飢餓祭のブログ

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 和田秀樹は精神科医であり、近年は高齢者の生き方に関する本を多数書いてきたが、この本(『「さびしさ」の正体』)は若年層及び子育て世代に向けて書いた本である。

「友だちはいるのにいつも孤独を感じていて、自分は独りぼっちのような気がする。ちょっとしたことで、友だちに嫌われたかもしれないと気になってしまう。自分はどうしてこんなに生きるのが下手なんだろう、と落ち込む。

 日頃から、そんなふうに感じている人もいるかもしれません。」(和田秀樹『「さびしさ」の正体」』小学館  2023年10月3日 p3)

 そして和田は自分のことを書いている。

「(私は)昔からコミュニケーションの取り方が下手で不器用だったため小学校ではいじめにあい、孤独感を抱えていたこともありました。」(和田同書p3)「私には発達障害の気があって、なかなか友だちができなかったのです」。(和田同書p174)

 和田は、この本を書いた目的について次のように書いている。

「日頃から孤独感やさびしさを感じている人に向けて、

 どうしたら孤独感を減らすことができるのか

 どうやって、さびしさと付き合っていくか

 をお伝えしたいと思います。」(和田同書p4)

 この本を書いた目的はわかったが、それでは、本の題名にある「さびしさ」の正体とは何だと和田は言うのだろうか。その正体をきちんと定義の形式で書いていないが、この「さびしさ」という言葉を、「孤独感」「疎外感」とも言い換えているので、「さびしさ」の正体とは「孤独感」「疎外感」であるようだ。

 人はどのようなときに「孤独感」(孤立感)、「疎外感」を感じるのだろうか。

「人がどんな状況で孤独を感じるかは主観的な感覚であって、同居する人がいればいいという単純な問題ではありません。1人で暮らしていて、親しい友人は1人や2人くらいという人でも、その人たちと深くつながっている実感があれば、さびしさを感じることはありません。反対に、配偶者や友人がいても孤独を感じている人はいます。

 ですから、問題は(外形的に)孤独であることではなく、本人が孤独感や疎外感を覚えているかどうかです。

 疎外感と言うのは、自分が周りから疎まれているとか、排除されている、仲間はずれにされているなどと感じるときに生じる感情です。1人でいるときでも、自分は排除されていると感じなければ、孤独感や疎外感は生じません。」(和田同書p16)

 また、「疎外感や孤独感というものは、『自分がない』と感じるときにも湧いてくる」とも書いている。(和田同書p18)「自分がない」と感じるときとは、「自分の本当の気持ちを押し殺して」(和田同書p17)周囲に同調しなければならないときに起こる感じであるともいう。

 和田はこうした「さびしさ」を感じてしまう人間を2つのタイプに分類している。

「『さびしい』と感じている人には2種類のタイプがある」。(和田同書p19)

「一つは、もともと1人で過ごすことに耐えられないタイプです。そういう人は一緒に過ごす人がいない場合、苦痛に感じます。

 もう一つは、1人でいることは苦ではないけれども、常に『自分のことをわかってもらっていない』とか『本音が言えない』と感じている人です。精神科医として言わせていただくと、こちらの方が問題の根は深いと思います。

 どんなときにも、『周りに合わせないといけない』とか『友だちや先生に気に入られないといけない』と考えてしまい、心の底から他人とのつながりを感じられず、さびしさを抱えてしまうのです。」(和田同書p19-p20)

 和田が類型化したこの二種類の人間類型に実際に該当しているように見える人はそれぞれどれくらいいるのだろうか。

 まず、「もともと1人で過ごすことに耐えられないタイプ」の人間はいるだろうか。いるとしたら、多いのだろうか。「もともと1人で過ごすことに耐えられないタイプ」はあらゆる人間に該当するようにも思われる。人は一人では生きられないのだから、そうした意味においては、すべての人は「1人で過ごすことに耐えられないタイプ」と言ってもいいだろう。

 

 また、「1人で過ごすことに耐えられない」人間は、「どんなときにも、『周りに合わせないといけない』とか『友だちや先生に気に入られないといけない』と考えてしま」うタイプであるように和田は書いているが、本当にそうだろうか。私にはわからない。同じ一人の人間の中でも、いろいろな気持ちが混在している場合もあるだろう。ことと次第によって、周囲に合わせたり、周囲を無視したりすることもあるかもしれない。

