大森荘蔵は心身問題について次のように書いている。
「哲学の問題の中では、心身問題は最もふるいものの一つであり様々な形をとってきている。霊と肉、肉と魂の問題として、或いは観念論対実在論、又は唯物論の問題として、或いは意識と存在の問題として、或いは現象論や行動主義の問題として、更には精神病理学や精神分析、ひいては日常の道徳慣習の問題としてまで、実に多様な場面で多様な形で現れてきている。」(大森荘蔵「心身問題と時空」『理想』第359号 1963年4月、『大森荘蔵著作集』第2巻 岩波書店 1998年10月7日 p56)
しかしながら、大森は、心身問題について何が問題なのかさっぱりわからないと言う人、その問題について少しも「困惑」も「混乱」もしたことのない人、「万事が明白で順調ではないか」と言う人に対して心身問題に対する問題意識を持たせることは「至難の難事」(大森同書p56)だと書いている。
そこで大森は次のような事例を提示している。
「小刀で指を傷つけてみる。何が起こるだろうか。指にある神経受容器が物理的変化を受ける。そこから痛覚神経細胞膜に沿ってNaイオンとKイオンの濃度が変わり、それによる膜内外の電位差変化がパルス(衝撃電流・信号電流)となって秒速何米かで伝導してゆく。そのパルスは脊髄、延髄、中脳、という経路をたどり、いくつかのシナプス(神経細胞が接合する接点)を経て大脳皮質の或る局限された部位の細胞に伝わる。そして、指に痛みを感じる。その痛みはパルスの頻度の多い程痛みが強い。
この叙述は素人くさい大まかなものであるにせよ、現在の神経生理学が確定した科学的事実として受け入れざるを得ない。そして心身問題(を論じる者)はまさにこの事実に困惑するのである。指先の(神経)受容器から大脳皮質に到る一連の物理化学的過程のどこをとっても、どこを押しても痛くもかゆくもない。その電気化学的過程は、電池回路や電解工場での過程と全く同種のものであり、およそ痛みとは関係ないものである。しかも、この過程が生じるとき、私は痛みを感じるのである。ここに解せないものを感じて当惑するのである。」(大森同書p56-p57)
大森の「解せないものを感じて当惑する」というその当惑とは、痛みとは無関係な物理的な過程(物理化学的でかつ電気化学的過程)において、その物理的過程とは無関係に思われるところの「私が痛みを感じる」ことについての当惑である。さらには、「私」の身体の物理的な過程(私の神経組織に対しての一つの特異な過程)において起こったパルス(衝撃電流・信号電流)がシナプス(神経細胞が接合する接点)を経て大脳に達すると「私」が「痛みを感じる」のだが、このことについても大森は困惑を感じるという。
確かに不思議である。人類という生物が自分自身の身体防護のため、人体が傷つくこと(物理的には人体の一部が損傷されること)に対処するために張り巡らされた神経組織がシグナルを発するとき、脳はその情報を「痛み」として感じる。そして、骨折や身体の一部の切断などという大きなダメージを受けた場合には強烈な痛みが本人を襲う。自然界において、そのような大きな「痛み」が本人を襲ってきた場合、闘争するか逃走するかを選択する必要があるけれども、その選択をする以前に身体が痛みのために硬直して倒れてしまうなどして自分の身体の危機から逃れることが不可能になる場合さえある。
身体防護のために「痛み」というものは存在するのだと思われるのだが、そもそも「痛みと物理的事物」の間にはいかなる関係もないと大森は書いている。また、大森はその二者の間にはいかなる「エネルギーの授受」も考えられないという。
なぜエネルギーの授受と大森は書いたのだろうか。大森は上記の文章で「痛覚神経細胞膜に沿ってNaイオンとKイオンの濃度が変わり、それによる膜内外の電位差変化がパルス(衝撃電流・信号電流)となって秒速何米かで伝導してゆく」と書いた。「NaイオンとKイオンの濃度」の変化はいかなるエネルギーの授受でもない。それは信号にすぎないのだと大森は言いたいのだ。もっともな指摘だと思う。
