七〇歳になった中島義道は書いている。
「いかに趣味豊かな人生でも、いかに虚飾から遠い人生でも、いかに人の役に立った人生でも、いかに周囲の人を幸せにした人生でも、いかにみんなから愛された人生でも、いかに清貧に徹した人生でも、いかに悟った人生でも、やはり『死を前にすると』虚しいのです。」(中島義道『七〇歳の絶望』KADOKAWA 2017年11月10日 p5)
この本は2016年に出版された『不在の哲学』の解説本のような本である。この本には2016年7月から2017年7月までの1年ほどの間の中島の身辺雑記、折々の出来事、哲学塾の講義内容、そして日々の生活を送っているときに考えたことなどが書いてある。中島は別の本で哲学に関することを「四六時中考えよ」と塾生に勧めている。自ら実行しているのだ。(以下、この本の引用文()は引用者が補ったものと中島本人のものがある。)
「われわれが言語を学ぶと、『無』をも言語化することによって『無というあるもの』を思い描いてしまう。これはほとんど抵抗できないことであり、過去を『もはやない』と言った瞬間に、138億年の過去が『もはやない』という仕方で『ある』(存在していると考えてしまう)。とくに過去における空間とは何であろうか?過去のあるときに、宇宙が100億光年を超えて空間的に広がっていたというのはいい。私が言いたいのは、〈いま〉や『もうない』宇宙が100億光年広がっているとはどういうことか、ということである。その場合は、物理学がなしているように、時間を完全に空間化して、あらゆる過去の空間の広がりは〈いま〉も消えずにその時間位置に『ある』と見なすほかないであろう。しかし、こうした客観的時間こそがニセモノであるように思われる。少なくとも、あらゆる過去はその広大な空間とともに完全に消えたのであり、過去は〈いま〉ただその言語的意味をとおしてのみ『ある』としても変わることはない。
大森(荘蔵)先生の『立ち現れ一元論』も、過去の対象そのものが立ち現れると見なすからグロテスクなのであって、じつのところ過去の対象の『意味』が立ち現れるにすぎない。われわれが過去の対象と呼んでいるものは過去の対象の意味にすぎないのである。過去における対象G1は〈いま〉は『すでにない』というあり方をしている。言いかえれば、『そのときあった』というあり方にすぎず、〈いま〉G1から出ている電磁波や疎密波のような『物質的なもの』を欠いているゆえに、じつはG1の意味にすぎないのである。」(中島同書p21-p22)
物理学は「あらゆる過去の空間の広がりは〈いま〉も消えずにその時間位置に『ある』と見なす」が、物理学の「客観的時間こそがニセモノ」だと中島は書いている。私はここがどうも引っかかる。
「〈いま〉G1から出ている電磁波や疎密波のような『物質的なもの』」は確かにない。色(電磁波)も声(疎密波)も今はもうないのは事実であるように思われる。そして、この地球が存在している宇宙空間はだだっ広い空間である。広大な宇宙空間の端まで宇宙船で飛んで行くことを考えた場合に、そこまで行くのに100億光年かかることも確かである。
しかし、そのようなことはしたくてもできない。時間をかけて宇宙空間の果てまで行くことがない場合、この空間の広がり自体は、時間の経過で変化することもあろうが、少なくとも、太陽系の内側の空間については、何年か何十年かの歳月をかけて行くことはできる。その歳月のあいだにこの太陽系の宇宙空間が「もうない」と言うことができるだろうか。「あらゆる過去はその広大な空間とともに完全に消えた」というが、私には消えたようには思えない。
宇宙物理学の理論を展開するだけならば、「あらゆる過去の空間の広がりは〈いま〉も消えずにその時間位置に『ある』と見なす」ことに何の支障もないように思われる。
また、過去に現実に存在した物質はもうないというのは本当だろうか。例えば、私が今叩いているキーボードは時間が経つにつれて消失するだろうか。昨日から今日にかけて、このPCのキーボードは目に見えないわずかな変化(劣化)があるだけで、短い時間の中では不変で実在するとみなしても問題はない。もちろん、時間が経過するうちに古くなるし、劣化する。その前に埃がつく。しかし、それは消失することではない。空間の中にある物質は時間とともに変化をするが、「もうない」ということはない。古びながらも、時間を超えて存続している。腐敗しなければ、化石の形であれ何であれ変形を受けながら存在し続けるのではないかと思う。
宇宙空間は真空であるが、何もないわけではない。何かの物質(ダークマターとかダークエネルギーとか)、素粒子などは存在すると考えられている。あらゆる過去とこの宇宙空間が、過去とともに完全に消えると考えることは正しいことなのかわからない。
