2011年 皆さんはどんな年でした?

 

そして今日311日は何をされていました?

 

何を想い、何を感じていました・・・・

 

 

私たちの町 柏崎は

 

中越地震があり、中越沖地震があり

二度の震災は私たちの気力や経済力を簡単になくすものでした

 

その頃の私たち柏崎のスローガンは「まだまだ柏崎」という

ものでした。でも皆、空元気で限界だったと思います。

 

多分私も含め建てた家が崩壊して二重ローンで今でもそれは続いていますから

大変な方たちが沢山います。

 

そんな中で少しずつ動き始め、11つ積み上げてようやく何とか

動けるようになり、私は柏崎を元気にする為に、県との動きの中で新しい

施設を作る準備を始め、312日市内扇町、3月の末には長岡、

そして7月には長浜とオープンさせた時期です。

 

とにかく地域を元気にする為

沢山の支援を頂いた方への全国の方々に恩返しをする為に・・・・

 

でも、そこでおこった2011311日 東日本大震災

私が派遣されたときは東北地方太平洋沖大地震という名前の時で

ヨウ素カリュウム丸をもって17時間かけて次の日には現場にいました。

 

また、その年はムラピ火山土石流災害で4月にはインドネシアにいました。

 

阪神淡路からどんな時も、適材適所を客観的にみとて傍観者になることは絶対にしないと決めています。

かならず現場で動き、現場で一番必要なものを肌でもって感じて情報を上げていく・・・

 

そして、それをやり続ける

試されているのだからベストを尽くす

 

だから、震災が起きると東日本大震災の時も、熊本地震の時も最初の朝に

ラジオで全国に呼びかけられるのだと思います。

 

その時に心がけるのが平常心です。

 

私の声が届く時に気持ちを穏やかにして届けると聞いている人は穏やかな気持ちに

なるでしょうし、私が不安で呼びかければ不安になるでしょうしね。

 

でも私も怒る時があるのです。

 

想いがあり出来る環境があるのに

理由を沢山つけて実行しない人 をみた時

 

でもこれは怒るというより、もったいない気がするのかも知れません。

諸外国をみても貧困や戦禍で苦しんでいる人がいる。

この方たちはどんなに頑張っても、今私たちがいる環境までたどり着く

事は簡単には出来ない

 

その環境にいるのに自立できない人たちをみると哀しくなるのです。

 

目の前で倒れている人がいるなら助ければいいし

目の前で苦しんでいる人がいるなら手をさし伸ばせばいい

 

それに理由をつける必要はないし、理由はいらない

 

今年は、不登校の高校生たちに話をする機会も頂いている。

そして、ちゃんと予防医療を広めて、少しでも日本の医療費を削減して

社会保障費を削減して少しでも良い日本にして未来に届ける。

 

未来って「子どもたちからの預かりもの」だと想うのです

そしてそれには過去に生きている私たちには責任があると・・・

 

だから、私は今日もちゃんと生きる。

感謝して生きる・・・

 

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