飢餓祭のブログ

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 南直哉は禅僧である。宗派は道元を開祖とする曹洞宗である。南直哉 (禅僧) - Wikipedia

によれば、昭和33年生まれの67歳だという。

 この本の題名『死ぬ練習』という言葉で想起されるのは、ソクラテスの「哲学とは死ぬ練習である」という言葉だ。ソクラテスの「哲学は死の練習」とはどういう意味なのか? によれば、ソクラテスは次のように話したという。

「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。」(『パイドン』岩田靖夫訳、岩波文庫、1998年、38ページ)

 この本を引用している「哲学35L」というブログの著者は前掲のサイトにおいて次のように書いている。

《一見してぎょっとするような発言です。哲学が死の練習とは、一体どういうことなのでしょうか?哲学は自殺訓練所のような危険なものと言いたいのでしょうか?

 もちろんソクラテスはそういうことを意図していたのではありません。『パイドン』の中でもソクラテスは自殺はすべきでないとはっきりと言っています。

 それではどういうことなのかというと、まず、哲学者は「正義とは何か」「幸福とは何か」といった問いについてひたすら考えることで答えを得ようとします。

 ひたすら純粋に考えるということは、身体的な欲求に振り回されないということでもあります。身体の欲求に惑わされずに哲学すること、それは思考(魂)と身体を分離させようとすることであり、すなわち死の準備なのだ、というのがソクラテスの説明です。

 なお、『パイドン』はプラトン対話篇の中期に当たる作品です。そのためこれはソクラテスというよりもプラトンの考え方と言った方が良いかもしれません。実際に『パイドン』の後段ではプラトンの思想であるイデア論も出てきています。

 少し話が逸れましたが、私はこの「哲学は死の練習」という発想に対してある意味で納得しているところがあります。

 

「生きることと死ぬことは一枚のコインの表と裏である」

 

 私は小学生の時に『ソフィーの世界』を読んで以来、生と死のことをこのように考えています。生きていることの尊さは自分がいつかは死ぬということを通してはじめて実感できます。自分はある日この世界からいなくなってしまう、だからこそ今を大切に生きようとすることができるのだと思います。

 現代の日本は特に死を遠ざける傾向が強いと思います。伝統的に死をケガレとして忌む文化であったことに加えて、病院や高齢者施設に死を押し付けることができ、また医療の発達で平均寿命が伸びたこともあって、日常の中で「死」を目にすることはほとんどなくなりました。

 だからこそ、死をタブー視してあまり考えないようにしている人も多いことでしょう。

 哲学者はそうしたことはしません。私はなぜ生きているのか、死ぬとはどういうことか、といった問題に向き合って真剣に考えようとするのが哲学の営みです。

 それはある意味では死の準備といってもいいかもしれません。哲学者は自分がいつか死ぬということをタブー視することなく考え続けているのですから。

 しかし、それは限りある自分の生を大切に生きようとすることでもあります。

 死についてタブー視して考えないようにしてきて、病気になってからはじめて生の尊さを知ったという人も多いかもしれません。

 哲学することで病気でないうちから自分の生の尊さを実感することができるのだとすれば、1日1日をもう少し大切に生きることもできると思いませんか?》

 このサイトによると、「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ」という言葉の真意は「身体の欲求に惑わされずに哲学すること、それは思考(魂)と身体を分離させようとすることであり、すなわち死の準備なのだ」ということらしい。肉体を持つ人間は死ぬことで肉体という牢獄から解放されて「イデアの世界」へ行くのだと信じているプラトンらしい考え方である。

 南はこの本の題名『死ぬ練習』について、この本の末尾に次のように書いている。

「死ぬために生きる」(小見出しの文言)

「『どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるんですか』

 人はそう自らに問い、あるいは他者から問われたとき、生きる『理由』を答えようとするだろう。

 そうではなく、一切の答えを断念して、死を『どうせ』と投げ出さず、『めざして』行く。すなわち、『死をめざして生きる』。

 この耐え難い逆説から、予め破綻した『自己』の在り方を見つめ続けて、なお『生きる』。この過程こそが『死ぬ練習』だろうと、いま私は思う。」(南直哉『死ぬ練習』宝島社 2020

年9月10日 p211-p212)

 この「死をめざして生きる」とは、「死ぬまでは生きる」ということである。換言すれば、「生きるために生きる」、つまり、「生きることそれ自体が生きる理由だ」ということだろう。

 そうすると、南が「死ぬ練習」と書いた理由とは「生きるために生きよ。そのために練習(準備)をせよ」ということのようだ。

 