時間は、中島が言うとおり、刻一刻と消えては現れる、どこからともなく湧いて出ては消えてゆくと思い込むことは可能だ。だが、空間は時間とは異なるものではないかと思う。
空間とはそこにある物質である。空間は真空であっても、その中に実は物質が存在している。超ミクロの世界には物質があっても、もはやそれを視ることはできない。理論的にその実在を想定するほかない。そして超ミクロの世界は時間すら消失するという。
中島は過去はもうない、というが、過去という時間的なものがもはやないのであって、物質は徐々に古さを増していくが、消えてなくなることはないのではないか。つまり、物質とその物質が占める空間は時間が経過するごとに「もうない」ものとなることはない、つまり物質は実在し続けるとしか私には思われない。
厳密に量子物理学的に考えた場合には、つまり超ミクロの世界を見ると、過去に実在したものが、今はもうないのかあるのかどうかさえ不確実だという。どこまでもミクロの世界を追いかけていくと、そこにはもはや時間もない、絵画のような静止空間だと橋元は言っていた。
「橋元によれば、量子物理学の世界としてのミクロの世界には、音や温度、位置、速度(運動量)質量(エネルギー)、時間は実在しないという。確かに、原子よりも極小の素粒子には、それらは一切ないようだ。人間の身体をもすり抜ける素粒子には、もはやなにものもあり得ないだろう。」https://ameblo.jp/naturalleaf2006/entry-12306794731.html?frm=theme
マクロ世界においては、確かに過去に見た赤いバラはもう涸れてないかもしれないし、鳥のさえずりは今はもうない。同じ鳥がさえずったとしても、過去のあのさえずりではない。
そして、過去を想起するとき、立ち現れるのは観念的な意味だということに関しても、そのように断言できるとも思われない。われわれが過去を想起するとき、確かに過去に見たり聞いたりしたときの電磁波や疎密波は今現在絶対的にないのであるが、頭の中、つまり、脳内にうっすらと動画に近いものが見えたり、耳にではなく頭の中で響いて来たりするという記憶(体験系列)がある。これは単なる観念や意味でしかないと断言できるだろうか。
「あらゆる哲学的問題は『無』や『不在』あるいは『否定』に行き着くのではないか、との思いがむくむくと頭をもち上げてきた。物理学は世界を徹底的に肯定的に語るのだが、なぜ世界を語り尽くしていないのかといえば、『無』や『不在』を語っていないからなのだ。しかも、それは当然のことであり、『無』や『不在』は物理学の方法によっては原理的にとらえられないものだからである。
世界を『ある時、ある場所に、何かがある』という仕方でことごとく描き尽くしたとしても、そこには欠けているものがある。それは『私』であり、意識であり、善であり、美であり、価値であり、過去であり、未来である。これらすべては、物理的には『ない』のであって、それらを対象化して観察したり測定したりすることはできない。しかし、われわれは、それらが完全な『無』ではなく、言語によって存在せしめられたもの、『概念的存在』だということを知っている。プラトンは、純粋な真理そのもの、善そのもの、美そのものはわれわれ人間の目には見えず、イデア界に『ある』としたが、時間・空間において『ある』という物理学的あり方を基準にすると、それらは純粋な否定性すなわち不在となる。ここでとくに『私』と『過去・未来』という不在に注目してみよう。
カントの『超越論的観念論』によれば、『私』は物理的世界(現象)全体の総合的統一を可能ならしめる条件として『ある』。これがすなわち『超越論的統覚』であり、これは、現象を条件づけるという意味で現象以上の実在性(超越論的実在性)を有するのだが、じつのところ現象から排除される否定性なのである。それは、神や永遠の魂などと同様、現象の『中』にはどこにも居場所がないという意味で『不在』である。しかし、神や永遠の魂などとは異なり、現象を可能にするという役割を付与されているため、その限り独特の仕方で『ある』とされるのである。
これに対して、『超越論的観念論』においては、時間は物理学的・客観的時間に限定されることにより、『過去』や『未来』は現象から完全に放逐されてしまう。過去は『もうない』のではなく、現在t0とは別の場所 t1に『ある』、未来は『まだない』のではなく、t0とは別の場所t1
に『ある』。こうして、すべての過去や未来は、その固有の否定性ないし不在として『ある』というあり方を剥奪され、単なる時間位置に解消されることによって、名目的に生き延びているだけである。この連関で、『現在』もまた新たな現象が絶えず湧き出してくるという固有のあり方を失い、過去と未来との『あいだ』に位置づけられる単なる時間位置に変貌してしまっている。」(中島同書p23-p25)