 和田が描いた類型化はあまり有効であるようには思われないが、あえて和田の意図にそって考えると、前者は大多数の人間で、後者は少数に属すると和田は思っているらしい。

 ただ、和田の提起する「疎外感恐怖」がもたらす問題は、子どもの精神的発達に関して重大な影響があるという点には同意できる。子どもは精神的に発達途上にあるので、大人の教え込むことに強い影響を受けるからだ。 

 子どもが「どんなときにも、『周りに合わせないといけない』とか『友だちや先生に気に入られないといけない』と考えてしま」うような行動、つまり、「疎外感恐怖」から逃れるための行動を取ることで、子どもが自然に持つ気持ちや本音が押し殺されてしまうと、子どもの自尊心が育たなくなるという。「子ども時代に本音が出せなければ、自尊心は育ちません。」(和田同書p32)

 和田はその理由を次のように書いている。

「人はその時期(幼児期以降)に初めて集団生活をして、『人に言ってもいいこと』と『人に言ってはいけないこと』を学んでいきます。

 集団生活をする中では、それぞれに思うことや感じることもたくさんあるはずです。自分と同級生の外見の違い、学力の差、体力の差、感じ方や考え方の差異など、周りを見渡して『自分』というものを知っていきます。

 そのとき感じた率直な気持ちや本音を、子どもは自分の親だからこそ打ち明けるのです。

 それなのに、親が『そんなことを思ってはいけない』と否認したら、子どもは自由に考えることもできなくなってしまうでしょう。

『考えてはいけない』『心の中で思うのもよくない』という社会では、自由な発想ができなくなり、思考の幅が狭まってしまいます。そして、『人からどう思われるか』ばかり気にし始めると、ますます行動しづらくなってしまいます。

 結局、自分たちで自分たちを息苦しくさせているのです。」(和田同書p29-p30)

 内面の自由としての思考の自由がない世界は、専制主義の集団や国家と同じくらい生きづらい世界に違いない。

「そもそも子どもが『あの子より自分の方が上だ』と優越感を抱くこと自体は、それほど異常なことではありません。

 人と比べて勝つという経験をすることで自尊心が刺激されますし、子ども時代に自分が他人より優っていると思いたいのは人間としてごく自然な感情です。

 先ほどのコフートは、誰でも『人から愛されたい』『大切にされたい』という自己愛を持っている以上、この自己愛を完全に否定することはできないと考えました。

 私も、自己愛は否定されるべきではないと思っています。人は発達していく段階で養育者に認められたり、勇気づけられたりすることによって自己愛が満たされ、適切な自信を身につけられるようになっていくのです。

 そして誰でも、自己愛を保つために、他人を下に見て自分が優位に立ちたいという本音を持っています。

 その本音を親から否定されてばかりいたら、子どもは安心して本音を言える場所がなくなってしまいます。それどころか、友だちのことを悪く言ったときに親から注意されれば、自分はひどいことを考えてしまうダメな人間だと思ってしまうかもしれません。

 すると、成長してからも『こんなことを言ったら嫌われるかな』『こんなことを思う自分は冷たい人間なのかな』という不安を持ち続けることになってしまいます。

 ですから、私は子どもが思春期になるまでは、親子間では『言いたいことが言える』空気が必要だと考えています。」(和田同書p31-p32)

(注)ハインツ・コフート - Wikipedia はオーストリア出身のユダヤ系の精神科医、精神分析学者で、米国で精神分析医として活躍した。和田は1999年から2002年までに3冊のコフート関連の本を出版している。

 発達途上の子どもは自己中心的、つまり、「他者の視点ではなく自分の視点からしか見られない傾向」があるという。脳科学者の西剛志は「この『自己中心性バイアス』は未発達の幼い子どもに多く見られますが、成長とともに弱まっていきます。しかし、幼いときに『自尊心』が十分に満たされなかった人は、大人になってもこの『自己中心性バイアス』が残っていることが多々あるのです」と書いている。(西剛志『あなたの世界をガラリと変える認知バイアスの教科書』SBクリエイティブ 2023年2月7日 p127)