そして、大森は痛みに関して、「物としての人間」、つまり物質から構成されている身体を持つ人間の物体的身体にとって実は「痛み」は取るに足らないものだという。すなわち、「痛覚神経に電気パルスが起こり、脳皮質細胞にある物理化学的変化が起こったとき、私は痛みを感じるだろう。しかし、このとき(例えば麻酔によって)私が痛みを感じないとしても私の体になんの変化が起こるわけでもない。痛覚神経の電気パルスも、脳細胞の物理化学的変化もまた、まったくもとのままである。私が痛みを感じるか感じないか、このことは物質世界にとって痛くもかゆくもないのである。私の痛みという知覚は、物質としての私の体にとってはあってもなくてもいささかの変わりもないもの、まさに別世界のことなのである。」(大森荘蔵「物としての人間と心としての人間」『人間と社会』第2巻 培風館1964年10月、『大森荘蔵著作集』第2巻 p92-p93)
大森の言うように、「痛み」とは物体的身体にとっていかなる侵害も存在しないにもかかわらず、脳に、つまり「私」に耐え難い痛みをもたらすときもある。それは実に厄介なものである。
一方、私の物体的身体にわずかな損傷が発生するときの痛みもある。例えば、傷ついた指を持つ私は指先が痛い。「指先の物理的な傷、それに伴う痛覚受容器の物理化学的変化、それに伴う痛覚神経の電気化学的な変化、それに伴うその変化の電気化学的伝導、そして脳の知覚神経細胞の物理化学的変化――そして痛み。このとき体のなかの諸変化はすべて物質の動きであり変化である。だが、私は指が痛いのである。私は指先を調べる。だがそこにあるのは傷口であり、あるいは受容器の変形や損傷である。そのどこにも痛みは存在しない。物質粒子はどう動こうと粒子の動きであり、そのどこにも痛みはない。では痛みは私の脳の神経細胞にあるのだろうか。ふたたび神経細胞を調べる。そこに見出すものはあるいは蛋白質、あるいは脂肪、あるいは無機物質である。そのどこに痛みがあるのだろうか。また、どの蛋白質が痛んでいるのだろうか。どこにも痛みはない。この物質世界には痛みは存在しないのである。痛みはこの物質世界から排除され、閉め出され、疎外されている。同様に、私が5+7=12と考え、あるいは痛みは物質世界から疎外されていると考えるとき、その考えを私の脳細胞のなかに探しても見つからない。電子計算機に5+7= という問題を出し、12という答えをタイプで打ち出すとき、その電子計算機のどのトランジスタもどのテープにも5+7=12という『考え』を見出すことはできない。痛みと同じく、思考も、また意志も、要するにcogitoすべては、物質世界から閉め出されているのである。」(大森荘蔵前掲書p95)
それでは、痛みはどこに存在するのだろうか。
「私の指は痛み、私は痛む指のことを考えている。誰がどう言おうと、また私がどう言おうと、私の指は痛む。指の痛みは存在する。では(痛みは)どこに?それは物質世界から閉め出されたのだから、一つの別の世界に、心の世界は存在するというべきだろうか。そうしてこの二つの世界、物の世界と心の世界はたがいに無縁なのだろうか。身と心は離れ離れに別世界に住むのだろうか。もちろん、そんなばかげたことはない。私は一つの世界に住んでいる。そして、身と心は無縁どころか、強く結び合わされている。(なぜと言えば)指を切れば痛く、麻酔剤を打てばその痛みはなくなる。脳に物理化学的変化が生じれば私の感情も意志も思考もそれに応じた変化をする。脳に適当な変化を与えれば、聖人も人非人になり、愚者も天才となるだろう。要するに、体と心は緊密な対応をもっているのである。この身心平行、または身心対応は日常の経験から、さらに神経生理学の年々増してくる知見から事実として認めねばならないだろう。
しかしこの明白な身心の平行を認めることでことが終わるのではない。物質世界と心の世界がただこのように対応しているということ以外になんの関係ももたないのであれば、ふたたび我々は離れ離れの二つの別世界に住むことになる。ただこの二つの世界が対応しているというだけである。そうではない。明らかに我々は一つの世界に住んでいる。指の痛みはまさにここのこの指が痛むのであり、私がある数式を考えるのはまさにこの物質世界の書物を見ながら考えるのである。まったく別世界の指に対応する痛みを感じ、まったく別世界の脳細胞に対応して考えているわけではない。指もその痛みも、書物も脳も思考も、この一つの世界の事柄である。