物理学という学問だけでなく自然科学一般に該当するかもしれないが、自然科学には「無」や「不在」あるいは「否定」を追求することはないという中島の指摘は正しいように思われる。なぜそうであるのかと言えば、実在のものを解明するのが自然科学の仕事だからである。ないもの(否定性)を追求するのは、自然科学の仕事ではない。言語によって概念(観念・意味)を組み立てる仕事は人文科学と呼ばれる。サルトルが言ったように、人間は世界に無(否定性)をもたらしたが、それは言語によってである。言語によってのみ、無(否定性)は記述される。中島は「世界を『ある時、ある場所に、何かがある』という仕方でことごとく描き尽くしたとしても、そこには欠けているものがある。それは『私』であり、意識であり、善であり、美であり、価値であり、過去であり、未来である。これらすべては、物理的には『ない』のであって、それらを対象化して観察したり測定したりすることはできない。しかし、われわれは、それらが完全な『無』ではなく、言語によって存在せしめられたもの、『概念的存在』だということを知っている。」と書いたが、「『私』、意識、善、美、価値、過去、未来」はことごとく物質的なものではない。それは何かと言えば、それは言語であり、意味であり、概念であり、観念である。言語は物ではなく、物(電磁波、疎密波、物質を使った滲みや記号という形象、電気を使ったシステムなど)によって表された観念(概念・意味)なのである。観念はプラトンが言ったようなイデア界にあるわけではなく、物体(物質)としてはどこにもない観念の世界に留まっている。それは、どこにも実在しないという意味で、バーチャルリアリティの世界のようなもの、つまり幻想・空想・虚構の世界に似ているかもしれない。
カントの超越論的観念論においては、世界(現象)を把握するための「私」という何ものかは物質ではないので、実在のものとは言い難い。しかし、カントは特別に、実在的なものとして「私」の存在を認めた。「私」という存在を現象ではないという意味で「現象から排除される否定性」であると中島は書いた。「私」は大脳皮質に「宿っている」かのようなものでありつつ、大脳皮質そのものとは言い難い。それでいて、「私」は過去と未来を繋ぐ機能を果たす何ものかである。カントはこの「私」を「超越論的統覚」と名づけた。この統覚は、経験的統覚でもあり、記憶物質に依拠して過去と〈いま〉と未来を結合し、「私は考える」というときの「私」としてこの三つの時間軸を統一する。過去と未来を繋ぐ機能を果たすのが「私」である。だから、「私」は自己同一性を持っている。つまり、昨日の私と今日の私は同一であると感じる。昨日のことがらを昨日と分類される記憶が脳に刻まれ、「私」の脳内の記憶物質として保持されており、「私」は〈いま〉それを想起できるからである。
中島は、ここで、カントの時間は空間化されているというが、空間化しなければ、つまり「単なる時間位置」に変換しなければ、「私」は過去と未来を繋ぐことができないからだと思う。もうない過去と、次々に湧き出しては消えていく〈いま〉と、まだない未来を統一するには単なる時間位置に変換する必要があるからではないか。ただ、先ほど書いたように、過去を「もうない」ものとして「純粋な否定性すなわち不在」の側に位置づけることについては疑問がある。
「私が周囲世界を眺めるとき、あるいは何らかの行為をするとき、個々の光景は、『すでに』一定の意味が付着したものとして現れてくる。私はある光景L1を前にして『すでに一定の意味S1が付着した』という印象を伴って、そのつどその一定の意味S1を付与する。したがって、このすべては私が〈いま〉おこなっていることである。
だが、といって、私があらゆるものを自由に(恣意的に)意味付与できるわけではない、『海』(という字)を『川』(という字へ)と(恣意的に)変換し、『青』を『赤』と変換し、『歩く』を『走る』と変換し、......私はあらゆるものを恣意的に『名前』を与えることはできる。しかし、こうして付けた名前は『意味』ではない。(したがって)私は『意味』を一定の仕方で拘束されたものとみなさざるをえない。」(中島同書p40)
「一定の意味が付着している」のは、私たちが言語を習得しているからである。実在する無定形なものを言語で名前を付与するのは私個人の恣意的な行為ではない。そうではなく、言葉(言語)を活用し始めた人類の共同的な営為であった。共同的な営為は諸個人を拘束するわけである。では、この拘束力のある共同的な営為とは何だろうか。一人の個人ではなく複数の諸個人の間において自然に共通の合図のようなものが生まれ、そして成立した言葉(言語)の体系にはそれ自身の固有の法則性のようなものが生まれ、言語体系それ自身が拘束力をもつようになったということだろう。
