私は子供の頃から普通の人が興味を持つような現実的で実際的な事柄には全く興味がなくて、学生の頃に一番興味があったのは次の2つの問いでした。

(1) この宇宙は何の為に存在するのか?、その存在目的と存在意義は何か?
(2) この宇宙とは何なのか?、どのようにして生まれたのか?

まず(2)の問いについては、物理学がその回答を与えてくれるかもしれないと思い、物理に興味を持つきっかけになりました。そのため理学部物理学科に進みましたし、超ひも理論/M理論やループ量子重力の関連の本や雑誌も読みましたが、すべてこの(2)の問いがもとになっています。もちろん、現在、これらの理論の回答も不十分なものですが、今後も私の能力と時間の許す限り追求していくつもりです。

(1)の問いについては、哲学、宗教、思想、文学がその回答を示せる可能性があると思って、これらの本を読むきっかけになりましたが、これらの書物は膨大な量があるうえに難解なものが多く、私の頭の悪さも手伝って、具体的な結論が全く引き出せないままでいます。

例えばカントの「純粋理性批判」は、その名前の通り理性を批判する書物であり、人間の理性が果たしてどこまで有効な道具として機能するかが考察の対象になっていると思われます。なかでも有名な神の存在証明に関する部分で主張されているのは、神の存在証明には3種類あるが、それぞれが不完全で"神の存在を証明できない"と言っているだけでしょう。もちろん、私の(1)の問いの回答にはなりません。

過去に私が読んだ本の中から、西洋思想に関するものを抜き出してみると、以下のようになりますが、

聖書(日本聖書協会)
コーラン(岩波文庫)
アリストテレス「ニコマコス倫理学」(岩波文庫)
デカルト「方法序説」(岩波文庫)
スピノザ「エチカ‐倫理学‐」(岩波文庫)
ルソー「エミール」(岩波文庫)
ショーペンハウアー「存在と苦悩」(白水社)
西田幾多郎「善の研究」(岩波文庫)

これらの中にも、私の(1)の問いの回答になりそうなものは見当たりませんでした。

仏教については、私の理解している限り、(1)のような根源的な問いは時間のムダとして無視されていると思いますし、儒教はもとより老荘思想にも具体的な説明はありません。

上にあげた本の中で、ヨハネ福音書の冒頭の部分"はじめに言葉ありき"は、いわば、言葉=神=宇宙=理念という図式の興味深い主張ではあるのですが、では理念とは具体的にどういう理念なのか? の説明はないし、西洋哲学の中にはこの言葉もしくは理念を継続した思惟と捉えてプラトンの真、善、美などのイデアに結びつけるという考え方もあるようですが、私が思うに新たな具体的説明が出てくるわけでもなく、大差ない内容を難しい言葉で言い換えただけなので、この方法は無意味ではないかと思われます。

また学問的には、意味は状況であるとする状況意味論があります。この立場では、刻々と変化する状況に応じて目的や意味が変化するというもので、絶対的な目的や意味は存在しないという主張になると思います。これはこれで正しいと思うのですが、しかし、私が(1)の問いで興味を持っているのは、状況を超えたところにある根源的な目的や存在意義とは何なのか? ということなので、(1)の問いに対しては状況意味論は役に立ちそうもありません。

ところが、私は、(1)の問いに対して、ただ一つ誰でもわかる簡単な回答があると思います。それは、”宇宙は存在するために存在する、宇宙の存在自体がその目的でありその存在意義である”というものです。これは明らかに正しいと思うのですが、自明すぎて面白くありません。またこの主張から導かれる行動規範は、”みずからの心のままに自由に生きよ”という自由主義の行動規範になり当たり前すぎてあまり役に立ちません。

というわけで、結局、既存の思想に満足できないならば自分で見つけ出すしかないという結果になります。もちろんその結果得られたものが既存の内容と大差ないとしても、それは仕方のないことでしょう。

さて、いよいよ私自身の思索を説明しますが、まず足掛りとして、(2)の問い"この宇宙とは何なのか?"の回答の候補である物理学の方法論から始めようと思います。私が思うに、物理学とはこの宇宙いわゆる物理的自然を抽象化し普遍化して物理的概念と物理法則にまとめ、その二つを使って多様な自然現象を説明するという作業です。この作業の中で重要なことは、普遍性と多様性のバランスを取ることです。そのバランスが取れないと目的とする結果が得られません。

