死生観に関する随想その53(遠藤周作『死について考える』から) | 飢餓祭のブログ

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 遠藤周作は昭和62年(1987年)に『死について考える』という単行本を出版した。遠藤は9年後の1996年9月29日に死去した。遠藤の死んだ2ヵ月後の1996年11月20日、光文社は知恵の森文庫にこれを収めた。遠藤が卒業した慶応大学の先輩大久保房男が文庫化のときの解説を書いた。元編集者の大久保は書いている。

「いざさらば死にげいこせん花の雨   

 死に支度いたせいたせと桜かな 

という一茶の句を引きながら、彼(遠藤)が死に支度について書いているエッセイを読んだのを機に、彼に、死についての考えを是非書くようにすすめ、書いてもらったのが、この『死について考える』である。(改行)この本が、心の安定を得るために、入院生活を送っている人々や健康であっても年老いて、これから先があまりない人々によく読まれていると知って、彼にいい仕事をしてくれたと礼を言いたい気持ちと、これを書くことをすすめたのをいささか自慢したい気持ちが私にはある。」(大久保房男「解説」、遠藤周作『死について考える』光文社1996年11月20日p216-p217)

 遠藤は「上顎癌の疑いで入院してから死について真剣に考えるようになった」(遠藤同書p19)というが、彼は若いときから大病を患っていた。遠藤は36歳になる昭和34年、「1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強をさらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリーピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリススペインイタリアギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。

 帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった」という(出典Wikipedia)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C

そして書いている。「私は二十代の時、三十代の時、四十代の時と三回胸の手術をやったんですけど、三度目の時はもう医者が匙(さじ)を投げてしまったんです。肋膜を剥がす手術をやるんですが、医者が匙を投げているのがわかるんです。最後の手術の時は、もう今度でお別れかという気持ちで病室を出ました。」(遠藤同書p19)「その時はくたびれ果てて、疲れた、もう死んだほうがいい、そのほうが楽だ、という気持ちでした。友人の吉行淳之介君が高速道路のカーブで、風にあおられ、運転している車がひっくり返ったことがあるんですが、その瞬間、ああこれでおれは楽になれる、解放される、と思ったそうです。おなじように私も死ねば病気から解放されて、苦しまなくてすむな、と思ったのです。」(遠藤同書p19-p20)「時々思うのですが、ボケ老人というのも神が与えてくださった恩恵で、一種の楽に死ねるという状態じゃないでしょうか。周りの家族には迷惑でしょうが、ご当人はボケたおかげで死に対する恐怖は感じなくなっているのではないでしょうか。」(遠藤同書p20-p21)

 遠藤は二十代以降ずっと病気を患いつつ生きてきた。ユーモア作家として小説家の仕事をしながらも、常に病によって死ぬことを恐れながら生きてきたと言ってよい。

 この本の中で、半分この世をあの世から眺めるかのような感慨も述べている。

「・・・老年とは醜く、辛く、悲しいものだと申しましたが、もうひとつの面もあるようです。自分の経験から申しますと、たとえば、夕暮れ、仕事場の窓の向こうの東京の街の上にひろがる銀色の雲、雲のあいだから落ちる光を眺めている時、急に何ともいえぬ感動に胸がしめつけられることがあります。それはやがて自分がここから去る日が来るだろうが、しかし自分がこうして生まれたことが、また自分をふくめてこの地上で生きているすべてのものは苦しんだり愛したり結びあったり別れたりしていた一人一人の人間だったことが、言いようのない懐かしさで考えられるのです。それは若いころには決して味わわなかった感情なので、あるいは老人の感傷かもしれません。しかしその感情のなかには人間の人生やこの地上を肯定したいという気持ちが含まれています。代々木公園を散歩している時、原宿の通りを歩いている時、若い恋人たちに出あうと、私は私が死んだあとこの人たちも私と同じような人生を送るのだなとふと考え、しっかりなと、思わず呟くことがあります。夕暮れ、仕事場の外で子供が歌を歌っているのをきくと、頑張るんだよ、と小さな声をひとりでかけています。老年は冬のように醜く、辛いものでしょうが、しかしその老年まで春があり、夏があったのです。それを思うとやはり生きていてよかったという気持ちになります。」(遠藤同書p29-p30)

 遠藤は病院生活が長かったので、病院で病気に苦しんでいる人への配慮・気遣いをもっとしてほしいという思いから、「心あたたかな医療を」というキャンペーンを行ない、いろいろなボランティア活動をしていたそうだ。