 和田は健全な自尊心を養い、かつ、適切な「本音と建前」の使い方を学ぶことが大切だというのであるが、現代日本において、「本音が言えない若者」が増えているという。

「私が小学生くらいの頃までは、学校では勉強のできる子や、運動のできる子が高く評価されていました。

 ところが、その後受験戦争が過熱し始めると、教育関係者や文部科学省の中に『競争が子どもの心の成長を妨げる』だとか『受験勉強をする子どもは性格が悪くなる』などということを言う人たちが出てきて、学校では子どもたちに競争させない方がいいという論調が高まっていきます。

 その結果、80年代以降ほとんどの学校でテストの順位を貼り出すことをしなくなりました。運動会の徒競走でも、順位をつけると運動の苦手な子が傷つくという理由から順位をつけない学校が増えました。

 学芸会でも、主役のはっきりしない集団劇を行う学校や、複数の主役を用意する学校が増えています。

 こうして学校から競争を排除する動きが高まり、その結果どうなったかというと、それまで脚光を浴びていた成績のいい子や運動のできる子に代わって、友だちの多い子が脚光を浴びるようになったのです。

 勉強を頑張っても、スポーツで頑張っても、生徒が先生に褒められる機会は減ってしまいました。平等意識の行き渡った教育現場では、生徒に差をつけるのを極力避けるので、生徒も学校の中で自分の実力がどの程度あるのかがわかりにくくなります。

 そんな中で、一つだけわかりやすいものがあります。

 それは、友だちの数です。

 (中略)

 結果的に、子どもたちは友だちの多さを競うようになっていき、90年代からは『学校カースト』『スクールカースト』などの言葉も登場し始めました。目立つ部活に所属しているとか、容姿が整っている、声や体が大きい、コミュニケーション能力が高いなどの子どもたちがクラスで上位に立つという風潮です。

 いつの間にか、友だちの数やコミュニケーション能力の高さが人間の優劣を決めるものになってしまったわけです。」(和田同書p52-p54)

 

 子どもたちの学習能力や運動能力の優劣は歴然と存在する。それが自然な姿である。そうした優劣に基づくランクづけや競争を排除したいと考える学校は、いじめをなくすという観点から、「あだ名やニックネーム」まで禁止する学校も増えているという。(和田同書p58)

 学校はこうして、「子どもが傷つかないように事前のルールをつくり、1人で過ごしている子どもがいれば、先生が声をかけて一緒に遊ばせる。そうすれば、仲間はずれやいじめは起きないはずだ」(和田同書p58)と教育界の役人たちは考えているという。それに対して和田は子どもを過保護にすることはいいことかと疑問を投げかけている。

「学校で子どもが傷つかないように配慮されたとしても、社会に出ればいまだにパワハラやセクハラ、モラハラなどが横行している組織もあります。差別はよくないと言いながら、性別や国籍、出身地、外見、学歴などいろいろな理由で差別が行われることがあります。

 また、子ども時代は人間性がもっとも重視されて育つのに、社会に出てからもっとも評価されるのは『いかにお金を稼げるか』や『どれだけ効率よく仕事ができるか』ということです。社会に出た途端、日本だけでなく世界との競争を強いられ、そこで業績が悪ければ上司から叱られ、場合によっては減給や降格もあり得るのです。

 つまり、今の教育というのは、大事なペット状態で育てた子どもをいきなり野生のサバンナに放り込むようなことをしているわけです。

 子ども時代に、絶対に傷つけないような配慮をされていた子どもたちが、いざ社会に出てうまくやっていけるでしょうか。私は疑問だと思います。」(和田同書p58-p59)

「そもそも、競争をなくして公平に生徒を育てようというのはきれいごとに過ぎません。一つの競争を排除すれば、必ず別の競争が生まれます。人間というのは基本的に他の人に勝ちたいと思う生き物だし、(自己中心的な)子ども時代はなおさらです。

 時々、『小学生のうちから塾に行かせるなんてかわいそう』と言う大人がいますが、友だちの数ではなくて成績で競争できる塾の方がむしろホッとする、という子どもも意外に多いのです。子どもに勉強させるのが気の毒だというのは、大人の勝手な思い込みです。

 もちろん勉強が嫌いな子どももいますから、そういう子が無理やり塾に行かされたら大変だと思いますが、少なくとも勉強や運動というのは努力すれば一定の成果が出るものです。人付き合いが苦手な人が友だちをたくさんつくれと言われる方がずっと大変なはずです。