 死についての最も深刻な問題は、死の不安、あるいは死の恐怖をどう克服するかという問題である。

 南は次のように書いている。

「(死の)不安は恐怖とは違う。不安は正体不明のものに脅威を感じることである。恐怖はその対象がわかっている。

『幽霊の 正体見たり 枯れ尾花』という諺があるが、『幽霊』と『枯れ尾』の区別がつかないから、人は不安になるのであって、それがまさに『幽霊』だとわかって初めて、恐怖するのである。

 死が絶対にわからないなら、恐怖することはできない。では、人が『死ぬのが怖い』と言うとき、何を言っているのか。『怖い』対象は何だろうか。

 一つに、死ぬまでの身体的苦痛だろう。『死がイヤなんじゃない、死ぬのがイヤなんだ』という誰かのセリフは、それを言っているのだろう。

 もう一つは、『死んだらどうなるか』という問題だ。結局、それらは、『死そのもの』ではなく、『死ぬ前』と『死んだ後』の話にすぎない。

 このとき、『前』は主に医療の問題であり、『後』は宗教の領域にある。その『後』の問題で肝心なところは、それがあくまでも『自分の死後』の話だという、当然きわまる話である。

 だが、この『自分の』ということの意味は、よく考えておかなければならない。それは『死の不安』が、実は『自分が存在していることの不安』に直結していて、それゆえに強い『死後』(つまり、死後の世界の実在-引用者)の需要を喚起しているからである。

 死が絶対にわからないことだとすれば、それは言うなれば、『生きてゆく』ということが、行先のわからないまま歩いているのと同じで、要は『彷徨(さまよ)っている』のである。これは不安である。

 目的地がわからず彷徨(さまよ)っている不安をかろうじて抑えているものがあるとすれば、出発地点はまだ覚えている、ということだ。いざとなったら帰ろう、出発地点に引き返して出直そう――そう思えばこそ、現在の彷徨に耐えられもしよう。

 とすると、死が何かわからないという不安がどうにも解消できないとなると、思考は反転し、では生まれるほうはどうだ、となる。出発地点を確認したくなるわけだ。つまり、なぜ生まれてきたのかがわかれば、死の意味もわかるかもしれない、と考えるのである。無理もないところではある。

 ところが、死と同様、自分がなぜ生まれたかも、絶対にわからない。死と同様、誕生するとき、それを経験できる『自分』はいないからである。

 生まれた後に、その『(生まれた)理由』の話をする人間は大勢いる。ある者は『神が命令した』と言い、別の誰かは『仏が送り出した』と言うかもしれない。しかし、何を言おうと、それらはすべて後知恵で、本当かどうかは確かめようがない。本当か嘘かわからないことは、普通『理由』や『根拠』にならない。

 生まれてくる前、母親のお腹の中にいる間に、どこからか何かの声が聞こえてきて、『君は〇〇年△△月✕✕日に、日本の某県に、こういう人を両親として生まれ、およそこういう人生を送ることになりますけど、よろしいですか?』と問われて、『ハーイ』と返事をして生まれてきたなら、これを『理由』だの『根拠』だのと言うのも道理だが、それ以外はお伽噺と変わらない。

 われわれは事実として、何の理由も根拠もなく生まれる。ということはすなわち、自分の生の意味も価値も知らぬまま、問答無用、ただ生まれてくる。これは死の絶対的わからなさと同様の『原理的なわからなさ』なのである。」(南同書p34-p37)

 南は「死が絶対にわからないなら、恐怖することはできない」と書いているが、人は、他者の死を通して、いつかはわからないけれども、自分も確実に、必ず死ぬことを知っている。すなわち、自分の生が切断され、この世を去らねばならないことも知っている。南は恐怖とは何ものかについての恐怖であると言っている。死の恐怖の対象は自分の生の断絶であるが、死んだらどうなるかがわからない、つまり死は経験できないということであるなら、やはり、死の恐怖と言うのではなく、死の不安というべきなのかもしれない。

 南は、死に伴う肉体的苦痛(死ぬ前)と死んだらどうなるのかという死んだ後の心配が死の恐怖の正体であると書いているが、前者はそうだが、後者は、やはり、死後になにもないこと(無になってしまうこと)への恐怖(不安)だろう。  

 南は、死への不安(恐怖)について次のように書いている。

「死が呼び起こす感情は不安である。死の不安は、『絶対的わからなさ』、換言すれば、『あらゆる意味の徹底的な否定』に直面するときの感情だ。

 退屈を『存在の無意味』が露呈したときの意識だとすれば、死の不安は『死の非意味』があらゆる意味を破綻させることから生じる。

 だとすると、理屈で考えれば、この不安は自己の存在の全体を覆うことはない。覆われたら、われわれは存在(自分の存在の無意味さ-引用者)に耐え切れないからである。

 だからと言って、自死もできない。自死の『決断』は、何らかの意味を必要とするからだ。『死に甲斐(生きているよりマシだと思うから、死ぬ気になるだろう)』がないのに、人が死ぬことはないからである。