 遠藤は末期癌患者への接し方を紹介している。

 患者は問う。「(私は)死ぬんでしょうか」。その時の看護師の回答はこうだ。「本当に苦しいでしょうねえ。でも、いずれ私だって、おばあちゃんと同じようになるんですよ」。(遠藤同書p50)患者に決して言ってはならぬセリフは「大丈夫、死にはしませんよ」という嘘であるという。末期癌患者は自分自身の余命をうすうす感づいているのだから、そういう嘘は患者の孤独感をさらに募らせるし、何の慰めにもならぬと遠藤は書いている。大切なのは、「患者の苦しんでいることを理解」し、「更に、あなただけが死ぬんじゃない、今元気にしている私もやがて死ぬ」ということを示すことだという。(遠藤同書p50)

 また、源信寛和元年(985年)に、多くの仏教経典論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めて編集した仏教書『往生要集』について遠藤は書いている。

「『往生要集』を読むと、病人のそばで仲間たちが、花が咲き香ったきれいな極楽を心に思いえがかせていますね。あれは一種のホスピスです。ホスピスとは末期癌の患者に肉体の治療と共に心の慰めを与えることですが、日本には昔から長いあいだ日本流のホスピスがあったんですね。「観無量寿経」や浄土宗の引声念仏(いんじょうねんぶつ)やまた称名念仏(しょうみょうねんぶつ)はあれはホスピスですね。あるいは死に支度なんですね。いかにして死をこえるかの方法を教えていたんですね。それが自力宗教の禅にはなく、他力宗教の浄土宗で行なわれたことは私には興味があります。」(遠藤同書p47)

そして、末期患者の家族の喜劇的なエピソードを書いている。

「その付添いさんのしてくれた話は、患者はもう助かる見込みがないのに大変な苦しみ方をしていたケースなんです。あまりの苦しみ方なもんだから、家族の者が集まって相談した結果、その苦しみから救ってあげてくださいと医者に頼んで、安らかに死ねるための注射をしたんだそうです。それが夏の暑い日だったんだそうです。その注射を一本打っても死なない、二本打っても死なない、もう一本注射をするんですが、医者の額にべったり汗が浮んでいたそうです。つまりみんなが殺人行為を行なっているわけです。

 人間だれでも死をまぬかれることはできないんだから、私たちもそういう状態になるかもしれません。その時、もっと延命工作を続けてくださいと言う人もおればこんなに苦しんでいるのになぜ楽にしてくれない、なんて思いやりのない奴だ、と言う人もいるでしょう。しかし逆に、こんなに苦しんでいるのだから、延命のための施療をすべて外して楽にしてあげてくださいと家族が言っているのを、病人に意識があって聞こえたとしたら、おれを早く死なせようとしている、何てひどい奴らだ、と思うかもしれません。

 結局末期の看護、治療なんて、絶対的なもの、完全なものはないんです。」(遠藤同書p87-p88)

 死にゆく癌患者は死の恐怖とともに、癌という病がもたらす激烈な痛みに襲われる。今ではこうしたことはないだろうが、昔はこのようなものだったのだろう。

「三十年前(昭和32年頃-引用者)に、目黒の伝研病院に入院した時、(中略)夜中に凄い叫び声が聞こえたんです。初めのうちは、東大系の附属病院だから、実験動物の声かなと思ってたんです。翌日看護婦さんにあの声は何です、と聞いたら、聞こえましたか、と言うんです。(改行)その叫び声は肺癌にかかったお医者さんなんだそうで、あまりの激痛にモルヒネを打ったそうです。モルヒネはあんまり打つと死期を早めるものだから、一時間とか二時間とか間隔をあけてから打つのです。もう三十年も前で、当時はペイン・クリニックという痛みの治療法がまだ発達してなかったから、専(もっぱ)らモルヒネに頼っていたのですね。モルヒネが切れると激痛が起こり、凄い叫び声を上げるんです。その叫び声が風におくられて聞こえてくるんです。(改行)そんな時どうするんですか、と看護婦さんに聞いたら、しようがありませんから、私たちは手を握って上げるんです、と言っていました。手を握ってあげると、一瞬黙るんだそうです。その時はそんな手を握ってやるぐらいで激痛がおさまるものかと馬鹿にしていました。しかしそれから私は別の病院に移って手術を受けたんですが、三回手術を受けたけれど、一回目はそうでもなかったのに、三回目の時は痛くて鋏を突っ込まれたような感じで、モルヒネを打ってもすぐ切れてしまうんです。擦ってくれっ、とか、水をくれっ、と思わず叫んでいました。(中略)その時看護婦は手を握ってくれたんですよ。私が痛くて思わず手をぐっと握ると、相手もぐっと握るんです。すると変なもんで、この人はおれの痛みをわかってくれるんだと思うとね、痛みがおさまるんです。心理的に鎮まるんです。痛い、痛いよう、と思っていたのが、だんだんおさまっていく感じなんです。その後良くなってから私は考えて、どんな痛みでも苦しみでも、そこに孤独感が含まれているんだとわかりました。これがわかっただけでも、あの時の体験は大収穫でした。」(遠藤同書P91-P94)