 私は、大人は子どもに世の中には多様な選択肢や生き方があることを教えてあげるべきだと思っています。

 大事なのは偏差値だけでもないし、友だちの数だけでもない。それぞれが得意なものを見つけて、それを伸ばしていくことです。」(和田同書p129-p130)

 受験競争があたかもないかのような「平等意識の行き渡った教育現場」や「教育界の役人たち」も大学受験システムに対して競争排除や平等(何の?)を貫くことはできていない。東大などの難関大学に算数の掛け算や分数の計算ができない子どもを無条件で入学させる制度までは確立できていないのだ。彼らも子どもたちの学習能力が不均等で、できる子もできない子もいるということまでは否定できない。子ども時代において子どもたちの心を絶対に傷つけないような配慮をするという学校の方針が実現可能なのは、大学受験のための高校の前、小学校やせいぜい中学校までとなる。それ故に、小中学校の子ども時代は現実社会とは全く異なる「楽園」エリアとなっているようだ。

 和田は、この楽園のような教育現場は子どもたちの免疫力、自分たちへ向けられる悪意や攻撃に対して自分を守ることができる能力を低下させてしまうのではないかと危惧する。

「それまで悪口を言われたことがない、仲間はずれにされたことがない、傷ついたこともないという状態では、傷つく経験に対する免疫力が低くなってしまい、悪口を一回言われただけで大きなダメージを受けてしま」うのではないかという。(和田同書p60-p61)

 和田は佐世保小6女児同級生殺害事件 - Wikipedia について言及し、子どもの免疫力の低さに関して上記のように書いたが、この殺人事件の様相は和田が書いているような、被害者が加害者の「身体的特徴」をからかったという経緯とは少し違うようだ。

 上記wikipediaには次のように記載されている。

2004年平成16年)5月下旬頃、遊びで被害女児が加害女児をおんぶしたとき、加害女児に「重い」と言い、加害女児は腹を立て「失礼しちゃうわ」と言った。加害女児は冗談を深刻に受け止めてしまったとみられる[書籍 30]。その後、被害女児は自分のウェブサイトに「言い方がぶりっ子だ」と書いた。それを見た加害女児は、予め交換していたパスワードを使って被害女児のウェブサイトに侵入し、その記述を削除した。しかしその後、再び同様の書き込みをされ、加害女児は被害女児に殺意を抱いた。》

 殺された被害女児が加害女児が太っているから重いと言ったことが直接の殺人の動機ではなく、加害女児が「失礼しちゃうわ」と言った言い方が「ぶりっ子」のような言い方だと揶揄したこと、それも加害女児が削除しても再度被害女児が書き込みをしたことで加害女児は殺意を抱いたということが真相のようだ。

 この事件のそもそもの原因は、他人の悪意や攻撃であるが、これらのものはなぜ生まれるのだろうか。

 和田は「集団生活をする中では、それぞれに思うことや感じることもたくさんあるはずです。自分と同級生の外見の違い、学力の差、体力の差、感じ方や考え方の差異など、周りを見渡して『自分』というものを知っていきます。」と書いた。子どもの「そのとき感じた率直な気持ちや本音」(和田同書p29-p30)、すなわち「自己愛を保つために、他人を下に見て自分が優位に立ちたいという本音」は、人間が自然本性として持つ気持ち、感情である。そして、自分以外のクラスの他の子どもに対しての、いろいろな差異について、あるときには「不快を覚え」、あるときには「嫌悪し、軽蔑し」、「自分の帰属する人間集団を誇り、優越感に浸る」(中島義道『差別感情の哲学』講談社 2015年2月10日 p11)こともあるだろう。子どもは、成長するに従って徐々に「言っていいこと悪いこと」をわきまえるようになり、大人になっていく。しかし、こうした悪意や攻撃心が意図的に隠された楽園で育った子どもは、和田が心配するように、ひ弱で、打たれ弱くなるかもしれない。

 ただし、この加害女児に限っては、自分に対する悪意や攻撃に対する「免疫力」が特別に低かったのは、加害女児がサイコパスであったからだと私には思われる。そうでなければ、殺人までには至ることはなかったと思う。( 精神病質 - Wikipedia を参照) 

 