 死の不安は、あらゆる行動を封じ込める。そして、その身動きできないことの耐えきれなさが、直ちに『生きることの意味』への圧倒的な欲望として噴出するわけである。

 前世や来世への尽きない興味、すなわち死を意味づけ、物語ろうとする意志は、結局、『自己であることの欲望』そのものなのである。」(南同書p41-p42)

 南は「死の不安は、あらゆる行動を封じ込める。そして、その身動きできないことの耐えきれなさが、直ちに『生きることの意味』への圧倒的な欲望として噴出する」という。

「死の非意味(化)」とは死の持つ「あらゆる意味の徹底的な否定」作用のことだと思われる。死は生きている人間の生を奪うときにその生の意味をも奪い去ってしまう。だから、人間は「生きることの意味」を奪われないように、逆に生の意味を担保してくれるものを激しく求めることとなる。そして、その死の強烈な「非意味化」に対抗できるのは、死後の世界があるという信念とそれによって作り出される生の意味の確信である。この生の意味を求める欲望は、死後の世界における「死を意味づけ、物語ろうとする意志」であり「自己であることの欲望」でもあるという。死後の世界においても(死んだとしても)、あわよくば、「自分であり続けたい」と欲すること、自分の体験系列=個人史の記憶を保持したまま、そして肉親やご先祖様にも再会できることを欲することが「『自己であることの欲望』」の意味合いだろう。

 要するに、人間は死の非意味化=無価値化を受け入れられず、自分が死んで無になることにも耐えられない。死後も自分が自分であり続けることを望まずにはいられないのだ。

 伊佐敷隆弘が書いていたように、おそらく多くの人間は、本当のところはわからないと感じつつ、極めてわずかな希望と慰めとして、死後も「すぐそばで子孫を見守」ってたいと思っているのではないだろうか。(伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学』亜紀書房 2019年10月7日p12)それは誰も責めることはできないと思う。死と生についての随想その125 (伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?』から) | 飢餓祭のブログ

 2013年に統計数理研究所が行った『日本人の国民性調査』において、「あの世」を信じるかというアンケートに40%の日本人が「信じる」と答えており、19%の人が「どちらともきめかねる」と答えている。「信じない」は33%だった。

#3.5 「あの世」を信じるか (全体)

 

 南も次のようにも書いている。

「行先がわからず、出発地点もどこだかわからない者に、歩いている理由や意味などはわかるはずもない。死がわからず、生まれた理由も不明なら、その間の『私』、すなわち自己の意味など、おしなべて錯覚にすぎない。これは、自己に極限的な不安を与える状況である。

 だから人は無意識的に、ほとんど本能的に、この不安を解消しようとする。『死後(死後の世界)』が語られてやまないのはそのせいであり、同様に『前世』を語る言説が人を魅惑してやまないのもそのためである。」(南同書p42-p43)

 

 南は曹洞宗の僧侶である。この本の第7章は「仏教における死」と題されている。

 南は「無常・無我・縁起」という仏教用語を解説している。

「無常」「無我」「縁起」とは何か。

「これこそ仏教の基本中の基本の考え方である」という。(南同書p156)「この語は、『儚いなあ』などと嘆息している、オマエ自身(こそ)が儚い(のだ)と教示する論理なのである。

『無常』の反対の『常』は、何ものかについて言う言葉である。ということは、その何ものかは、『常にそのものであり続ける』わけである。つまり、そのものは、『常に』、『変わらない』もの、ということになる。

『常に』『変わらない』ためには、そのものの在り方が、そのもの以外のものから影響を受けて変化してはならない。すなわち、そのものは『そのもの自体』で存在しなければならない。

 仏教の言う『無常』の思想は、まさにこの『常に・変わらない・そのもの自体で存在するもの』を否定する。

 古代以来インド思想では、この『常に・変わらない・そのもの自体で存在するもの』を『アートマン』と言い、漢訳では『我』となる。仏教はこの『我』を否定しているのだ。『常』の否定は論理的必然的に『我』の否定になる。

 仏教の考え方は、正確に言うと、そのような『我』が実在するか否かは、判断しないという『無記』という立場を取るのだが、『我』の概念は、あると断言しない限り、無意味で、ないも同然である(あるかないかわからないものに『常に』『普遍』などと言ってもナンセンス)。これが、『無常』『無我』のアイデア(観念・概念)である。」(南同書p156-p157)

