが、帰宅時か飲み会でその当時の上司と世間話をしていて、私がふと、

 

「自宅に帰って一人になるとホッとするんですよ」

 

と言うと、すかさず上司に、

 

「そういう性格ならお前は一生結婚できないだろうな」

 

と切り返されてしまい、返答できなかったことがある。

 

後でじっくり考えてみると、その上司の指摘は完全にまとを得た正しいものだった。

 

そこで今回は、まず私の結婚問題について話をしよう。

 

厚木工場時代に、私はお見合いをしたことがあった。相手はまだ短大生でしばらく付き合ったのだが、話をしていると実は彼女には好きな彼氏がいて、その当時彼と上手く行かなくなって見合いをしたのだが、まだその彼に未練があり付き合っているということだった。

 

私とは逆の明るく積極的な性格でそれはいいのだが、無理強いをして未練のある彼と別れさせても後々後悔させるだけかもしれないので、自分の気持ちに正直になる方がいいかも、という話をした。

 

また北品川の古い自社ビルに移って間もない頃、新宿で職場の同僚どうしの結婚のお祝いパーティーが夜にあり私も参加した。その帰り道で職種は異なるが同じ職場の女性に声をかけたことがあった。その女性とは殆ど話をしたことがなかったが、言動を見ていて性格が私と少し似ているように感じていたので、自分の名刺の裏にその当時の自宅の電話番号を書いて渡した。彼女の反応は、私にはもったいない、というやんわりとした拒否だったので、電話番号を尋ねる勇気が出なかった。

 

勿論、彼女から私に電話がかかってくることはなく、彼女は数年後に社内結婚した。

改めて自分の甲斐性のなさを痛感する結果となった。

 

厚木工場から本社圏に移って最初の年は中国ビジネスが本格的に始まった時期でもあり私にも中国赴任の話があった。中国本土で一人暮らしはきついかな、と感じたので当時の婚活サイトに会員登録したが、中国ビジネスは予想した程広がることはなく私の中国赴任の話もすぐ立ち消えになったので、婚活サイトでは殆ど何も活動することなくすぐに退会した。

 

その後も見合いの話は何度かあったが、北品川の古い自社ビルから五反田駅近くの貸しビルに移った後、母が癌で亡くなったことにより変化が生じた。

 

この私の過去の60年を振り返る記事の最初に自閉症と思われる祖父の話を書いたが、その祖父の遺伝子は私だけでなく父や二人の姉にも多少の影響を与えていたようで、私ほどではないと思うが父や姉たちも仲間内では浮いた感じになることが多かったのではないか。母はその点を理解して一人で親戚や部落との関係を良好に保とうとしていたように思われる。

 

私は離れた場所で一人暮らしをしているから詳細は不明だが、その母が最初に亡くなったのだから、その後、親戚や部落との関係が急速に冷えていったはずだ。また私の見合いを裏で画策していたのも母のはずで、母が亡くなった後は私の見合いの話がばったりと来なくなったのは確かだった。私としては帰省するたびに母に結婚のことをうるさく言われていたから、助かったとも言えるのだが。

 

今から数年前になるだろうか、父の法事の際に親戚の叔母さんから、女性より男性の方が好きなの、と問われたことがある。残念ながら好きな女性と上手く行かなかったんですよ、と答えたがそう質問されるのも無理はないだろう。

 

私は経験上女性には魅力を感じても男性に魅力を感じたことはないから、ゲイではなくストレートだと思うが、相手の性別年齢を問わず人間関係が苦手なことも確か。

 

私は人間関係が苦手で自宅に帰って一人になるとホッとする性格だから、よっぽど好きな女性でない限り結婚して子供を持ちたいとは思わない。好きでもない女性と無理に付き合ってでも結婚したいとは全く思わない、だから結婚にも子供にも無縁だろう、とかつての上司は指摘したのだ。まさにその指摘通りだと私も思う。

 

勿論、出世、結婚、子供といった世間一般の幸福を、私は否定するつもりはない。

 