 現在においては癌による痛みはほとんど鎮痛薬(主にオピオイドという医療用麻薬)で制御され、動物のような叫び声が出るほどのひどい痛みはない。緩和ケア医師の大津秀一は患者にいつも次のように説明するという。

①命は縮まない(死期を早めることはない)

②頭はおかしくならない(意識がもうろうとすることはない)

③くせにはならない(麻薬中毒にはならない)

④注射ではなく、基本は内服薬(時には膏薬)

https://news.yahoo.co.jp/byline/otsushuichi/20190807-00136060/

①命は縮まない(死期を早めることはない)

「オピオイドを使うのは末期だからではなく、痛みがあるからです。痛みはがんのどんな時期にも起こり得る症状です。過去の不適切な使い方として、亡くなる直前ぎりぎりになってやっと使用していたことがあり、そのイメージが残ってしまっているようです。痛みを取って快適に過ごすことは、精神衛生上良いだけではなく、生命を支えることにも繋がるはずです。」

http://www.asahikawa-med.ac.jp/hospital/pal_care/?p=11

②頭はおかしくならない(意識がもうろうとすることはない)

 頭がおかしくなるとか意識がもうろうとするという状態は、医学的な定義によれば、せん妄=「周囲を認識する意識の清明度が低下し、記憶力、見当識障害、言語能力の障害などの認知機能障害が起こる状態。」のことを指す。「がん患者のせん妄の原因として、薬物(ベンゾジアゼピン系薬剤、コルチコステロイド、抗うつ薬など)、中枢神経系の病変、電解質異常(高カルシウム血症、低ナトリウム血症など)、高アンモニア血症、脱水、感染症、低酸素血症などがある。このうち、薬物、高カルシウム血症、脱水によるせん妄は可逆性が高いので、治療する価値が高い。ビタミンB 群欠乏、内分泌疾患は、がん患者における頻度は少ないと考えられるが、原因治療により改善する可能性がある。

 具体的には、投与薬物を確認し、せん妄の発現や悪化との時間関係を確認する。また、神経学的所見など理学所見をとり、血液検査(補正カルシウム値を含む)、頭部画像検査を検討することにより、主要なせん妄の原因を鑑別することができる。

 オピオイドが原因と考えられる場合は、十分な鎮痛効果が得られていれば、鎮痛が得られる範囲でオピオイドの減量を検討する。鎮痛効果が不十分であれば非オピオイド鎮痛薬・神経ブロック・放射線治療など他の鎮痛手段を加えてオピオイドを減量できるかを検討する。モルヒネが投与されている場合、腎機能障害が生じるとモルヒネの投与量は同一でもモルヒネの代謝産物が蓄積することにより眠気を発現することがある。」

(出典下記ウェブ参照)

https://www.jspm.ne.jp/guidelines/pain/2010/chapter03/03_02_04.php

「中毒という言葉自体が人によって様々な捉え方をされる言葉のようですが、多くは「頭がおかしくなる」「廃人になってしまう」「やめたくてもやめられなくなる」という心配のようです。

痛みに対して適切に使っている限りは頭がおかしくなったり、廃人になったりする心配はありません。

また、精神的な依存を来たしてやめれなくなるようなこともありません。だだ、不適切な使い方(痛みがないのに使用する、注射剤などを不定期に使用する)をすると依存を来たすことがありますので医師の処方通りの使用を守る必要はあります。」

http://www.asahikawa-med.ac.jp/hospital/pal_care/?p=11

 

③くせにはならない(麻薬中毒にはならないということ)