これは(1)の問いについても同じだと思います、つまりキーワードは普遍性と多様性という二つの言葉になる、と私は思うのです。

その他には、キリスト教に代表される愛という理念もありますが、この言葉は宇宙を構成する個々の要素間の関係や動機付けを規定するには最適な言葉だと思いますが、その存在目的や存在意義を探る道具としては少し弱い、という感じがします。

そもそも学問や芸術においても、普遍性と多様性は重要なキーワードです。個々の学問の研究成果や芸術作品が多様性それ自体に相当することは明らかですが、それぞれに普遍性を追求していることも確かです。例えば私の好きなシェイクスピアの作品はその詩的表現の見事さに加えて、「ハムレット」では憂鬱を、「オセロウ」では嫉妬を、「リア王」では怒りを、「マクベス」では野心を、「ロミオとジュリエット」では若く性急な恋を、「アントニーとクレオパトラ」では老練な男女の愛を表現しており、これらの感情表現は優れた普遍性をもっています。もちろんこれ以外にも「空騒ぎ」や「お気に召すまま」などの喜劇も非常に面白いし、歴史劇の「ヘンリー四世」のハル王子とフォールスタフのやり取りも絶品です。

さて普遍性と多様性というキーワードをもとに、(1)の問いの考察をもう少し進めます。物理において普遍性は物理法則という形で表現できます。つまり個々の宇宙には固有の物理法則があると言えます。逆に言えば、物理法則を決めれば宇宙が決まる、物理法則に従って宇宙が生まれる。ということは、物理法則つまり普遍性は宇宙を存在させる手段ではあるかもしれないが、宇宙の存在目的ではないし、その存在意義でもない。

ヨハネ福音書の"言葉"とは、極論すれば普遍性という理念であって、物理法則とも言えるでしょう。余談ですが、ギリシャ哲学の"万物は流転する"とは、物理法則が時間に依存することを意味していると思います。

では多様性はどうでしょう。物理法則は時間に対して対称になっています。つまり物理法則だけ見ると、時間はプラス方向に流れてもマイナス方向に流れても不都合はないように見えます。ところが、実際にはこの宇宙では時間はプラス方向にしか流れない、つまり時間は可逆的でななく不可逆的に流れる。例えば淹れたての熱いコーヒーは放って置くと冷めるが自動的に熱くなることは決してない。これは大学の教養過程で学ぶ熱力学の第二法則、いわゆるエントロピー増大の法則です。

またシャノンの理論によるとエントロピーは情報量としても定義できる。さらに、情報量が増大することは多様性が増大することを意味することは明らかです。繰り返すと、この宇宙では時間が不可逆的に流れる、その結果エントロピーが増大する、つまり情報量が増大する、言い換えれば、多様性が増大する。結論として、

明らかに、この宇宙の存在目的と存在意義は多様性の増大にある、と言えます。

多様性の増大という視点で、人類の存在目的及び存在意義を考えてみる事も有意義だと思います。人つまりホモ・サピエンスはこの地球上に現れた生物種の中で唯一地球外にその生活領域を広げることが可能な生物だ、と私は思います。そして人が地球外に進出する場合は地球の動植物や細菌、バクテリア等も一緒に連れて行く。そしてテラフォーミングの過程で地球で生まれた生物種が地球以外の惑星や衛星に根付いていくでしょう。その一部は人類の滅亡後も生存し、地球外の環境で新たな進化をとげる可能性もあります。つまり人とは地球上の生態系を他の惑星や衛星に広げるとともに、その多様性を著しく増大させることが可能な生物種なのです。

もちろん人類は時間的にも空間的にも膨大な人口を擁するので、その中での各個人の役割は非常に微々たるものになるでしょうが、決してゼロではありません。また多様性の増大という視点から行動規範を導いた場合は、必然的に、”個々の多様性を尊重する”という行動規範が得られます。これは最近の国際情勢や社会現象を考えても十分に有益な行動規範になると私は思うのです。