私は性格的に世間一般の幸福には向いていないし、そもそも私には世間一般の幸福は無理かも、と感じているだけだ。

 

その点について、その後の私の仕事の観点からも説明しよう。

 

厚木工場時代以降、プログラマーとしてはお茶を濁すような仕事しかできなかったので仕事の内容の詳細は書かないが、その後の仕事の傾向を考えるとまず思い出すのは新卒の頃C社で聞いたプログラマーの35歳定年説だ。このプログラマーの35歳定年説には年齢以外の意味があることが、20歳代の最後から30歳代にかけての私の経験からわかった。

 

その意味の一つが技術の陳腐化だ。

 

一般に大学新卒で入社して2年余りで技術を習得して、その技術を生かして約10年働くと約35歳となるが、新卒で学んだ技術が10年もすると陳腐化して役に立たなくなるのはよくある事実だと思う。

 

例えば私の場合は新卒で学んだ技術はアセンブラ言語のプログラミングだった。確かにその頃はアセンブラ言語はシステム記述言語であり、私が受験した当時の情報処理試験の1種ではCOMP-Xという仮想コンピュータ上のCAP-Xという仮想アセンブラ言語に関するプログラミング問題が選択ではなく必須問題だった。前回までの記事の内容以外でも1chip CPUでボタン押下を検出して電源Onコマンドの波形を作成し出力するファームウェアやMS-DOSデバイスドライバ等でもアセンブラ言語を使った。

 

ところがその後、システム記述言語はアセンブラ言語からC言語に移っていった。WindowsデバイスドライバやDLLは最初からC言語で記述する仕様だったしファームウェアもC言語で記述できるようになった。

 

さらにC言語はシステムプログラムだけでなくアプリケーションプログラムの開発でも使用されるようになり、オブジェクト指向プログラミングの概念を加えたC++言語も普及していった。

 

以上が私が経験した技術の陳腐化だが、それ以外に技術のスタイルも変化していく。

 

厚木工場時代にCP/MとBDS-Cを使って行ったプログラミングのスタイルはファイル操作以外はハードウエアI/Oポートも全て自分で操作管理する自由奔放なプログラミングスタイルだった。OSのファイル操作以外は殆ど何の知識も必要なかった。

 

ところがその後、MS-DOS、Windows、unix系OS、Visual Studio等とOSと開発環境が変化し進化していくと、それらの知識なくしてプログラミングすることは不可能となっていった。つまり知識集約型プログラミングとなり専門知識を持つ専門家しか手が出せない状況になった。

 

記憶力が劣っていて知識を集め活用する能力も劣る私は、プログラミングに対する興味や関心が薄れていったのは確かだ。

 

もう一つ指摘することがある。それは毎年、若くて優秀な技術者が続々と入社してくることだ。

 

歳のいった技術者にとっては、若い優秀な人が入ってきたな、程度の感慨しかないのだが、10年以上歳の違う若い技術者から見れば古い技術者は生きた化石のように見えることだろう。

 

勿論、誰の責任でもないのだが、年齢が違い過ぎる技術者が一緒に同じ職場で仕事をするのは難しい。また厚木工場時代は開発商品化の項目の規模が小さく私一人で一つの項目を担当していたが、それ以後は開発規模が年々大きくなっていって同じ開発項目を多人数で分担して作業する機会が増えたことも難点となっていた。

 

これらに嫌気がさして、技術部門から他の部門へ異動する人もいると思う。

 

ただ他部門ではその部署により、営業力や企画力、管理能力、調整能力、ビジネスセンス等の能力が要求される。そしてそれらの能力のベースとして人間関係を円滑に運営する能力が必須となるはずだ。勿論、技術部門でも人間関係の能力は必要なのだが、その必要性が一番低いのが技術部門と言える。

 

元々私は営業力や企画力等の能力は持っていないのに加えて人間関係が苦手なので、他部門に行っても成功する見込みはまずない。

 