ところが、上に述べたように、この物質世界が痛みや思考を閉め出すものとすれば、いったい痛みや思考はどこにあり、どこをさまよっているのだろうか。これがまさに身心問題である。」(大森同書p96)
大森は痛みや思考が物質世界のどこにあるのかと書いたが、それは、すなわち、痛みを感じる「私」、考える「私」はどこにいるのかという問いである。そして大森が書いたように、「私」は別世界のどこかにいるわけではなく、「明らかに我々は一つの世界に住んでいる」のだ。それならば、私は私の身体の中に住んでいるように思われるが、物ではない「私」が物である私の身体に住んでいるのだろうか。
「もしいま、仮に人間の身体のなかに物以外の何ものかが見つかったとしよう。するとその何ものかは体のなかに見つかったのだから、体のどこかにあったはずである。ということは、その何ものかの在り場所を体のなかで空間的に定位できる、ということである。頭のなかか、胸のなかか、心臓のなかか、腹のなかか、とにかく『どこに』といえねばならない。そしてもし、その何ものかは物とダブって存在することができないようなものならば、その何ものかが存在する場所には物質は存在しえない。したがってそこは物理的には真空であるはずである。ところが、真空である場所に何ものかが存在することを調べる方法は物理学にはない(電磁場の存在、つまり光子の存在する場合は真空ではないとする)。もしその方法があれば、そこは物理的に真空と区別され、したがって真空ではないからである。一方もし、その何ものかは物質と空間的に共在できる(可入性)ものがあれば、そこにそれが発見できるということは、それと共在する物質が、それと共在しない物質と物理的に区別されねばならないだろう(そうでないとしたらいったいどのようにして『発見』できるのだろう)。もしこのようにして区別された物質が見出されたならば、それは明らかに『新物質』の発見であり、『物質ではない何ものか』の発見ではあるまい。
要するに、何ものであれ、それが空間的に定位(このばあいは人間の体のなかのある場所に定位)されるものであれば、それはまさにデカルトのいう『延長をもつもの』であり物質にほかならない。かくして、人間の体のなかに(空間的に定位され)見出されるものは物質以外のものではない。そしてこのことは上の議論自体が示すように論理的なトートロギーであって、自然科学の進歩発達とは何の関係もない。ということは、人間の体が物体であり物体以外の何ものでもないということは、太古以来、未来永劫変わることのない自明の事実だということである。」(大森同書p87-p88)
上記の通り、大森は私の身体の中に、物ではない「私」が住んでいる場所などないという。
それでは、一体「私」はどこにいるのだろうか。
大森以外の別の哲学者はこの問題をどのように考えていたのだろうか。哲学者のカントは心身問題についてどう考え方をしていたのだろうか。
カントは、1755年、31歳のときに、現在の言い方でいうと宇宙物理学や天文学という学問領域に属すると思われる論文、すなわち宇宙の生成についての論文を書いている。その論文の付録に「異星の住人について」という小論がある。カントはこの小論で宇宙人論を展開しているが、哲学のテーマである心身論に少しだけ触れている。
「われわれが探究するのは、理性的に思惟する能力とこれに従う身体運動が、太陽からの距離に比例したこの物質の性質によってどのような限定を受けるのかということだけである。なぜなら、人間は物質に結びつけられているからである。なるほど、思惟する力と物質運動とのあいだ、理性的精神と身体のあいだに見いだされる無限の懸隔があるにしても、やはり人間は、宇宙全体が身体を媒介にして心のなかに引き起こす印象から概念と表象のすべてを得るのだから、それらの明瞭性に関しても、それらを結合し比較する能力、すなわち思惟する力と呼ばれる能力に関しても、創造者が人間を結びつけたこの物質の性質に完全に依存する。
