中川恵一は書いている。
「日本人の2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで死ぬ時代になりました。まさに(がんは)『国民病』です。」(中川恵一『死を忘れた日本人』朝日出版社2010年5月20日p253)がんという病気は、脳卒中や心筋梗塞と違い、「ゆるやかで、残り時間まで(ある程度正確に)予測される死」であり、日本人の多くはそうした病気で死ぬという時代に「直面することになった」(同p254)が、逆に日本人は、この四半世紀で、「死から遠ざかっている」と中川は感じているという。「核家族化や病院死が進み、『死の予習』はむずかしくなりましたし、宗教の力に頼れる人は多くないような気がします。私たちは『素手』で、『新しい死』に立ち向かわなければならなくなりました。」(中川同書p254)「(アメリカにおけるキリスト教という)宗教の存在は、死と死にゆく人々をいまでも支えています。」(中川同書p239)ところが、「現代日本人の宗教心の希薄さは先進国の中でも際立っています。私たち(日本人)は宗教を支えとして死に向き合うことができない国民なのです。(改行)見たこともない『死』、それも『ゆるやかで、予見される死』『命の残り時間を告げられる死』を、私たちは、宗教の力を借りずに、『素手』で受け止めなければなりません。」(中川同書p240)
中川はあのキューブラー・ロスでも死の受容ができなかったと書いている。
「無条件の愛をとなえて、1万人以上の患者さんに寄り添い、多数の末期がん患者に面談」したキューブラー・ロスは1万人以上の死を見つめることで、十分すぎるほどの「死の予習」をしたはずなのに、「自分自身の死は『受容』できませんでした。(ロスの)晩年、脳卒中で倒れて、寝たきりになり、『神はヒットラーだ!』『もう十分よ!』とドキュメンタリー番組の記者にヒステリックにわめく彼女。(中略)『死の専門家』と呼ばれたキューブラー・ロスでさえ、『死の受容』はできなかったようです。(改行)しかし、『自分の死』を受け入れられない彼女の姿こそが、人間の本来の姿かもしれません。『死の受容』ができない姿を含めて、死の真実の姿を直視することが、死を知るための第一歩だと思います。」(中川同書p244-p245)
中川自身も正直にこう書きている。
「私が死ぬときには、その姿を映像に残して、私の死後に見てもらいたいと思っています。死ぬときにどう感じるのか、なにがつらいのか、あるいはつらくないのか、何をしておけばよかったのか、など『死のひみつ』を伝えたいと思います。できれば、死の直前のレポートもしてみたいですね。『あっ、いま三途の川が見えてきました』とか。案外じたばたするかもしれません。」(中川同書p245)
中川は死の恐怖について書いている。
「私たちが、...死を恐れる理由は何でしょうか?少なくとも2種類の『死の恐怖』があると思います。(改行)1つは『生から死にいたる過程』、つまり『死の苦しみ』に対する恐怖です。もう1つは、死んだあとの恐怖、つまり、自分という存在が消滅する恐怖です。」(中川同書p241)
中川は1つ目の恐怖(「死の苦しみ」)について、「私は、案外、生から死への移行(法的死の前の数時間)は、苦しいものではないのではないかと思っています。このことは、『臨死体験者』の証言でもよく言われることです。そして、間違いなく言えることは、死に至る闘病中の苦痛は、近年の医療技術の発達によって減らすことができるということです。」(中川同書p242)と医師らしいコメントを書いている。
「死が『苦しみ』でなくなったとき、『死そのものの恐怖』が姿を現す」(中川同書p245)と中川は言うが、このもう1つの死の恐怖をどう克服するか。中川の「余命宣告」を受けたがん患者に向けた「対症療法的解答」を見てみよう。(中川同書p249-p252よりそのまま引用)
①人間の死亡率は100%――自分も死ぬ、自分を含む歴史(地球上の人類全体のことか)も死ぬ、宇宙自体も死ぬ。→永遠は存在しないと知る。自分の死は孤独ではないと知ろう。葬式や火葬に積極的に参加することは、「死の練習」になり、孤独感の解消になる。
②時間からの解放――永遠も、貨幣のような「量としての時間」も存在しない。→時間は、一人ひとりに固有なものだということを確認しよう。自分に与えられた余命6ヵ月は、他者の6ヵ月とは別であると知ろう。時間を「量として比較」しないこと。そのためには、時計やカレンダーは捨ててしまおう。テレビも消してしまおう。
③自ら「創造した」個体の死――進化の中で、個体は「死」という道を自ら選択した。→死は、私たち自身が、進化の中で、自分で選んだ道なのだと知ろう。子供はあった方がよいとも言えるが、こだわる必要なし。すべての生き物は兄弟・姉妹のごときもの、大河の一滴。