 和田は「さびしさ」の正体である「さびしさを恐れる疎外感恐怖」 を抱えている人に対する解決法を2つ提示する。

「解決方法は大きく分けて二つあります。

 一つ目は、周りの人やマジョリティに合わせておくこと。周りの意見に賛同して、人と違うことはしない。多数派の意見に合わせて無難なやり取りだけをする。それによって、とりあえず表面的な友だちを増やしていくというやり方です。

 もう一つは、少数でいいから自分の本音を受け入れてくれる味方を見つけて『自分は1人じゃない』という安心感を得ることです。」(和田同書p84)

 しかし、一つ目の方法に対しては和田自身が否定する。

「まず1つ目の方法ですが、私はおすすめしません。

 なぜなら、これまでもお話してきたとおり、表面的な友だちが増えていけば自分は仲間はずれにされていないと感じてひとまず安心するかもしれませんが、それはその場しのぎのものでしかないからです。

 今度は、その友だちに嫌われてはいけないというプレッシャーが出てきます、それが本当に気の合う友だちならいいのですが、そうでない場合は無理をしてでもその場になじまなければいけないという同調圧力が働いて、ますます自分の本音を誰にも打ち明けられなくなってしまいます。

 一時的には疎外感を覚えなくなっても、そのうちもっと辛い状況に陥ってしまう可能性があるのです。

 それよりも、少数でいいから自分の本音を受け入れてくれる味方、特に親友を見つけることの方が本質的な解決につながるはずです。

 精神分析の世界では、親友というのは自分の親以外に自分の秘密や本音を打ち明ける対象だと考えられています。

 誰でも、中学や高校くらいの思春期になると親に言えないことが出てきます。好きな人や嫌いな人の話、自分の体や心の変化、性的な悩みや戸惑いなど、とても親には話せないと思うようなことを、きっとこの人ならわかってくれるはずだと信じた友だちに打ち明けるようになります。

 そして相手がそれを受け入れてくれて『俺も同じ』とか『私もそう思っていた』という話になると、『自分だけが変なわけではない』『自分は皆と同じ人間なんだ』という感覚を持つことができ、他者と適切な関係を築けるようになっていきます。

 これが理想的な成長ストーリーです。

 幼少期の家庭では自分を全面的に受け入れてくれる親や保護者がいて、その後ろには自分の秘密を受け入れてくれる親友がいることによって、人はさびしさを抱えずに生きていけるわけです。」(和田同書p85-p86)

 

 和田は、「周りの人やマジョリティに合わせておくこと。周りの意見に賛同して、人と違うことはしない。多数派の意見に合わせて無難なやり取りだけをする。それによって、とりあえず表面的な友だちを増やしていくというやり方」を取っている人間はよくないという。周りの意見に自分を合わせるということは、自分の意見を言わないことであるが、このとき、自分の頭で考えたことを言わない場合とそもそも自分では考えない場合の二つがある。この二つの場合のどちらも、「自分」がなくなっている。自分の考えを言わないことで自分はなくなるし、自分で考えないことでも自分はなくなっている。

 では、「自分」や「自分らしさ」とは何なのだろうか。

「私は、子ども時代の大きな仕事は『自分らしさ』の核を身につけることだと思っています。ですから、周りから『変わっている』とか『皆に合わせられない』と言われたからといって、あなたがそれをネガティブに捉える必要はありません。

 10代や20代というのは『これから自分はどんな大人になりたいのか』を模索している最中です。そんな時期に『性格が合わない人にも何とか合わせよう』とか『苦手な仕事だけど、有名企業だから我慢しよう』という生き方をしていたら、自分らしさなんて見つかるはずがありません。

 たとえば何か違う気がしてもとりあえず周りに合わせて『そうだね』と同調するということは、自分の気持にウソをつくということです。『私はこう思う』『私はこうしたい』という自分の欲求や感覚を殺しているということです。

 それを続けていると、自分が自分の感覚や欲求を信じることができなくなり、何をしていても不安になります。

 また自分の欲求や感覚を殺して生きている限り、生きていることが味気なく、辛いものになってしまう可能性があります。孤独や孤立を恐れてその場に合わせる生き方を選び続ける限り窮屈で、むしろさびしさは消えないままです。

 それに、人と意見が違うのはごく当たり前のことです。多少、意見が食い違ったとしても、あなたの人格や存在意義が否定されるわけじゃありません。

 数あるコミュニケーション能力のうち、若い頃に学ぶべきなのは、周りの空気を読んで自分の欲求や感覚を押し殺すことより、自分の考えや気持ちをうまく人に伝える力です。そのための練習をする時期です。