人間は、世界が自分のうちに生じさせる印象と感動を、人間の本質の可視的部分である身体を通して受け入れるよう創られている。その身体の物質は、身体に住みついている不可視の精神に外的対象の最初の観念を押し込めるのに役立つだけでなく、これらの観念を反復し結合する内的作用、要するに思惟するにも不可欠である。」(カント「天界の一般自然史と理論」付録「異星の住人について」『カント全集 2』岩波書店 2000年9月28日 p157、中島義道の翻訳を参照して訳を変えてある。)
カントは心と身体の関係とも思われる「身体に住みついている不可視の精神」と物質・物体としての身体との関係について、つまり、不可視の精神はいかなるメカニズムで身体を随意に動かすのかという疑問には答えていない。
また、精神と身体との関係についてカントは極めてそっけなく次のように書いているだけである。
「人間の本性がこれほど低劣なのは、精神的部分がそのなかに埋没している物質が粗雑だから、つまり、精神活動を左右する組織繊維がこわばっていて、体液も鈍重で動きが緩慢だからである。人間の脳神経や脳漿からは粗雑で不明瞭な観念しか出てこない。そして人間は、思考力の内部で十分に強力な観念をつくって感覚の刺激に対抗することができないから、情念にふりまわされ、身体という機械装置を維持する要素の喧騒によって圧倒され乱心する。これに反抗し、この混乱を判断力の光によって鎮めようとする理性の努力も、まるで厚い雲によってひっきりなしに覆われて暗くなる太陽の光のようなものである。」(カント同書p158)
カントは私たちが「本性(本能)」という言葉で思い描いている生への盲目的な自己保存欲求について「精神的部分がそのなかに埋没している物質が粗雑だから」、「人間の脳神経や脳漿からは粗雑で不明瞭な観念しか出てこない」と書いた。カントは感性(感覚、情念)は身体の「組織繊維」から出てくると考えていたようだ。
42歳になったカントは『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』(1766年)という論文で、31歳ころの若きカントが論じたような筆致とは異なる書き方で次のように書いている。
「.....物体界におけるこの人間の<こころ>の場所はどこであろうか。私は次のように答えるであろう。その変化が私の変化であるような身体(=物体)、この身体は私の身体であり、身体の場所が同時に私の場所である、と。この身体の中の君の(<こころ>の)場所はいったいどこであるか、とさらに問うならば、私はこの問いの中にうさんくさいものを推測するであろう。なぜなら、次のことに容易に気づくからである。それは、この問いの中には経験によっては知られず、もしかしたら空想された推論に基づくかもしれないものが、すなわち、私の思惟する自我が私の自己に属する身体の他の諸部分の場所にあることが、すでに前提されているということである。だが、誰も自分の身体の中の一つの特別な場所を直接的に意識はせず、彼が人間としてまわりの世界に関して占めている場所を意識している。よって、私は通常の経験をとらえてさしあたり言うであろう。私が感覚するところに私はある、と。」(Bd2.S324)(中島義道『カントの自我論』岩波書店 2007年10月16日 p136。訳は中島訳)
そして72歳になったカントは、「こころの器官」(1796年)(谷田信一訳では「魂の器官」)という小論において心身問題に関して次のように書いている。
「もし私が私のこころの場所、すなわち私の絶対的な自己の場所を、空間の中のどこかで直観可能とするということになれば、私は自分自身を、それによって私が間近に私を取り囲んでいる物質を知覚するのとまさに同じ感官によって知覚しなければならないわけです。それは、私が世界における人間としての自分の場所を規定しようとする場合と同じことであり、つまり、私は自分の身体を私の外にある他の物体に対する関係において眺めなければならないわけなのです。――ところで、こころは自らを内的感官によってのみ知覚できるのですが、しかし、身体・物体を(内的にであれ外的にであれ)知覚するのは外的感官によってのみです。