人間の「意識はそれぞれの意味をそのつど的確に付与するように拘束されている。この拘束はどこから来るのか?暫定的な答えであるが、それを拘束するものは、神でも、イデア界でも、物質でも、社会でもない。それは、まさに言語自身なのであり、人間という有機体が言語を習得するときに必然的に学ぶことなのだ。
われわれが言語を習得すると、その意味を了解してしまう。その場合、一方で、その意味は自然現象ではなく、原理的に自分の自由になるものであることを知りながら、他方で、事実上自由にならないものであることも知るようになる。眼前の特定の色F1を『赤』と意味づけることは、たしかに偶然であり、よって、これに従わなくてもいいのだが、その自覚とは別に、やはりF1は端的に『赤』として見えてしまう。すなわち、言語を習得した有機体S1である『私』は、言語(日本語)のシステムの全体において、F1を『赤』と意味づけることを承認しているのであって、その任意の部分を変えることができるという可能性は、いかなる言語使用の実践にも結びつかない空虚な論理的可能性にすぎない。」(中島同書p43)
「意味の拘束性について、もう少し考えてみる。現在の知覚の場面ではなく、過去の事象の『想起』の場面に的を絞ると、その微妙な拘束性がわかってくる。(中略)私が想起において『あの家の屋根は赤かった』と語るとき私は知覚としての屋根の『赤さ』を再現しているわけではないことを知っている。ここで注意すべきことは、私はその屋根の色F1自体を思い出しているのではない、ということである。」(中島同書p44)
私にはどうしても引っかかる箇所がある。例えば、ある日、私はある家の屋根を見て、その屋根は赤いと思ったとする。そして、その数時間後に、私は誰かに「あの家の屋根は赤かった」と語ったとしよう。私はあの時、確かに「赤い屋根」を見たのである。それは知覚作用である。そして私は数時間後に、その赤い屋根を想起した。目蓋のうちにその鮮やかな(もしくはくすんだ)赤い屋根を思い出しているのである。中島は「私が想起において『あの家の屋根は赤かった』と語るとき私は知覚としての屋根の『赤さ』を再現しているわけではない」と書いている。屋根の「赤さ」を再現しているかと私が問われたとき、再現していると私も断言はできない。しかし、私の目蓋のうちにその「赤さ」は見えるように思われる。これは錯覚なのだろうか。私は「その屋根の色F1」そのものを想起しているわけではないかもしれないが、別の屋根の色F2との違いを識別できる程度にはその屋根の色F1を想起できるのである。これはその屋根の色F1の表象、思い浮かべている心像ではないのだろうか。表象は再現ではないが、いわばコピーに近い何かではないのだろうか。そうでなければ、なぜ、私はその屋根の赤さを思い浮かべることができるのだろうか。大森は劣化コピーのようなものはないと言っていたが、完全ではないという意味での「劣化版の赤さ」のようなものではないのだろうか。表象というもの自体が不完全であるという性質を持つ心像ではないかと思う。私たちが対象を知覚するとき、確かに対象をクリアに捉えている。現象(対象)は「見ている」というよりは「見えている」し、「聞いている」というよりは「聞こえている」のは間違いないと思う。それが過去になってしまうと、その過去は想起できても、不完全な表象となってしまう。「記憶はあいまいだ」というものはそのことをいう。しかし、表象が単なる意味、観念であるのかどうかはわからない。
中島は上述の文章に続けて書いている。
「F1は言語化されないのであり、F1に『赤』という普遍的意味を付与した限りで、独特の『赤』である限りのF1を思い出しているのである。これは、眼前の屋根の色を知覚的にとらえている場合とは大いに異なる。知覚の場合は、その屋根から反射した光(電磁波)が私の瞳孔を経て私の視覚中枢に達しているが、想起の場合はそういう外的刺激はない。知覚の場合は、物質的な刺激が意味の拘束性を形づくるが、想起の場合はそれがない。では、想起の場合、何が意味の拘束性を形づくるのか?過去の知覚と思われるが、そうではない。想起は過去の再現ではないからである。むしろ『赤』という普遍的意味が先にあり、それに導かれて、その特殊例という判断がされるだけである。すなわち、想起の場合、意味を拘束するのは、ひとえに言語的意味だけなのである。
もちろん、まったく同じ色ではないが、後に同じ家を観察してその屋根の色を確かめることはできる。しかし、想起の場合の意味の拘束性がよく示しているように、意味の拘束性は純粋に受動的なものではなく、能動的なものである。大森先生は、後期の『過去の制作論』においてその能動性を強調している。しかし、言語の意味は相互に連関しているのであるから、少なくとも他人とのコミュニケーションを目指すのであれば、言語の一部だけその意味を能動的に変えるわけにもいかない。」(中島同書p44p45)
