ある小学校で毎週、講師としてアートを教えています。
「教える」というよりもまぁ、子どもの”これがやりたい”のサポート係、という認識です。
よくある図画工作の授業のように、
お手本があって、それに習って描く、ということは、
基本的にはやりません。
自然や動物関係の図録や絵本、科学本などを
見るか見ないかにかかわらず
どんと机の上に置いて、いつでも自由にみられるようにしていて
子どもがこれを描いてみたい、となって
どうやって描くの?描いてみて、と言われたら、
描いて見せます。
自分で描きたいものを選んで、
黙々と描く子
一方では、紙粘土やボール紙を使って
工作する子、
お話を考えて、絵本を作る子もいます。
私はというと、
うろうろ見回って、それぞれに声をかけたり
「見て見て!」とそでを引っ張る子の作品を見て、
質問したり
自分の世界に没頭している子はそっとしておいて、
それを見ているほかの子どもたちと遠巻きに
「こんなとこがいいよね、スゴイよね」と感想をいい合ったり
(本人は聞こえないフリしていても聞いている)
子どもたちの作品から刺激を受けて
おもむろに絵を描き始めたりします。
(半分意図的でもあります)
それを見つけた子どもたちが
「それなに描いてるの?やらせて」
となったら、筆を渡して、続きを好きなように描いてもらう。
技術はそんなふうにして、伝えていくようにしています。
この間、授業参観がありました。
親は子どものやり方がもどかしくて、
「こうした方がいいよ」
「それじゃあ、違うことになっちゃうよ」
と子どもが作ろうとしているそばから、
「アドバイス」してしまう。
しかし、子どもは「うまくやろう」としているのではない。
いや、”うまく作りたい”とは思っているだろう。
でもとにかくまずは、
自分が「やってみたい」と思ったことを
ただ「やってみたい」だけなのだろうと思うのです。
結果を先回りして、
「こうした方がうまくできる」
なんて言われて、
大人のいう通りにやって上手くできたとしても
子どもは自分の力でやったのではないから
心の底から満足することはできない。
「自分で出来た」
「ここはちょっと上手くいかなかったけど、自分でここまで出来た」
その実感が、ほしいのであって
大人の尺度と価値観で決められた出来栄えなんて
どうでもいいこと。
自分で作り上げた
小さな成功体験。
それこそが必要なものなのだと思います。
そのうち、
これを自分以外の誰かに喜んでもらいたい、
という意識に変わっていくでしょう。
自分が自分に満足できていなければ、
自分を認証してもらうことばかりに必死になり、
やがて自分を見失ってしまう。
まずは、自分の心を喜ばせること。
誰の評価も気にせず。
だから、大人は
子どもから「この部分を助けてほしい」と頼まれるまで、
口を出してはいけない。
好きなように、やらせておく。
私は、
「何か教えてあげなければならない」
「”成果”を残さなければならない」
というエゴは、意識して封印するようにしています。
ただ、どんな分野でも
必要とされたときに
いつでも適格な手助けはできるようにしています。
これまでいろんな技術に興味を持って
一通りのことはやってきたから
引き出しはいっぱいある。
今もアンテナを張って
面白そうなことは試して
教室で取り入れてみています。
今学期の授業はあと1回。
次は新一年生がやってきます。
どんな子どもたちに出会えるのか
楽しみです。
