死生観に関する随想その42(トマス・ネーゲル「人生の無意味さ」(1971年)から) | 飢餓祭のブログ

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ネーゲルは人生について書いている。(()内は引用者のもの)

「われわれは、エネルギーと注意力なしには、また、自分があるいくつかの事柄に特に真剣に取り組んでいるということを示すような選択をすることなしには、人生を生きていくことができない。だが、一方では、われわれは常に、自分が現に生きている特定の生のかたちの外部に、ある視点(一歩後退した視点、「永遠の相の下」の視点)を持つことができ、そこから見れば真剣であることは根拠(正当な理由)のないことに見えてくる。われわれが持たざるをえないこの二つの視点が、われわれの中で衝突し、その結果、人生が無意味なものと(感じてしまうことに) なる。それ(人生)が無意味である(と感じる)のは、われわれが、自分でも解決不可能であることがわかっている疑念を黙殺し、その疑念にもかかわらずほとんど減ずることのない真剣さをもって生き続けるからなのである。」(トマス・ネーゲル「人生の無意味さ」(原題"The Absurd", Journal of Philosophy, pp. 716–27、1971年 (repr. in Mortal Questions))永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』(原題Mortal Questions)勁草書房1989年6月20日p22)

 自分の人生に真剣な努力と必死さを傾けるのが人間であるが、単に生存することを「第一義的な関心」事とする人もいる。そして「名声、快楽、美徳、贅沢、美、正義、知識、救済」を「第一義的な関心」事にしている人もいるだろう。いずれにしろ「人間の生は努力、計画、打算、成功、失敗といったもので満たされており、われわれはさまざまな程度の怠惰と活力によって、自分の人生を追求しているのである。」(ネーゲル同書p23)また、「人間はもっぱら衝動によってのみ行動するような存在ではない。人間は思慮深く、反省的であり、結果を比較考量し、自分のしていることがするに値するかどうかを問い直す。(中略)人間はまた、最も広大な観点から、何を追求すべきであり何を避けるべきか、自分の持つさまざまな目標の優先順位はどうあるべきか、どのような人間でありたいか、またはなりたいか、といったことにも決定を下す。(中略)人生が提起するその時々の必要に応じて次々と行為の動機づけがなされていくにしても、人々がそのような過程を継続させていられるのは、そうした動機が位置づけられている一般的な慣習体系や生活様式に固執することによって――あるいはことによると生そのものに執着することによってのみ――なのである。彼らは瑣末な事柄に巨大なエネルギーと危険と打算を費やしている。普通の人々が自分の容貌、健康、性生活、情緒的な誠実さ(感情的な正義感)、社会的有用性、自己認識、家族や同僚や友人との人間関係、仕事をどのくらいよくやっているか、世界情勢を理解しているかどうか、といった事柄に、どれほど必死になっているかを、考えていただきたい。人生を送ることはフルタイムの仕事であり、誰もがこの仕事に何十年にも及ぶ熱烈な関心を寄せ続けているのである。」(ネーゲル同書p24)

 ところが、「われわれが一歩退いて発見するのは、われわれの選択を支配し、合理性の要求を支える正当化と批判の全体系は、反応と習慣に基づいているのだが、その反応と習慣はわれわれによって問題視されず、循環に陥ることなしには弁護されるすべもなく、たとえ問題視されたとしてもなおわれわれが固執せざるをえないようなものなのだ、ということだからである。」(ネーゲル同書p25)また、「われわれが理由(も)なしに、そして理由を必要とせずに為したり欲したりしている」こと、「われわれにとって」、これは理由になるとか、これは理由にならないとか決める当のものは、実は、「偶然的で特殊的」、はっきり言えば「恣意的」なのだ。しかし、恣意的だと認めたとしても、われわれが「人生から解放されるわけではない」のだ。(ネーゲル同書p25)「必死になって」人生という大仕事を「何十年にも及ぶ熱烈な関心を寄せ続け」て取り組みながら、一方では、人生の大問題は「偶然的で特殊的」、はっきり言えば「恣意的」なものだとも「冷静に」見ることができてしまう。このお互いに全く相反する考え方が同居し、かつ衝突してしまうことが「人生の無意味さ」が生じる原因となるのである。つまり「われわれが真剣に取り組んでいる」人生の大問題は、実は「卑小な、取るに足らない個人的な事柄」でしかない。だから人生は無意味だと感じてしまうという。

 では、個人的な事柄に集中することはやめ、もっと大きな大義に献身すればよいではないか。「自分自身よりも大きな何かの中で自分が果たす役割や機能」が与えられたとしたら、「社会、国家、革命、歴史の進歩、科学の前進といったものへの奉仕や宗教や神の栄光への献身」(ネーゲル同書p26)という行為の中で、自分の人生は大いなる意味、価値があると公共的に認められ、自分の人生に生きがいを見出すことができるに違いない。現に大勢の人々が奉仕と献身の精神で働いている。

 しかしながら、「われわれが個人的な人生の諸目的から一歩退き、その諸目的のもつ意味を疑うことができる以上、われわれはまた、歴史や科学の進歩、社会や国家の繁栄、権力、神の栄光といったものから一歩退き、同じようにして、これらすべてのものに疑いを持つこともできるはずである。われわれに意味、正当化、意義を授けてくれるように見えるものがそう見えるのは、われわれがある点までしか理由を必要としていないからでしかない。」(ネーゲル同書p27)「ひとたびわれわれが一歩退き、信念、証拠、正当化の織りなす体系全体を眺める抽象的な視点をもつにいたり、その体系全体が、見かけに反して、世界の大部分を自明なものとみなすことによってしか機能しないことを知るにいたったとしても、われわれはすべてこれらの見かけをそれに替わるべき実在と対比できるような立場に立ったわけではない。われわれは日常的反応を脱却することはできないし、もしそれができたとしても、そのときわれわれはどのような実在(確かなもの)をも思い描く手段を持たないことになるであろう。」(ネーゲル同書p31)「実践的な領域においても、事情は同じである。我々は人生の外へ足を踏み出し、真に、客観的に有意義なことは何であるかを認識できるような新しい立脚点に立てるわけではない。われわれのあらゆる決定や確信が可能なのは、ただ単にわれわれがわざわざ排除しようとしない多くのことが(疑問符だらけのことが不問に付されたままに)あるからでしかない、と知りつつも、われわれは生の大部分を自明なものとみなし続けるのである。」(ネーゲル同書p31-p32)