眼前の特定の色であるF1について「私が想起において『あの家の屋根は赤かった』と語るとき私は知覚としての屋根の『赤さ』を再現しているわけではない」。つまり「あの家の屋根は赤かった」という言い方は、「F1に『赤』という普遍的意味を付与した限りで、独特の『赤』である限りのF1を思い出している」だけだと中島は言う。
どういうことだろうか。
F1自体は言語化されえないということは、次のような意味だと思われる。知覚の場面においてF1自体の発する色は、「その屋根から反射した光(電磁波)が私の瞳孔を経て私の視覚中枢に達している」が、その色の固有な色それ自体は「言語化されない」。言語が生まれる以前の「このもの」が発する色である。しかし、言語を習得した私は、「普遍的な意味」としての「赤」を思い浮かべて、「あの家の屋根は赤かった」と語ってしまうのだという。
外的刺激である電磁波がもたらす、その屋根の固有なF1自体の色はあるとしても、それは私という唯一の個人だけが持つ、言いたくても言い難い「色」なのだ。そして言語習得後に覚えた「赤」という言葉がある。「赤」という言葉は普遍的な意味を持っている。そして「あの家の屋根は赤かった」という言語化された想起内容の中では、「赤かった」という「赤」は普遍的な意味に一元的に受け取られるように拘束されているというのだ。
「知覚の場合は、物質的な刺激が意味の拘束性を形づくるが、想起の場合はそれがない。」と書いているが、この物質的な刺激=電磁波=光は紫外線と赤外線の間にある可視光線であり、その間の光線が紫から赤までの色として人間の視覚へ刺激として入ってくる。可視光線 - Wikipedia によれば、
《可視光線は、太陽やそのほか様々な照明から発せられる。通常は、様々な波長の可視光線が混ざった状態であり、この場合、光は白に近い色に見える。プリズムなどを用いて、可視光線をその波長によって分離してみると、それぞれの波長の可視光線が、ヒトの目には異なった色を持った光として認識されることがわかる。(中略)可視光線という区分は、あくまでヒトの視覚を主体とした分類である。紫外線領域の視覚を持つ動物は多数ある(一部の昆虫類や鳥類など)。太陽光をスペクトル分解するとその多くは可視光線であるが、これは偶然ではない。太陽光の多くを占める波長域がこの領域だったからこそ、人間の目がこの領域の光を捉えるように進化したと解釈できる。》
つまり、可視光線の色を紫や赤と名前をつけたのは、私たち人類が言語(言葉)を習得してからのことである。そして、言語習得済みの私から見た場合、「赤」という色は、あの屋根の「色」とは一致していないかもしれない。しかし、言語取得後の私には「あの家の屋根は赤かった」としか言えないし、その色は可視光線の中のあの赤である。想起の場合、物質的な刺激=電磁波はない。想起では、あの色は言葉としての赤だと言われれば、そうかもしれない。
中島はいわゆる哲学のテーマである「心身問題」の起源について書いている。
ある日、ある人(中島は特定の身体K1を持つ人としている)が浜辺をはだしで歩いていたとする。彼が鋭利なものを踏みつけ、激しい刺激=痛みに襲われたとしよう。このときの刺激=痛みをP1とする。
「〈いま・ここ〉で生じているP1は、ありありとしているが、そのまま消え去ったら何ものでもないだろう。P1は、それが生じたときからすでに『痛い』という普遍的意味を与えられているはずのものとして、登場している。そして、このことは、P1が『もはやない』とき、(ふつうの言い方をすると)過去になったときに、P1の『かけがえのなさ』に妨げられることなく、客観的・自己同一的世界に場所を占めることができる。✕年✕月✕日✕時✕分✕秒に、特定の身体K1のある場所L1において『痛み』が生じたのである。これを生理学的言語で語ることは、これにさらに細かい自己同一性を付与するだけである。すなわち、いわゆる『心身問題』は、生理学的過程と『痛み』とのあいだに生じるのではなく、P1と『痛み』とのあいだに生じるのだ。
しかも、P1は存在以前の非存在なのではない。P1が生じても『痛い』という本質によってとらえ損なえば、P1は『もともとなかったもの』とみなされるであろう。ちょうど思い出せない夢のように。P1は、『痛い』という本質にくるまれることによって、『独特の痛み』という存在を獲得するのである。ヘーゲル風に言いかえれば、まず、①P1には『痛み』という意味一般が付与される(第一の否定)、そして次に、②P1は普遍的な『痛み』の否定としての特殊な『痛み』というあり方を獲得するのだ(第二の否定すなわち否定の否定)。
こうして、多様な〈いま・ここ〉で生じている刺激群は、こういう否定の否定という過程を経て『私の心』のうちに放り込まれる。言いかえれば、客観的世界から放逐されたP1、P2、P3....