したがって、こころは自らにまったくいかなる場所も指定することはできません。なぜなら、このためにはこころは自らを外的直観の対象とし、自らを自らの外に移さねばならないことになりますが、これは自己矛盾だからです。――それゆえ形而上学に要求されるこころの座という課題の解決は、不可能な数( √−2)へと導くのです。そして、そうしたことを企てる人に対しては、テレンティウスといっしょに、『きみがしていることは、理性によって狂乱しようと努力しているようなものだ』と言うことができるのです。」(カント 谷田信一訳 「魂の器官」『カント全集 13』岩波書店 2002年3月28日 p232)(谷田信一訳の「魂」を「こころ」と変更してある。)
中島義道は、心身問題について『カントの自我論』で次のように書いている。
「私の<こころ>の場所
現実に存在する私は、常に<いま>存在するだけではない。常に<ここ>に存在する。<ここ>とはいかなる場所なのか。それは、私の身体が存在する場所である。ところで、私の身体とは何であろうか。この両肩から下に広がり、首から上が欠けているこの独特の(不気味な)身体がただちに私の身体であるわけではない。そう語った瞬間に、『私とは何か』という問いはすでに答えられたものとして飛び越されてしまっている。
まさに、ここに一つの根源的な問いが成立しているのだ。すなわち、この身体はなぜ私の身体という資格を得るのか、という問いである。『この』と『私の』とは異なる意味をもっている。『この机』はただちに『私の机』ではない。『このお金』はただちに『私のお金』ではない。『私』というという言葉の最も基本的な意味がここに潜むからこそ、ここであらためてこの身体はなぜ私の身体なのか反省しなければならない。」(中島義道『カントの自我論』岩波書店 2007年10月16日 p135)
そして、「この身体はなぜ私の身体なのか」という問いに対してカントは、「その変化が私の変化であるような身体(=物体)、この身体は私の身体であり、身体の場所が同時に私の場所」であり、そして「私が感覚するところに私はある」と書いた。
中島はこのカントの考えていることを中島なりに解釈して次のように書いている。
「私が『椅子から立ち上がろう』と意志すると、私は椅子から立ち上がることができる。私はこの身体にのみ、直接変化を呼び起こすことができる。私が痛みを感ずるのは、この足の裏であり、この歯であり、このこめかみであり、この胃であり、つまりこの身体の一定の箇所である。私が怒り狂っているとき、この唇はぶるぶる震えはじめ、この頬は熱くなり、この拳を固めている。すなわち、私の<こころ>が住まうところ、それが私の身体なのである。」(中島前掲書p137)
「私の<こころ>が住まうところ、それが私の身体」である。「私」とは「私の<こころ>」であり、私の<こころ>が住んでいる場所が私の身体である。ここでもう一度問うことにしよう、「私」は私の身体のどこに住んでいるのか、と。カントは肝心のその場所の在りかがどこかという問いには答えていない。中島が「『私とは何か』という問いはすでに答えられたものとして飛び越されてしまっている」と書いたように、カントはそのような問いを飛び越してしまっている。晩年のカントは「こころは自らにまったくいかなる場所も指定することはでき」ないときっぱりと書いている。
「私(私のこころ)」なるものは大脳皮質の前頭前野あたりに住んでいるらしいとは推量できても、大森が追究したように、「私」が物体としての私の身体に住んでいるなら、「頭のなかか、胸のなかか、心臓のなかか、腹のなかか、とにかく『どこに』といえねばならない。そしてもし、その何ものかは物とダブって存在することができないようなものならば、その何ものかが存在する場所には物質は存在しえない。」(大森同書p88)
あくまでもどこだどこだと問い詰めても、結局は何もわからない。現代においても脳科学者の推論は、あくまでも「推測」の域を出ていない。脳科学者たちのその推測はどのようなものかと言えば、結局、「私のこころとは大脳皮質の前頭前野などの神経細胞の膨大なネットワークそのものである」というものだ。そのネットワークとは神経細胞の膨大な数にのぼる結びつきということであるが、その結びつきが一体いかにして「私」という意識を形成するのか。その説明は単に一つの概念を別の概念に置き換えたにすぎず、わかりやすさは皆無であるとしか言えないだろう。