④人間だけが死を恐れることができる――大脳を発達させた人間だけが死を恐れることができる。人間の特権!→死の恐怖は進化の到達点と知ろう。そして、宗教がなければ、死が恐怖になるのはあたりまえだと知ろう。自信喪失は禁物。恐怖は当然。信仰を持つのも一案。
⑤死という恐怖の対象を見据えよう――死が見えていないから、死が「お化け」になっている。→恐怖の相手≒死のプロセス(死後まで含む)を知っておく。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
⑥「簡単に死ねない社会」――日本では、死を定義する法律も、宗教や共同体の裏づけがないため、私たちの心情から乖離してしまう。→医師と患者・家族の「阿吽の呼吸」などは、もう存在しない。医師も殺人罪を問われるのは困るので、延命をやめることはできない。希望する「死に方」や「死んだ後」をきちんと書面で意思表示しておこう。
⑦死に至る苦痛の先にこそ、目を向けるべき――最も現代的な死=がん死は、「予見される死」でもある。そのメリットを活かそうではないか。そして、「死に至る苦痛」は除去できる。→苦痛をとったとき、「死そのもの」が立ち上がる。しかし、死んだ後は「自分の死」などなく、残された世界(遺族のいる世界)から見た「あなたの死」しかないことを知ろう。墓は、あなたのためにあるのではなく、残された者のためにある。もちろん、あなたの生きた証でもある。
⑧高齢者ほど、死が怖くない――年齢とともに、死は自然になり、受容できる。→「未熟な死」は避けよう、長生きは大事。生活習慣病対策+がん検診で、がん死は避けよう。できれば長生きした方が、いいに決まっている。
⑨何事も、バランスが大切――延命治療も大切、「さよなら」も大切。そのバランスをとることが大事。→あとは、みなさんで考えて下さい。(引用終わり)
「死そのもの」に対する恐怖心の解消に少しは役立つかもしれない。この本を通読していない人のために解説をつければ、以下にようになる。(ただし、④まで)
①人間の死亡率が100%である理由➔生物は進化の過程で無性生殖から有性生殖へと進化を遂げたが、無性生殖のときは細胞死はありえなかった(クローンに死はない)。しかし、有性生殖になって「かけがえのない自分」(個性をもった個体)ができたために、代償として寿命=細胞死が創り出された。(中川同書p35-)
②時間からの解放の意味➔「時間は『過去から未来へ一定の速さで流れている』『時間の進む速さはだれにとっても同じ』と現代人は感じています。そして、この永遠の、後戻りのきかない時間の流れの中で、自分の人生の時間がごく限られたものであることを、私たちは知っています。このことが、『人生ははかない』『生きることは虚しい』という感情の根底にあるのだと考えます。」(中川同書p26-p27)「時間は『過去から未来へ一定の速さで流れている』『時間の進む速さはだれにとっても同じ』」という考え方はニュートンの「絶対時間」という考え方であるが、この絶対時間概念が虚構であることは現代物理学理論(相対性理論)で証明されている。
③自ら「創造した」個体の死➔多細胞生物の死のプロセス(中川同書p88-)ではアポトーシスという「プログラムされた細胞死」の現象が起こる。コピーミスでアポトーシスを持たない細胞ががん細胞である。
④人間だけが死を恐れることができる➔「大脳を持った動物、たとえば猫でさえも『自分が死ぬこと』を恐れているとは思いません。それどころか、『自分はいつか死ぬこと』すらわかってはいません。猫の大脳は、死を怖がるほど発達していないのです。(改行)ところが人間は大脳を進化させた結果、『近い将来自分が死ぬ』ことを知ってしまいました。しかし、大脳はそのことを認めたがりません。遺伝子の単なる乗り物であったカラダが、死(=自然)を嫌う大脳という名の『臓器の王様』を産み出してしまい、ついには、当のカラダとしては、単なる『遺伝子のボディーガード』では、納得できなくなってしまったのです!(改行)しかし、じたばたしてもどうにもなりません。なにせ、もともと寿命などなかった私たちの遠い祖先(原核生物、バクテリアなど)は、みずから『性』とひきかえに『個体の死』を選択したのです。私たちは、自分たちが発達させてきた巨大な大脳によって『死の苦悩』を引き受けることになったのです。(改行)それどころか、私たちは、人類の歴史にも、宇宙そのものにも『終焉』があることを知ってしまいました。私たちは、『人類は死ぬべきものでない』と信じたボーヴォワールと違って、『遺伝子の永遠』(=歴史の永遠性)すらフィクションであることを知るに至ったのです。」(中川同書p60-p61)
(注)「人類は消滅するであろうと断言するのを、何者といえども許しません。人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものでないことをわれわれは知っています。」(ボーヴォワール「ピリュスとシネアス」『人生について』著作集2人文書院1968年p36)という文章のことを指している。