飢餓祭のブログ

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 『語りえぬものを語る』という本は講談社のPR誌に連載されたものをまとめた本である。その原稿に長い「註」を加筆したら大部な本になったという。その中に「5 霊魂(あるいは電子は)は実在しうるのか」というものがある。

 野矢は世間の人に誤解されないように、まず次のように書いている。

「人間はタンパク質やら脂身といった物質の塊にすぎない。それに加えて非物質的な霊魂ごときものなど存在しない。たいがいの人はそう考えているだろう。私も、そう考えている。以前、百人近くいる授業のときに、ふと好奇心にかられて学生諸君にどう思っているか尋ねたことがある。まあ、霊魂を信じているというのに手を挙げるのもなかなか度胸がいるだろう。かわいそうに、一人だけ手を挙げて、ありゃりゃとばかりに周囲を見回していたっけ。隠れ霊魂派もいるだろうが、ほとんどは霊魂など信じていないに違いない。つまらぬ世の中になったものである。」(野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社学術文庫 2020年11月10日 p68)

 野矢はふと好奇心にかられて100人近くの学生たちに尋ねたと書いている。「霊魂は実在する」ということを信じている人は野矢の授業を受けた学生たちの中に一人しかいなかった模様だ。逆に、「霊魂は実在しない」と固く信じている人も、実は少数ではないだろうか。一般論で言えば、大多数の人は、「霊魂が存在するかどうかはわからない」と答えるだろうと思う。では、野矢の授業に出た100人近い学生たちはどんな考え方をしていたのだろうか。

 私たちが教育された科学教育からすれば、霊魂は実在しないかもしれないと思うことは自然である。一方で、私たちの住む日本においては宗教としての仏教が主流であり、日本の家には(普通は)仏壇があり、菩提寺を有する人もいる。また、神社が身近にあって、季節の折々に神社詣でをする。そうした精神的雰囲気において、超自然的なものが存在するかもしれないという気持ちになるのも自然である。

 そうすると、一義的に、「霊魂は実在する」ということについて、真か偽かを厳密に問うことは難しい。それゆえに、「霊魂はあるかもしれないし、ないかもしれない。つまりわからない。」と考えている人のほうが圧倒的に多いのではないかと思う。わからない人間は、野矢のあのような質問には答えられない。ここには書かれていないが、ひょっとしたら、野矢は、「では、霊魂は実在しないと思う人は?挙手してください。」という質問をしたかもしれない。おそらく、結構な人数の学生が手を挙げたかもしれない。その挙手した学生たちは、「わからないけど、実在しない方に挙手しておけば、無難だろうな」と思って手を挙げた学生は多かったのではないだろうか。一人ひとりの心の内はわからない。

 人間の心のうちの機微にふれる問題を、無造作に教師という上からの立場の者が下の者に聞くのはかなりまずいやり方だと思う。

死と生についての随想その125 (伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?』から) | 飢餓祭のブログ において、私は伊佐敷の言葉を引用して次のように書いた。

「伊佐敷は日本人が漠然と抱いている複数の考え方を整理して、次のように書いている。」

「『死んだらどうなるのか』についての考え方には大きく分けて、六つのパターンがある。」

「1 他の人間や動物に生まれ変わる(仏教の輪廻)

 2 別の世界で永遠に生き続ける(仏教の往生とキリスト教の天国と地獄)

 3 すぐそばで子孫を見守る(盆という習慣に表われている民間信仰)

 4 子孫の命の中に生き続ける(儒教の『生命の連続体』としての家)

 5 自然の中に還る

 6 完全に消滅する」(伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学』亜紀書房 2019年10月7日 p104)

「一人の人間の中に、それら六つの考え方が、人によって違った割合で混ざっているんだ。どれか一つの割合がものすごく大きくて他の五つがほとんどゼロの人もいるだろうけれど、多くの人は二つか三つの考え方が同じくらいの大きさで混ざっていると思うよ。」(伊佐敷同書p12-p13)

 私も伊佐敷の意見に同意したい。あの100人近くの学生たちもそれぞれ六つの考え方が、様々な割合で混ざっていると思う。 

 野矢は「つまらぬ」と書いているが、本当に教師らしくない質問をしたものだ。野矢の自分の問い方が「つまらぬ」結果、つまり、「(霊魂は実在すると信じると思った学生が決然と)一人だけ手を挙げて、ありゃりゃとばかりに周囲を見回していた」というような事態を誘導したことに気づいていないようだ。