カントは、この問題をどこまでも問い詰めれば「理性によって狂乱」しかねないと警告した。「陥穽に落ち込むしかない問い」(中島同書p140)を問い詰めれば、私たちは理性を失い、常軌を逸してしまうという警告である。中島はカントが拒絶した問い、すなわち、「私」は私の身体のどこに住んでいるのかという問いは飛び越していくしかないという。中島は私の<こころ>の場所はどこだという問いを問うのはやめて、最初の問いに戻してみようと言う。
「つまり、この身体はなぜ私の身体なのか、と真剣に問いなおしてみること(が必要)である。これはカントが明示的に問うた問いではない。したがって、彼が明示的に答えた回答はない。しかし、彼の自己即発論、内官の理論、内的経験の理論などから、その回答が自然なかたちで引きだせるのである。」(中島同書p140)
大森がとことん問い詰めた後に書いたように、「私のこころ」は物体としての身体からは完全に「閉め出されている」のだ。人間の身体のどこを探しても見つからない。否、見つかること(非物質が物質の中に存在すること)自体が自然法則、現代物理学を根底から覆すことに帰結するだろう。非物質の発見は大森に言わせると、ノーベル賞級の大発見だというのだから。
また、「私」(私のこころ)と私の身体とが結合している仕組みもわからないままである。
「私が『椅子から立ち上がろう』と意志すると、私は椅子から立ち上がることができる。私はこの身体にのみ、直接変化を呼び起こすことができる。私が痛みを感ずるのは、この足の裏であり、この歯であり、このこめかみであり、この胃であり、つまりこの身体の一定の箇所である。私が怒り狂っているとき、この唇はぶるぶる震えはじめ、この頬は熱くなり、この拳を固めている。すなわち、私の<こころ>が住まうところ、それが私の身体なのである。」(中島前掲書p137)ここまでにとどまらなければならないと私も思う。
31歳のカントも「天界の一般自然史と理論」において「人間は、世界が自分のうちに生じさせる印象と感動を、人間の本質の可視的部分である身体を通して受け入れるよう創られている。その身体の物質は、身体に住みついている不可視の精神に外的対象の最初の観念を押し込めるのに役立つだけでなく、これらの観念を反復し結合する内的作用、要するに思惟するにも不可欠なものである。」と書いた。
このカントの論述を受けて、中島は不可視の思惟と人間の本質の可視的部分としての物質である身体との連関について次のように書いている。
「思惟と物質がいかに隔たったものであろうとも、両者をつなぐものがある。それが身体である。身体とは、全宇宙と心的なもの(印象や概念や表象)を媒介するものであり、『人間の本質の可視的部分』であり、『思惟するにも不可欠な』ものである。身体がなければ、私は表象や概念をもつことはできず、思惟することさえできない。」(中島同書p142)「カントの自我論の基本姿勢は、『私』は根源的な何かに至ることによっては解明されないということだ。自我論の目標は、『根源的な私』あるいは『本来的な私』に達することではないのだ。それは、日常的に『私は~』という言葉遣いが意味することの総体から明らかになるものである。そして、そう適切に語るものは人間(あるいはその不完全な模倣物)だけであるから、私というあり方は、人間としての私のあり方という視点から、明らかにされねばならない、ということである。」(中島同書p140)
そして、中島は次のように結論づけた。
「ここで求められている私の身体とは、あくまでも人間としての私の身体であって、神としての私の身体、天使としての私の身体、あるいは思惟する実体としての私の身体なのではない。とすると、それは時間という要素を捨象しては、近づきえないであろう。私の身体は、過去や未来から切り離された<いま>この身体をいくら観察しても、得ることができない。この身体から私の身体への変身を手に入れることはできない。なぜなら、私は瞬間的な<いま>(Δt)だけ現存在するような存在者ではなく、一定の時間現存在しつづけてきたもの、しかもそのことを記憶し想起する能力を具えている存在者、つまり自分が現に体験してきたことを知っている存在者だからである。」(中島同書p141)