 あなたの意見や考えと合わない人からは批判されるかもしれませんが、それをいいと思ってくれる人は、あなたの大きな味方になってくれるはずです。

 その人こそ、あなたの一生の宝になるのです。」(和田同書p144-p145)

 和田が「少数でいいから自分の本音を受け入れてくれる味方を見つけて『自分は1人じゃない』という安心感を得ること」を強く勧めるのは、人間は自らの生涯において、「自分の本音を受け入れてくれる味方」すなわち「あなたの一生の宝」を見つけることができれば、「生きることは楽しむこと」(和田同書p171)だという実感を持つことができるようになるからだという。

 和田は「ひとりぼっちでいることや友だちがいなくなる恐怖」とは、「主観的なもの」(和田同書p172)だと書いている。だから、一人暮らしの単身者であっても、「自分の本音を受け入れてくれる味方」が一人でもいれば、十分だというのだ。

 しかし、和田の条件では、「自分の本音を受け入れてくれる味方」が最低でも一人は必要になる。そうした味方が一人もいないと疎外感や孤独感に悩んでしまうことになるのだろうか。

 和田はそのあたりを論じていないが、加藤俊徳という脳内科医は次のように書いている。

「新型コロナでさまざまな制限がかかり、外で飲んだり遊んだりすることが難しくなりました。学生も社会人の人たちも、自宅や自室にこもる時間が多くなり、孤独感にさいなまれる人もずいぶん増えたように思います。

 ところが、中にはそんな状況にほとんど苦痛を感じない人もいます。むしろ、一人になれる時間が増えてよかったと感じる人たちがいます。

 ただし、だからといってそういう人たちがふだん人づき合いが悪いとか、引きこもりで外に出ない人だというわけではありません。

 むしろ社交的で知り合いや仲間が多いにもかかわらず、一人になることが苦痛ではないという人たちです。

 そういう人たちは、自己の内面と対話するのが好きな人たちと言えるでしょう。本を読んだり、絵を描いたり、音楽を聴いたり演奏や作曲をしたりする。内面と向き合うことで自己発見し、それをアウトプットすることに喜びを感じるのです。」(加藤俊徳『脳の名医が教えるすごい自己肯定感』クロスメディア・パブリッシング 2022年8月1日 p91-p92 )

 加藤のいうこれらの人たちは「自律性自己肯定人間」という人たちだという。こんな理想的な人間になりたいものだ。しかし、加藤も言っているように、この型の人間は現実にいるわけではなく、いわゆる「理念型」的人間類型である。

 この「自律性自己肯定」型という人間類型は、リアルな自己認知に基づくリアルな自己を受け入れ、「他者からの否定的評価や自分の現状に対して、自分を見失ったり、自信をなくして落ち込んだり」せず、「むしろそれらを糧にして、さらにあるべき自己像、ありたい自己像を前向きに追求」する人間である。(加藤前掲書p72)他者の評価に右往左往する(それを他律性の人間という)のではなく、あるべき自己像、ありたい自己像によって自己評価するから、他律ではなく自律している。そしてその前向きの努力をする自分に対して「自己肯定」していくわけだ。

 和田の推奨する「自分の本音を受け入れてくれる味方」について加藤は次のように書いている。

「これからの人間関係は数ではなく、質を重視するといいでしょう。その際、自分の自己肯定感を上げてくれる相手を選ぶことをお勧めします。たとえば前向きで、明るく人生を生きている人、あなたを受け入れてくれる人、あなた自身が心を開いて向き合える人。会っていると心から楽しいと感じられる人。一緒に何かを学ぶことができ、成長できると考えられる人。……。これらのポイントから、友だちを選ぶことが大事だと思います。」(加藤同書p153)

 この条件をすべて満たすのは難しい条件であるが、それらの条件の中で一つだけ満たす人を求めるのは容易かもしれない。加藤の6条件のひとつでも当てはまれば、それで良しとしてもいいだろう。和田の条件は加藤の6条件のうちのたった一つである。「あなたを受け入れてくれる人」だ。

 これに加えて「あなた自身が心を開いて向き合える人」に当てはまる人をそれぞれ一人ずつ見つけることだ。

 後は、書物を友とする、でいいのではないかと思う。