「なぜ、医療用麻薬を痛みがある状態で使用しても、中毒にならないのでしょうか?モルヒネは、身体の中に入ると「オピオイド受容体」に作用して、効果を発揮します。オピオイド受容体には、μ、δ、κの3種類があり、相互に影響していますが(表1)、とくに「κ受容体」には、μ、δ受容体を抑制することで、精神・身体依存形成を抑える作用があります。痛みのある状態では、内因性のκオピオイド神経系が亢進することで、μ、δ受容体に作用して、鎮痛作用が促進し、精神・身体依存形成も抑制されます(図1A)。一方、痛みのない状態では、内因性のオピオイド受容体がはたらかないため、精神・身体依存を形成する場合があります(図1B) 。」

(出典下記ウェブ参照、表1、図1A、図1Bは省略)

http://www.kanwacare.net/kanwacare/point04.php

④注射ではなく、基本は内服薬(時には膏薬)

一般的にモルヒネを投与する方法は、注射だと思われているが、日本緩和学会は経口投与を推奨している。「がんの痛みに使用する鎮痛薬は、簡便で、用量調節が容易で、安定した血中濃度が得られる経口投与とすることが最も望ましい。しかし、嘔気や嘔吐、嚥下困難、消化管閉塞などのみられる患者には、直腸内投与(坐剤)、持続皮下注、持続静注、経皮投与(貼付剤)などを検討する必要がある。」

https://www.jspm.ne.jp/guidelines/pain/2010/chapter02/02_03_03.php

 遠藤が入院中に聞いた、凄い叫び声を出した患者は、おそらく肺癌から骨転移を起こした患者であろう。現在であれば、上記のようなペインコントロールによって、ほぼ激痛から解放されていたと思うと、同情に堪えない。しかし、遠藤は書いている。

「『本当に苦しいでしょうね......』『やがて私たちもそうなるんですから』生き残る者のこの言葉はまもなく地上を去っていく者に理解と人間的連帯とを示し、ある程度の慰めを与えます。この言葉を聞いた病人が他の慰めの言葉より、嬉しそうにするのは何ともいえぬ自分の孤独感を理解しようとしてくれたからです。そしてその孤独を人間はみな背負っていることを知ったからです。(改行)でも——私の考えでは——それは死んでいく者の苦しみを五〇パーセント慰めてあげても、あとの五〇パーセントを鎮めはしません。死が消滅ではなく、次の世界への橋だとしたならば.....それを願わぬ人はいないでしょう。」(遠藤同書p107-p108)「私自身も死というものはぷつんと切れて、それで何もかもおしまいで、あとは無だというのではなく、次の世界に入ることだと信じています。臨死体験をした人たちは、その後、死というものを恐がらなくなったそうです。」(遠藤同書p117)

 死が問題となるのは、死は無となり、すべてが失われることなのか、遠藤が言うように「次の世界」に入ることなのか、生きている人間には決してわからないからである。おそらく、人間の身体が死によって生命を失ったとき、生ある人間の中の「私」も無になるのであろう。しかし、それを証明することはできない。人間の身体のどこを探しても「私」はいないのだから、「私」が身体を失ったときに、どういう原理で可能になるのかはわからないが、「私」は別のエネルギーに依拠してどこかへ行くという主張については、誤りであることを証明することもできない。「次の世界」が実在するという主張についても科学的には否定することも肯定することもできない。

 遠藤は知り合いのカトリックのシスターの臨死体験を聞いて書いている。

「知り合いのカトリックのシスターで、大学では国文科の先生をしているSという人がいるんですけど、奈良で学会があって、それに出るのに、ほかの人はホテルに泊まるんだけど、Sさんは修道女ですから、奈良の修道会に泊まったんですね。ベッドが蚕棚みたいなえらく高いもので、そこに寝たけれどよく眠れなくて、真夜中にベッドから落ちたんだそうです。気がついた時は救急車の中だったそうですけど、人にはもう死ぬと思われたらしいのです。彼女が人事不省の中で体験したのは、キューブラー・ロスの報告と同じで、キューブラー・ロスは、死の世界に行く時、慈愛に満ちた光に包まれると報告していますが、彼女は私にこう申しました。

『修道女の私は恋愛したことがないからわからないが、もし恋愛の極致というものがあったら、あれじゃないかしら』

 その光のなかで、彼女は自分が烈しく愛されていることを感じたそうです。そしてそこへ行こうと飛び上がろうとするんだが、足が地面にくっついて行けませんでした、という話をしていました。」(遠藤同書p117-p118)