が、否定的あり方を保ちながらも独特な意味で(すなわち、物的にではなく心的に)自己同一的であるとみなされるとき、言語を習得した有機体S1は『私』に変じる。そして、私の自己同一性は客観的世界と同じ実在性を有することはできないが、それとはまったくあり方の異なる第二の実在性(心という実在性)を有するとみなされるのだ。」(中島同書p74-p76)
ヘーゲルの文章について、中島は以下のように解説している。
「言語は、まさに〈いま・ここ〉にのみ成立している『純粋な個物』には的中しえない。ヘーゲル的に言いかえると、『これ(定有)』は、『これは赤である』と語った瞬間に『これ』という純粋な個物を止揚(否定)して、『赤』という本質に吸収されてしまい、『この赤』という意味を担うことになる。まさに『これ』(純粋な個物としての『これ)』は『赤(一般)』ではなく、まさに『この赤』であるからこそ、『赤』であるのだ。ヘーゲルがよく見て取ったように、『赤(一般)』という本質(いわば観念)の登場以前に、まず『この特定の赤』が登場してきて、次にそれが『赤(一般)』に包摂されるわけではない。むしろ『赤(一般)』の了解によってはじめて『これ』は『(この特定の)赤』という意味を得るのだ。こうして、〈これ〉も、〈ここ〉も、〈いま〉も、〈私〉も同じ構造を有している。だが、〈私〉の場合だけ特別な感じがするのは、〈私〉はそれぞれの『私』にとって最も切実なあり方だという実存的な観点によるのであろう。言いかえれば、言語を使用し語る者という独特のあり方によるのであろう。」(中島同書p195-p196)
ヘーゲルの「否定の否定」の論理を中島は「赤」という色(電磁波の性質)ではなく、「痛み」という人間の身体の防護機能に属する神経組織の問題に応用しようとしている。①の否定は、ありありとした〈いま・ここ〉で生じているP1を否定して「痛み」や「痛い」という言語的普遍的な意味を付与することだという。根源的で独特な言語なき世界での神経組織の破れは、外形的に、すなわち、生理学的過程として見れば、細胞組織の亀裂と損傷である。身体防護のために配置された神経細胞は、末端組織の損傷に対して電気信号を発する。それを受け取った大脳は大きな刺激を受け取る。こうした損傷を被った動物(言語を取得していない有機体)は鋭い叫びを上げて走り去るだろう。そして外敵から身を守ることができる安全な場所へ行き、傷口がふさがるまで安静にしているだろう。
「言語を習得した有機体S1」の場合ならば、「痛い」という発語の後、所用の手当をしたり、受けたりするだろう。このあたりは特に言語を習得したかしないかで、有機体の対応に異なるところはない。
次に、②の過程へ至って、有機体S1は〈いま・ここ〉で生じているP1を言語によって獲得しようとするのである。「P1は、『痛い』という本質にくるまれることによって、『独特の痛み』という存在を獲得する」のである。「私」という実在性は、言語を習得することによって、「客観的世界から放逐されたP1、P2、P3....が、否定的あり方を保ちながらも独特な意味で(すなわち、物的にではなく心的に)自己同一的であるとみなされるとき、言語を習得した有機体S1は『私』に変じる。」という。言語というものを習得することによって、言語が放逐した「かけがえのない」「多様な〈いま・ここ〉で生じている刺激群」を言語によって取り戻すとき、その刺激群は「心的なもの」として自己同一的に構成される。「私の心」が成立し、客観的・自己同一的世界に対立するところの「心という実在性」を獲得する。これが「私」が出現する論理的な過程であると中島は書いている。論理的な機序はそのとおりであると思う。
客観的・自己同一的世界に相対して、言語の持つ「否定の否定」の機序に依拠して「私の自己同一性」を保有することになったものが「私」なのだろう。ただ、そこで自己同一性を保証するものは、「私である」という記憶でもあるようにも思われる。「私」という自己意識を持って「私の身体」を眺める「私自身」を見ると、どうしても「その刺激群」が私となったということについては少しだけ違和感が残る。私が出現するや否や、私は身体の感官の終末点に在るように感じる。このカントのいう「存在する感じ」が何なのかは正直いってわからない。
中島は「私の心」の出現について、やや異なった側面から解明しようとする。
「カントの超越論的統覚のように、『私』は客観的世界の統一との相関で生まれてくる。しかし、それだけでは、われわれが人称代名詞として日常的に理解している『私』にはつながらない。それは、特定の身体をもって、いつもその身体を『ここ』として了解している存在者なのだ。よって、これを欠いた『立ち現れ一元論的世界』には、『私』はいない。とはいえ、特定の身体をもって常に『ここ』から世界を開いている自己中心的存在者(有機体)S1それだけでは『私』ではない。S1が、言語を習得して、いったん普遍的私(超越論的統覚)へと自己否定し(脱自己中心化)、さらにそれを否定して特定の身体との関係で自己をとらえるとき(二次的自己中心化)、すなわち、否定の否定という手続きを経てはじめてS1は『私』になるのである。