カントも中島も、根源的な何ものかとしての、かつ、物質ではない「私」がどこにいるのか、その正体とは何であるかということを突き止めることによっては「人間としての私」は解明されないと考えている。大森も観念としての私という存在が私たちの物体的身体以外の別の世界、観念の王国に住んでいるわけではないと書いた。人間としての私は、あくまでも、「この身体」に「住んでいる」。しかも「この身体(物体的身体)」のどこを探しても「人間としての私」は見つからない。見つからないという意味では「人間としての私」は不在ではあるが、「人間としての私」はこの「生ける身体」そのものとなって存在する。「私の身体」の中に「根源的な私」・「本来の私」が実体として身体のどこかに実在しているわけではない。そうではなく、「私」とは生物として生きている「この」物体的身体であり、この物体的身体が「私の」身体である。言い換えれば、私とは私の身体である。
「人間としての私の身体」=「人間である私」は私の身体に具わっている記憶物質によって過去を記憶することができ、かつ、それを想起することができる。言い換えると、私は私の意識と意志とを持ち、未来に向かって意図的行為を行う主体なのだ。その「私」とは過去を想起でき、未来に向かって意図的行為を企図することができる。私は「一定の時間現存在しつづけてきたもの、しかもそのことを記憶し想起する能力を具えている存在者、つまり自分が現に体験してきたことを知っている存在者」である。
それゆえ、「私の身体は、過去や未来から切り離された<いま>この身体をいくら観察しても、得ることができない。」つまり、生きている限りこの「私」が「この身体」を「私の身体」に変身させているのであって、固有の名前を持ち、固有の物体的身体を持ち、一人の人間存在(サルトル風に言えば対自存在・対他存在)として実存するが、死んでしまえば、元の物体的身体に戻る。ここで、「生きている」という意味は、生を享けてから「一定の時間現存在しつづけ」ることである。そして「過去や未来」から切り離せない現存在として実存することである。
中島は、「人間である私」が「人間としての私の身体」ではないとしたら、いかなることになるかについて、背理法を用いて次のように書いている。
「私が『思惟する実体(res cogitans)』であり身体をもたない存在者であるとしたら、私は直観とは何かわからないであろう。私は空間における自分固有の位置をもたないゆえに、個物に出会うことはないであろう。すなわち、私は『円』や『犬』を概念として以上に知ることはないであろう。つまり、私は自分固有の位置としての<いま・ここ>から個物に出会うことを通して、時間・空間を了解することができる。その個物に<いま・ここ>からの距離を与えることによって、時間・空間を了解することができる。つまり、時間・空間という直観の形式とは、こうして私が個物に出会う固有の形式なのである。
それは超越論的観念性というあり方をしている。私は私のまわりに開けている空間・時間をいかなる(私の表象としての)他者とも共有できない。つまり、重ね合わせることはできない。私はこの開けをこの身体(=私の身体)において直接了解しており、他の身体における開けは想定できるが、想定されたものは空間ではなく『空間』という概念である。空間が(そして時間も)概念ではなく直観であること、しかも主観的なものであることとはこの単純なことである。
私はこの身体(=私の身体)から抜け出せないように、この身体(=私の身体)が開く空間から抜け出せない。超越論的観念論を支えるのはひとえにこの単純なことがらである。ゆえに、森羅万象は私の表象のうちにあるのだ。他者でさえも、私の表象としての他者なのであり、つまり私の表象における概念としての他者でしかないのだ。」(中島同書p155-p156)