つまり30歳代の私は仕事の上でも、技術者つまりプログラマーとしても壁を感じていただけでなく、他部門に異動しても成功の見込みがないという八方塞がりの状態にあったのだ。

 

結局、仕事での成功、出世、結婚、子供等の世間一般の幸福と私自身が無縁であることを十分に認識し納得して、それらを諦める時期が私の30歳代に該当していた。

 

さて、今回はかなり暗い内容になってしまったので、気分を変える意味で、最後に私の趣味のことに触れましょう。

 

1980年代の中頃に家庭用ゲーム機が発売された。私もファミコンとスーパーマリオを買ってみたが、予想通りのアクションゲームで手が不器用でアクションゲームが苦手な私はすぐ遊ぶのをやめた。その後、1986年だったかドラゴンクエスト(DQ)が発売された。これはRPGでコマンドを決めて入力するまで待ってくれるので、手が不器用な私でも操作可能で初めてゲームの終わり(エンディング)まで到達できた。

 

1987年にはRPGのファイナルファンタジー(FF)も発売された。ファミコンからスーパーファミコンそれ以降のゲーム機もDQとFFの新作が発売されると購入してはじめ、エンディングまで到達するとやめるということを繰り返していた。

 

DQは新作とともに映像や音楽は進歩してきたが、DQ1からDQ11まで基本的な操作や最初に主人公の名前を入力する方式、主人公がはい/いいえしか答えなくて個性がない点は変わらない。

 

DQは保守的、初期の成功体験に縛られている、とか考えてみたが、やはり低年齢層の初心者向けRPGという見方が一番正しいように思う。

 

それに比べてFFは初期のFF1からかなり変化してきた。既にFF2でデフォルトの名前が決まっていた。経験値によるレベルアップではなく武器や魔法を使えば使うほど強化される方式、共に戦い強化できる登場人物が途中で死んでいなくなる物語等の斬新な内容も盛り込まれていた。チョコボが初めて登場したのもFF2。

 

FF7がプレステで動作し始めた頃にも変化があった。その後にフルグラフィックスの映画が同じゲームメーカーで開発されたこともあって、主人公に名前だけでなく個性や自己主張が盛り込まれた。つまりFFは映画やドラマに近づいていく。

 

FF8以降は主題歌も加わった。Eyes on Me、Melodies of Life、Kiss Me Good-bye等は今でもよく聞く。FF15の冒頭のエンストした車を押すシーンとエンディングで流れる女性ボーカル(Florence and the Machine)のStand by MeはサウンドトラックCDに入っておらず、どうしても欲しかったのでミュージックダウンロードで買った。FF12やFF13も好きだったが、やはりFF15は最高だった。

 

ただ人間関係が苦手な私はオンラインRPGのFF11やFF14は購入しなかった。マルチプレイ方式で他のユーザとパーティを組まなければ物語を進められないから。

 

その点、オンラインRPGのDQ10はサポート仲間というAIシステムを使って一人でも物語を進められるので、例外的に購入した。勿論、私は短時間だけログインして、強敵とランキングを無視し、のんびりマイペースで楽しんでいるライトユーザで、ソーシャルゲームのメビウスFFを含むDQやFFのその他の全てのゲームでも同じです。

 

DQ10の便利ツールを使うと他のユーザのログイン状況が見れる。今は夏休み中だが通常の通学出勤期間中でもウィークデーの午前や午後のかなり早い時刻から頻繁にログインするユーザがいるようだ。おそらく引きこもりやニート、フリーター等のユーザもいるのだろう。

 

引きこもりもニートもフリーターもあくまで個人の選択の自由であり、他人が批判すべきことではないと思うが、何か問題を抱えていてその逃避先がゲームになっているとしたら残念な話だ。ゲーム中毒やゲーム依存症も現実逃避から始まるのかもしれない。

 

私も30歳代の頃は八方塞がりの状態にあり、40歳代で対策を模索することになる。

その話は次回に。