このシスターの体験を臨死体験というのだろう。臨死体験ではほとんどの人がこういう「慈愛に満ちた光」を感じるという。その体験は禅の修行でも体験可能だと遠藤はいう。

「禅では身心脱落の境地といいますが、禅で解脱する瞬間も同じような体験をしているんじゃないでしょうか。光の中に入って行くという体験ですね。我々の人生と背中合わせの大きな生命の世界があって、そこへ入ったという体験をした人は一人や二人ではなく、また人種の差別なく、外人にも日本人にもいるわけです。私はそれをターミナル・ケアで言ってあげるのがよいと看護婦さんたちにすすめてもいます。」(遠藤同書p118-p119)

 「我々の人生と背中合わせの大きな生命の世界」については、それがあるのかないのかは誰もわからないのだが、遠藤は書いている。

 「西洋医学のお医者さまは、心と体とをわけて肉体だけの治療をされますが、心の動きによって体が病んだり、障碍を起こすことは、心療科の研究が進むにつれて随分わかってきました。肉体と心とは二元的に分けられるものではなく、それは表裏一体だったのです。

 更に肉体と心のほかに、最近の研究では、我々の身体を構成しているものに第三の次元があることがわかってきました。それは人間の肉体には、当人の意志や気持ちとは関係なく働いているあの自律神経の背後にある領域が大きな影響を与えていることが認識されたからです。これは私の尊敬するユング派の思想家、湯浅泰雄先生のご本によりますと、この第三の次元は既にベルグソンやメルロ・ポンティのような人が暗示していたことなのですが、東洋医学の経絡の再評価によって更に確認されるようになりました。簡単にいうと、自分の意志で支配できると思っている肉体にも、自分の意志とは別のものがあり、肉体は今まで考えられていた以上に重層的だったのです。

 一方、心のほうはもう言うまでもありません、深層心理学の研究によって我々の心がたんに性格、気分、感情だけの場所ではなく、その奥底にかつての小説家が考えもしなかった意識のひろがり、何層もの意識がかくされていることがわかったのですね。

 このようにみてくるならば、我々の人生は私たちが考えている以上に重層的なのではないでしょうか。眼にはみえないけれど、我々の人生は平板で、跡切(とぎ)れてしまうのではなく、何かに包まれ、何かにつながっているのではないでしょうか。我々の生命も肉体や心と同じように重層的なのではないでしょうか。我々の命は何かにつながり、何かに包まれている重層的なものではないのでしょうか。そしてすべてのものが重層的である以上、我々の命もそれより大きな命に包まれていないと、どうして言えるでしょうか。その大きな命が我々にわからないのは、ちょうど小説の言葉やイメージを表面的に読むのと同じなのではないでしょうか。

 さきほども申しましたように、人間はシュタイナーの言うように、若い時は肉体的な感覚で世界を識る、それを肉体の時代と言っておきましょう。中年になると肉体は衰え、心の時代、もしくは知性の時代といったらいいかもしれません。心や知性で世界をつかみます。老年になると、肉体も知性も衰えますが、知性のもっと奥にある魂によって、次なる世界から来る発信音を、肉体の時代よりも、知性の時代よりも聴くことができるのではないでしょうか。」(遠藤同書p192-p195)

 「キリスト教信者でない方も、その時には自分を越えた大きなものに『すべてを委ねる』という気持ちにはならないでしょうか。自分を今日まで包んでいた大きな生命、自分を越えた大きな生命をそれまでは信じていなくても、病床にあればやはり考えもなさるでしょうし、ひょっとしたら、死を前にした鋭敏な感覚でそれを感得するかもしれません。」(遠藤同書p199)

 「我々の人生は平板で、跡切(とぎ)れてしまうのではなく、何かに包まれ、何かにつながっている」というが、それは「自分を越えた大きな生命」とつながっていると遠藤は言いたいわけだ。ただし、それが実在するのかどうかは科学的に実証されているわけではない。仮に遠藤の言うとおりだとしよう。その大きな生命体の中へ入る「私」は、「私」という固有の意識を持ち続けることができるのだろうか。「私」という存在が「私」の身体に依拠せずに、「自分を越えた大きな生命」の中へ入るにあたって、「私」の過去の記憶を保持したまま入ることができるのかどうか。「私」という個体意識並びに個体の記憶の保持ができなければ、死が次の世界への入り口だと言われても、それは「私」という存在の消失と同じであるから、「私」の存在が無と化すのと変わらない。

 臨死体験では、「私」という存在がそのまま保持され、かつ、「私」の親族にも会っているようだから、そこでは、「私」の存在(私の意識、記憶、体験系列のすべて)がそのまま肉体なしに保持されている。すると、「自分を越えた大きな生命」と「私」の関係やその構造的な仕組みはどうなっているのか。疑問は尽きない。