「この単純なことがら」とは、この身体(=私の身体)があるからこそ私は直観の形式を持つことができるということである。直観とは、端的にわかる、からだでわかるという意味である。空間とは概念、つまり頭で考えたり想像したりするものではなく、端的に広がりと奥行きをからだで感じることができるものである。
「個物に出会う」とは、私の身体に附属しているところの眼球で視る、手などで触る、鼻で臭いをかぐ、耳で音声を聴くということ、つまり感官(感覚器官)によって自分の周囲の存在者と出会うことである。この身体(=私の身体)がなければ、当然、視覚、触覚、嗅覚、聴覚もないから、直観の形式を持つことはできない。私が「身体をもたない存在者である」ならば、私は、表象を持つことができず、他者とも個物とも出会うことはできない。
個物と他者の身体に出会い、かつ言語を持つことによって、いわゆる心身問題が生じたと中島はいう。大森が問い詰めた「私」の在り処(ありか)、「私の心」の在り処の問題、物体的身体から「私」が「閉め出されている」問題、つまり、哲学上の心身問題というアポリア(哲学的難問)をこじらせたのはデカルトだったという。
「デカルトは、この第一原理(『私は考える、ゆえに、私はある』)から、直ちに『延長実体(res extensa)』としての物に並ぶ『考える実体(res cogitans)』としての心にたどり着いた。その推論が説得力のないのは、先に述べたように、デカルトは『私は考える、ゆえに、私はある』 という第一原理における『私はある』にすでに疑似物体を読み込んでしまっているからである。私が思惟実体であることは、じつのところ『私はある』においてすでに前提されていることである。
いかに物体と異なったものとして『私』を導入しても、それに特定の名前を付けたとたんに、『私』は『私』という記号の自己同一性に導かれて物体に似た名前だけ異なった自己同一的な疑似物体になってしまう。『私』は確かに自己同一的なものである。だが、すでに考察したように、その自己同一性は独特な性格を持つものなのだ。それは、およそ世界に対象が登場するときに、同時に開かれる無限の可能なパースペティヴのうち、固有の身体にまといつくパースペクティヴであって、対象の成立とともに、その対象を現在する〈いま〉と不在の〈いま〉との関係においてとらえる限りにおいて自己同一的なものにすぎない。すなわち、『私(心)』とは不在を通じた自己同一的なものであり、それ自体不在であるような自己同一的なものである。言いかえれば、『私』とは、客観的世界における実在的なものを構成する(意味付与する)限りにおいて、そこから排除され『不在』とみなされたパースペティヴとの相関においてのみ『ある』もの、すなわち実在しないというあり方でのみ『ある』ものなのである。
こうして、実在する物とはまったく異なる不在としての心のあり方を忘却し(無視し)、ひたすら物をモデルにしながら、そのじつ物と心という二つの名前だけ違う自己同一的な疑似物体を認めたうえで、二つのそれぞれ異なった実在するものはいかなる関係にあるのかと問うとき、心身問題という擬似問題が発生するのである。心身問題を『解決』する一つの方向としては、デカルト直後の『機会原因論(occasionalisme)』やスピノザに典型的であるように、物と心という完全に互いに異種類の二つの実体を結びつけるほどの強力な第三の実体(神)を持ち込むことである。しかし、この解決は、心と物体とをお互いに排他的な二実体とみなすという初めの前提が間違っているゆえに、どうしても解決のための解決という空疎なものに留まらざるをえない。」(中島義道『不在の哲学』2016年2月10日 p377-p378)
(注)機会原因論 - 心の哲学まとめWiki - atwiki(アットウィキ)
中島によれば、ウィリアム・ジェームスの「根本的経験論」も心身問題の解決に挑戦したものだと書いている。(中島前掲書p378以降) 純粋経験論とは
中島は、「不在」という概念を導入して心身問題を擬似問題であると書いたが、やはり、カントが警告したように、心身問題のこれ以上の追究はやめたほうがよいのかもしれない。