まさにこのことが、超越論的統覚が内的感官を触発するというカントの『自己触発』にほかならない。」(中島同書p87-p88)
S1が言語を習得するときの最も重要な前提は、他者(母、父、兄弟姉妹、家族)の存在ではないだろうか。言語習得をはじめるS1は、他者の言葉による呼びかけによって「普遍的私」が、「普遍的あなた」とともにあることを学ぶ。「私は~」と話すとき、その反対側には必ず「あなた」がいることを了解するようになる。言葉は常に単独で発話されることはなく共同的なものだからだ。他者からの言葉の「投射-反射」こそがカントのいう「自己触発」を引き起こす仕組みであるように思われる。(これがミラーニューロンかもしれないし、サルトルの「反射-反射されるもの」に当たるのかもしれない。)
「言語を学んだ有機体S1は、固有の身体K1を有している。だが、S1とK1との関係は、デカルトが示したように、二つのあり方の異なった実体間の神秘的な関係なのではない。むしろ、S1は、はじめから『不在』という否定的なあり方なのであり、はじめから『私はこの身体K1ではない』(この身体K1のどこを探しても私というものは存在しない)という仕方で、K1に否定的に関与している。同様に、他人はそれぞれ他の固有の身体K2,K3、K4......に否定的に関与している独特の不在である。この場合、K1の否定とK2の否定とは異なる。S1が『痛い!』と叫ぶとき、S1はK1に生じている独特の刺激P1を『痛い』という一般的言葉で表すことが(本当は)できないことを知りながら、それをあえて『痛い』と名づけることによって、その否定性を表明している。同じく、S2もK2に生じている独特の刺激P2を『痛い』と名づけることによって、その否定性を表明している。この場合、P1とP2には、同じ『痛い』という一般的言葉が付与されているが、そこには差異性が成立している。しかし、この独特の差異性は原理的に見えない(認識しえない)否定性であるゆえに、われわれはP1とP2の差異性を言葉では表しえないのである。
そして、こうしたことを知っている者が『私』であり、すなわち『他の私(Alter Ego)』を知っている者である。」(中島同書p112-p113)
「ある有機体S1は、はじめから固有の視点をもって世界に対しているが、その有機体が言語を習得し、同時に『私』という言葉を習得すると、(なぜか)統一的世界像を求めるようになり、あらゆる自己同一的なものに名前をつけてそれを実在的・客観的なものと呼ぶようになる。すなわち、数や図形や物体を機軸にして実在する客観的世界を描き出そうとする。
そしてその次に(こうした作用を反省して)、まったく異なる自己同一的なものに気づくようになる。それが、『私』という名前で呼ばれるあるものである。S1が『私』という言葉を学んだ瞬間に、すでに『他の私』(S1以外の他の言語を習得した有機体S2、S3、S4.....)の存在を承認している。すなわち、スピノザが『あらゆる規定は否定である』と言っているように、『私』という言葉も規定されたものである限りすでに否定的なのであり、『他の私』群を否定しその否定性を保つことによって成立しているのだ。
具体的に言いかえれば、『私』はすでに普遍的意味を担っている代名詞であって、S1が『私は~』と語り出すときに、その主語としての『私』はまさに〈いま〉語っている特定の『私』であることを了解している。言いかえれば、S1が『私は~』と語るあらゆる主張には、『これ(S1)は私である』という原初的判断が先行していると見なせるのである。そして、この原初的判断は、じつのところ『あれら(S2、S3、S4.....)は私である』という判断も否定的に含意している。だが、『この私』であるS1は、『他の私』であるS2、S3、S4.....との差異性を飛び越すことによって、『私』という普遍的言語を習得したのであるから、あらためて『多数の私のうちで、なぜS2でもS3でもS4でもない『この私(S1)』を指示しているのか?』と問うても、答えることができないのである。」(中島同書p200-p201)
「私」という人称代名詞は、「他の私」(他者、S1以外の他の言語を習得した有機体S2、S3、S4.....)も使うし「この私」(言語を習得した有機体S1)も使う。それならば、「私」は一体どの「私」なのかという問いは、出てこない。それは、他人との関係の中での「私」を使う人間が誰であるのかをみんなが了解しているからである。なぜかという問いに「答えられない」と中島は言うが、そもそも自明のことには改めて問いを発することはないからである。中島によれば、ヴィトゲンシュタインはそのことに関して「示されること」であるが、「語られること」はないと言ったという。これは「語られないことによって示される」と中島は訂正している。言語を学ぶこと自体が、そのように了解することなのだろう。
