今年のアカデミー賞で北米でのアジア人への扱われ方について

まるで透明人間のようと話題になってます。


最近は本当に便利でこうした小さな差別を

総称してマイクロアグレッションというそうな物申す


そして翻って私。

日本の片隅に住んでなんてことなく

普通の生活をしていますが、

ふとこの事件に親近感を感じたのです。


日本の会社、特に大企業に中途採用で入社して頑張っている人も、

ハリウッドで頑張ってるアジア人同様に

北米に希望を持って移住、留学して頑張ってるアジア人同様

透明人間として扱われていること多くないでしょうか。


この人たち、組織のダイバーシティの先鋒として

またはアイコンとして会社から嘱望されているはずですが

いざその組織で恒例のリーダーを選考する時には霞んで見えなくなる。


嘱望していた活躍が見えない会社は

中途採用者は大人しいなどど職場に発破をかけますが

その時職場は

この問題にどうしたらいいだろうかと

生え抜きリーダーが

もともと中途採用だったが活躍の場を与えず

同じポジションにステイさせること長すぎて

中途採用だったことを忘れて

自分の部下に聞く始末ガーン


こういった環境下で透明人間ができること。

それはいつか社会的評価がフェアな指標になることを願いながら

自分のメンタルやフィジカルを労り優先しつつ、

自分がやりたいこと、出来ること、つまり仕事に集中すること。


社内的評価に当たる瞬間があることは

昨年度のアカデミー賞主演女優賞に勇気付けられる。


また、もう一つ私が言いたいのは、

評価軸の是正を正当に訴えられる場を作る努力と

それができた時に透明人間は積極的に発信しようということ。


評価を世の成り行きに任せるのは奥ゆかしい。

社会が持つ道徳的美学とも合致する。

けれど、それでなかなか状況を打開できない

多くの透明人間達が傷ついているなら

その姿勢は社会に委ねすぎなのかもしれない。

つまり、透明人間の私たちが

既存の社会システムに期待しすぎとも言い換えられるかもしれない。


透明人間のひとりごと。