「常に・変わらない・そのもの自体で存在するもの」(アートマン)はないように思われる。だから、すなわち、「アートマン」はない。ここから、「無常」という概念が出てくるという。このことは確かであるが、では、「常なるもの」であるところの「アートマン」が「我」すなわち「私」であるのだろうか。ブッダは「無記」と答えたという。無記とは「実在するか否かは、判断しない」という意味だという。南はアーナンダとブッダとの問答のことを書いているが、マールキヤプッタには次のように答えたという。無記 - Wikipedia によれば、次のようである。

《釈迦は、修行中のマールキヤプッタ尊者より、これまで釈迦が回答を避けてきた以下10つの疑問について回答を求められた。

  1. 世界(loka)は常住(sassato)であるのか

  2. 世界は無常(asassato)であるのか

  3. 世界は有限(antavā)であるのか

  4. 世界は無限(anantavā)であるのか

  5. 生命(jīvaṃ)と身体(sarīra)は同一か

  6. 生命と身体は別個か

  7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか

  8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか

  9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか

  10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

これに対して釈迦は、毒矢のたとえを説き、「それら(上記の10の質問の答え)がどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みは存在する。それらを制圧する方法を私は教えるのである」と回答した。》

 毒矢の喩えとは、毒矢が刺さった人を救うためには、悠長に話をしている時間の余裕がないので、今できる治療をするべきだというようなことである。

 

 「我」(自我・私)について、南は次のように書いている。

「『私』の同一性、自分の記憶と、他者がその同一性を認めるかどうかに依存している」(南同書p158)が、自分の記憶の確からしさも多くは他者からの認定に支えられているので、「私が私であることの根拠は、私の中にはないのだ。」(南同書p159)という。

 このような「自己の存在が自己以外のものとの関係から構成される」(南同書p159)という考え方、その関係を「縁起」というと南は言う。

 縁起 - Wikipedia には次のように解説されている。

《縁起(えんぎ、: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。》

 

「輪廻」とは何か。

「輪廻は、要するに生まれ変わり、死に変わりのことである。原型となる思想は古代インドに土着する思想で、仏教はそれを取り入れ、教義として洗練させた。

 生まれ変わり、死に変わりするのだから、姿かたちや生きる境遇が違っても、前世があり、現世があり、さらに来世があって、その三世に一貫して存在する同じ自分がいる、という話である。しかも、現世の境遇は前世の自分の行ないの善悪によって決まったのであり、現世の善し悪しが、来世に行ったときの境遇を決める、という筋書きになる。」(南同書p160)

 輪廻の詳細については、 輪廻 - Wikipedia を参照。

 ここで面白いのは、南が「輪廻の矛盾」を主張し、輪廻はないほうがいいと言っているところである。南は次のように書いている。

「われわれが迂闊に生きていると、いつまでもこの輪廻をぐるぐると繰り返して苦しみがやまないから(天人さえ衰えて死ぬ)、修行して真理を悟り、輪廻から『解脱』(解脱の結果が『涅槃』)すべきだというのが、これまで仏教で通説とされている教義である。

 すると、すぐわかるのは、輪廻のアイデア(観念・概念)が無常・無我・縁起の大原則と真っ向から衝突することである。輪廻を言う限りは、いつでも、どこでへ生まれ変わっても、同じ自分であり続けることを保証する『我(アートマン)』に当たるもの、たとえば、『霊魂』のような存在を設定せざるを得ない。これは仏教の最もユニークで核心的な思想と致命的に矛盾するのだ。」(南同書p161)「輪廻は仏教に理論的にまったく不要なのに、仏教以前のインド土着の思想から引き込まれた、余計なアイデア(観念・概念)なのである。」(南同書p164)

「往生」とは何か。

「往生」概念は、南が指摘するように仏教の教義において「異質」なものであるという。(南同書p169)それは、往生 - Wikipedia において次のように解説されている。

《現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。》

 この解説にあるように、往生とは、一神教における「天国」(キリスト教)「緑園」(イスラム教)と同じく、「極楽浄土」へ往くことという意味である。  

 南も次のように書いている。

「これは一見してわかるように、修行して悟りを開いて成仏するという、仏教の基本的スタンスからすると、極めて異質な発想だ。ほとんどキリスト教やイスラム教などの一神教の類いである。阿弥陀如来は絶対的な救済神であり、極楽は天国、念仏は祈りに比定されるだろう(浄土教成立には、当時のゾロアスター教やキリスト教が影響していると推定している学者もいる)。(南同書p170)