「カントは、(デカルトとは異なり)、『私』の魂(意識)は、特定の身体には依存しないが、身体から独立に存在しうるわけではなく、何らかの身体を必要とすると考えた。これは、やはり『私という魂』の成立を考えることによる。カントは言語の習得という表現はしないが、『私』の現存在は、いかなる経験の成立より以前に、未知なXからの触発によって根源的に『与えられる』とする。しかし、『私の現存在』と自覚してのことではない。(言語を習得した)S1が『超越論的統覚』という普遍的『私』として自己同一的・客観的世界を構成し、その反対側に自己同一的な個的『私』を構成するのだが、このすべてをS1は(真空のうちにではなく)原初的な『現存在の感情』に基づいて遂行する。すなわち、超越論的統覚とは(フィヒテやフッサールが誤解したように)、実在的・客観的世界や『私』の構成以前に根源的に『ある』ものではなく、S1に与えられた素朴な現存在の感情G1を前提し、それを蓋然性=可能性へ向けて、(サルトルの言葉を借りれば)超出する(否定する)ことによって、成立するのである。
すなわち、カントによれば自己同一的・経験的な『この私S1』とは、原初的な『現存在の感情G1』を否定して超越論的統覚Aに至り、さらにそれを否定して(ヘーゲル的に言えば否定の否定によって)ようやく獲得されたものなのだ。とはいえ、S1はG1に自己回帰したわけではない。G1はS1の肯定的根拠なのではなく、否定の否定という仕方でS1を拘束しているのである。同じように、S2は否定の否定という仕方でG2に拘束され、S3は否定の否定という仕方でG3に拘束されている。よって、互いに交換不可能なのである。
わかりやすい例をもって示せば、ある特定の色F1は『赤』一般へとみずからを超出し、さらにこれを否定して『この赤』となる。別のある特定の色F2も同じく『赤』一般へとみずからを超出し、さらにこれを否定して『この赤』となる。しかし、F1の否定の否定としての『この赤』はF2の否定の否定としての『この赤』とは別の色であって、交換不可能である。心(意識)と色とは否定の否定という意味が異なると思われるかもしれないが、『赤』に『痛み』あるいは『悲しみ』を入れ換えても理論的には変わらない。」(中島同書p204-p206)
ある人々のそれぞれの痛みは、その人々それぞれの痛みであることは確かである。人々は固有の「痛み」を「痛み一般」という言葉として言語化し、それを「否定的に限定して」、固有の「この痛み」という意味にたどり着いたが、それぞれの「遂行過程」=「意味付与過程」は異なる。
「『痛み』はたしかに何らかの生理現象であるが、言語を習得した有機体S1が『痛い!』と叫ぶ場合はそれ(生理現象)にすぎないわけではない。S1は(感情)G1を否定しさらにそれを否定するという仕方でG1に意味付与しているのだ。S1による意味付与作用以前の(感情)G1自体は痛みでも何でもなく、S1による意味付与作用から切り離した『この痛み』も痛みではない。『痛み』はかならず誰かの痛みである。
このことから、逆にすべての感覚や知覚も同じことが結論づけられる。『赤』もまた、かならず誰かの赤なのだが、たまたま色の場合は人間という有機体の感覚器官に公共性(間主観性)が強いので、G1の否定の段階を切り離して、意味付与作用から独立に普遍的な赤が『ある』と(間違って)みなされているだけである。」(中島同書p207)
中島は、「人間という有機体の感覚器官に公共性(間主観性)」が強いと書いたが、生物がもつ視覚器官における電磁波の可視光線の範囲は生物種によって異なっている。可視光線には「公共性(間主観性)」があるというよりも、現生人類の可視光線は客観的に一義的に決まっているように思われる。その可視光線の中の色を「赤(一般)」と名づけることで、「ある特定の色F1は『赤』一般へとみずからを超出し、さらにこれを否定して『この赤』」にしたのは言語を習得した人間である。「この赤」の人間諸個人において差異性があるのかないのかということに関しては、公共性(間主観性)が強いというより、最初から差異性が認められない可能性があると私には思われる。「意味付与作用から独立に普遍的な赤が『ある』」ことが間違いなのかどうかは私にはわからない。
「痛み」は生理現象であるが、それに随伴する感情G1をまずは否定することで、感情G1の「よくわからない」強烈な刺激に随伴するものをまずは否定して、「足が鋭利なもので引き裂かれたことで生じた」ところの「痛み」を一般化し、それを否定して「足が鋭利なもので引き裂かれたことで生じた」ところの「この私の痛み」という意味付与をした。「S1による意味付与作用以前の(感情)G1自体は痛みでも何でもなく、S1による意味付与作用から切り離した『この痛み』も痛みではない」とされる。確かに「『痛み』はかならず誰かの痛み」である。