 私たちの日常生活は「自明なもの」(なぜと問わないもの)で満たされている。ひとたび「認識論上の懐疑論」(ネーゲル同書p32)にとりつかれると、日常生活は破綻する。「なぜ自分の脚下に床があるのか」、「なぜそもそも自分の感覚の明証性を信じるべきなのか」、「われわれはなぜアスピリンを飲むべきなのか」、「なぜそもそも自分の苦痛を緩和しようと努めるべきなのか」(ネーゲル同書p32)。結局、私たちは「支えのないこの自然な信頼感」に依存して生きている。その自明なものへの信頼感は普通の日常生活を送るうえで大切なものであり、その信頼感が消失してしまった人は深刻な精神的病いに罹患していると診断される。

「信念と行為においてわれわれを支えているものは、理由や正当化ではなく、もっと根底的な何かである――というのも、理由が尽き果てたことを納得した後でさえ、われわれはこれまでと同様にやっていくからである。もしわれわれが理由reasonに完全な信頼を寄せようと努め、それを強力に推し進めたならば、われわれの人生や信念は崩壊してしまうだろう。――それは、世界や人生を自明視する惰性的な力が、何らかの仕方で失われたときに実際に起ころうる狂気の一形態である。もしわれわれがそうした惰性的な力を手放してしまったならば、理性reasonの力によってそれを取り戻すことは不可能であろう。」(ネーゲル同書p33-p34)「われわれの卑小さや寿命の短さ、そして全人類はいずれ跡形もなくなく消滅するという事実への言及は、一歩退いて見ることのメタファー(隠喩)であり、そのことによってわれわれは自分を外部から眺め、特定の形態をとった自分の人生が好奇心をそそり少々驚くべきものであると気づくことができるのである。星雲的見地を気取ることによって、われわれは自分自身を、諸々の前提を取り払って、世界の中に存在する任意の独自性をもった、高度に特殊な個体として、つまり可能な無数の生の形態のうちの一つとして、捉えうる能力を例証しているのである。」(ネーゲル同書p35)その能力とは言語を習得した人間のみが有する超越論的認識能力のことであり、「自己意識と自己超越の能力」である。

 ネーゲルは人生の無意味さを消し去る方法を三つ書いている。

①あくまでも自分の衝動に忠実に生きること。理性も社会規範も倫理道徳も打ち捨てて反社会的行動をとること

②「人間の生が無根拠で取るに足らないものに見えるような普遍的な視点とできる限り完全に一体化するために自分の現世的で個別的な生を放棄すること」(ネーゲル同書p35)「自己脱色」self-etiolationというもので、「努力や意志や克己心」が必須

③自殺

 ①については、理性も社会規範も倫理道徳も打ち捨てて反社会的行動をとることは凶悪な犯罪者となることであって、社会から抹殺されるだろう。②は仏教における宗教的達人の道を進むことであるし、③は「生への意思」の意図的切断である。ネーゲルは上記の三つの方法についていずれも推奨したくないと思っている。「人生の無意味さこそわれわれに関する事柄のうちで最も人間的なものの一つ」であり、逆に「われわれの最も進んだ最も興味深い特長の現れ」(ネーゲル同書p37)なのだから、皮肉なことだと思いつつ、いつもの生活に戻るべきだと結論している。

 ネーゲルは人間に与えられた「自己意識と自己超越の能力」がいかなるものかを例証するために、その能力を獲得してしまったネズミがいたらという仮定の話を書いている。日本の家屋などに住むクマネズミは、寿命が約3年で生まれて3か月で繁殖を開始し、3週間の妊娠期間を経て1回の出産数が5-8匹。年に5-6回妊娠し、1年で25-50匹の子を産み、多数の子孫を残して死ぬ。1匹のクマネズミは一日中食べ物を探し、2ヵ月に1度生殖行為をする。3か月弱の間、子らを扶養するだろう。食べ物を探して駆け回るとき、天敵に殺されたり毒物で死んだり、過酷な環境の中で死ぬこともあるだろう。しかし、クマネズミは生への意思を持ち、生存のために全精力を傾注していく。そんなネズミについてネーゲルは書いている。「なぜネズミの生は無意味でないか。月の旋回もまた無意味ではないが、そこにはいかなる努力も目的も含まれてはいない。しかしネズミは違う。彼らは生きていくために努力しなければならない。それでもネズミの生が無意味でないのは、彼らには自分が単なるネズミにすぎないことを知るのに必要な自己意識と自己超越の能力が欠けているからである。もし彼らにそうした能力が備わっていたとすれば、彼らの生は無意味で馬鹿げたものとなるはずである。というのも、自己認識(それ自体)は彼らがネズミであることをやめさせてくれるわけでもなく、また彼らをネズミとしての努力を越えた高みに立たせてくれるわけでもないからである。自己意識が与えられたことによって、ネズミは、答えることのできない疑念に満ちた、しかもまた捨てることのできない目的にも満ちた、貧弱でしかも狂わんばかりの生に戻っていかなければならないのである。」(ネーゲル同書p34-p35)