 浄土教にないものは「最後の審判」だけだと南は書いている。(南同書p160)

「涅槃」とは何か。

 南は「涅槃の困難」という小見出しで次のように書いている。

「仏教以前のインド思想から引き込まれた『輪廻』と、仏教のオーソドックスな教義とは異質な一神教的パラダイム(一般的な考え方)による『往生』が、『移動説』(死者はこの世と別れて別の世に行くという説-引用者)による死の解釈を基本パターンとするのと違い、『涅槃』はまさに『死のわからなさ』をそのまま核心とする解釈である。

 涅槃は、原義が『吹き消す』という意味で、煩悩の消滅した状態を言う。仏教の最終目標はこの涅槃である。

 問題は、涅槃がどういう心身状態を言うのか、経典に一切明確な説明がないことである。

『無上のやすらぎ』という記述もあるが、その『無上』が小春日和のひなたぼっこや、コタツのうたた寝と質的にどう違うのか、何もわからない。

 そもそも、涅槃は2種類に分けられる。肉体を持ったまま(生きている間)の『有余涅槃(うよねはん)』と、肉体まで消滅した『無余涅槃』があるとされる。前者は悟りや解脱と事実上同じ意味であり、後者こそ仏教の究極の目的であって、それは要するにブッダの死である。」(南同書p172-p173)

 ブッダの死が「仏教の究極の目的」であるとはどういうことか。わかりにくい表現だが、ブッダの死の在り方は「永遠の安らぎ・休息としての死」の有り様であるということを言いたかったのだろう。南はこう続けている。

「ならば、涅槃が仏教の目的で、その達成のために修行をするということは、『わからない』死をめざして生きる、ある特定の生き方こそが仏教だ、と言うに等しい。すなわち、それは『死を受容するためのテクニック』なのだ。すると、これはすでに第3章で述べた『死を丸呑みする方法』とほとんど同じことであり、なかんずくその三、『自分を大切にしない』法に一番近い。これを仏教的な態度だと先に述べたゆえんである。」(南同書p173-p174)

 この「『自分を大切にしない』法」とは、「もし死の丸呑みが苦痛で困難なら、普通はその苦痛や困難を取り除くことを考えるはずが、この方法は苦痛や困難を感じる自己を解体してしまえばよい」という方法であるという。(南同書p174)このおのれを消去せよという考え方を「放下(ほうげ)」(南同書p175)だという。

 南は「自分を大切にしない」=「放下」方法の実践方法を書いている。

「第一に、損得を離れること、それを行って得をしようと思わない。

 第二に、それで人から褒められようと思わない。

 第三に、それによって友達を作ろうとは思わない。」(南同書p175-p176)

 この方法はほとんど出家(一生涯、家族も財産も持たず、仏道修行に専念できる環境にいるということ)するようなものだ。

 

 俗人にはなかなか困難な生き方である。仏教の教義はよくわかったが、死後の世界についてブッダは「無記」と言って答えなかった。ということは、古代インド宗教の基本理念である輪廻転生(カースト制の淵源)についても、語ることはなかった。

 ブッダは、輪廻転生という古代インド宗教の理念から脱すること、そのことを解脱と言ったのではないだろうか。そして涅槃について、南は「涅槃は、原義が『吹き消す』という意味で、煩悩の消滅した状態を言う」と書いている。涅槃とは、命の灯りが吹き消されて、永遠の休息に入ることなのではないだろうか。つまり、永遠の休息とは、自分の肉体や魂の一切が無に帰することと同義なのではないか。しかし、ブッダは無記と言って黙して語らなかった。

 南が言うように、私たちは死の恐怖と不安を「死後の世界がある」という考え方で和らげるのではなく、「死を受容する」修行をしなければならないのだろう。

 しかし、容易に死を受容できないからこそ、生に執着し、「放下」とは正反対の生き方を選ぶのだ。それは、自愛心(自分を大切にすること)であり、観念的利害関心(人から褒められること)であり、集団の中で力を得ようとする(そのために友達(味方)を作ること)のだ。

 そして、死ぬ間際になって、次のように呟いて死んでいくのだと思う。

 カントは臨終のとき、次のように語ったと伝えられている。(80歳で死んだブッダの心境もこれと同じに見えるのは、私だけか。)

「私はこれで無に帰するのか?たぶんそうであろう。だが、そうでないかもしれないではないか?それはわからない。まったく、わからない。まったく.......。だから、これでいいのだ(Es ist gut)。」(中島義道『人生に生きる価値はない』新潮社  2009年2月20日 p171)