 野矢はそもそも「霊魂」の真偽を究明するつもりはなく、相対主義についての考え方を書きたいと思っているのである。

 野矢は前の章において真理の相対主義について次のように論じていた。

「私は三つのタイプの言葉を区別した。主体主導型、対象主導型、そして経験超越型である。

 主体主導型の言葉(例えば『おいしい』)はその人の態度の表明であり、対象のあり方を記述したり説明したりすることから遠くなる分、真偽を言うことが不適切となる。それゆえ、その相対主義は真理の相対主義ではない。」(野矢同書p83)

 対象主導型については、「外延(対象の側)にその意味の重みをかける」(野矢同書p59)概念のことである。そして「赤さ」というのは対象主導型の概念だという。 

 野矢は「赤さ」について次のように書いている。

「ある共同体の『レドン』という語の翻訳を考える。『レドン』が『赤い』と翻訳されるには、『レドン』と呼ばれるものが赤いものに一致することが求められる。だとすれば、われわれと彼らとで赤という色の範囲(外延)は一致しなければいけない。外延が異なるのであれば、それはたんに『レドン』は『赤い』という意味ではないということである。かくして、『赤さ』について真理の相対主義は成り立ちえない。

 この議論は『霊魂』についてもあてはまるのだろうか。『霊魂』と翻訳される語を『プシコ』としよう。その翻訳においても、彼らが『プシコ』と呼ぶものとわれわれが『霊魂』と呼ぶものの外延における一致が求められるのであれば、やはり真理の相対主義は成り立たないことになる。もしそんな一致が必要であるならば、霊魂の存在に関してわれわれと彼らとで意見が異なることもありえないだろう。

 それゆえ問題は『レドン』と『プシコ』、『赤い』と『霊魂』の違いである。それらの間に、一方は真理の相対主義が成り立ちえず、他方は真理の相対主義が可能となるような、そんな違いが見出せるだろうか。」(野矢同書p69-p70)

「赤さ」については真理の相対主義は成り立たないという。つまり、「赤い」というものは、一元性があり、例外はないということのようだ。ところが、「霊魂」については、真理の相対主義は成り立つという。その違いは何か。

「私としては『もちろん見出だせる』と答えたい。そしてその答えはさしあたり単純である。『赤い』は見れば分かるが、『霊魂』は見ても分からない、これである。霊魂は(存在したとして)見ることができない。さわることもできない。だから、いくらその存在を信じている彼の地(霊魂を信じていることがふつうの社会である地域)の人々といえども、何かを『プシコ!』と指さすわけにはいかない。そしてわれわれも、『これがプシコですか?』などと気楽に尋ねることはできないのである。それに対して、赤いものは見ることができる。彼らも血を指さして『レドン!』と言うことができる。

 知覚できないものを外延としてもつ概念を、『経験超越型』の概念と呼ぶことにしよう。経験を超越しているといっても、別にいかがわしいものでも不思議なものでもない。経験超越型の概念など、さほど珍しいものではない。例えば、『電子』。電子もまた、見ることもさわることもできはしない。では、『霊魂』が経験超越型の概念であることが、真理の相対主義とどう関わってくるのだろうか。」(野矢同書p70)

 経験超越型の概念とは、カントの用語で言えば、超越論的実在性の概念に当たるようだ。

 目に見えない、触ることもできないが、実在するかもしれないものとは何だろうか。

 それは、やはり、物質的なものではない。それは観念的なものである。

 そもそも実在性については古来から哲学者は考え続けたらしい。

 中島義道は次のように書いている。

「カントにおいて実在性はいつも二重の意味を担っており、一つは、ある概念に矛盾がないかぎりその概念に対応するものは実在するというスコラ哲学からライプニッツの系譜を踏まえた古典的実在性(実在性1)であり、もう一つは、そうした概念がさらに直感形式(時間・空間)のうちにあるという条件を加えたカントが批判期に導入した新しい実在性(実在性2)である。しかし、ここで新しい実在性(実在性2)の登場とともに、古典的実在性はさらに『実在性2ではない』という意味(実在性3)を担うようになる。すなわち、超越論的観念性そのものを表わす私の表象の『うち』の実在性に対する私の表象の『そと』の超越論的実在性(実在性3)である。あるいは、表象=現象のあり方に呼応する実在性に対する物自体のあり方に呼応する実在性であると言いかえてよい。」

「実在性1 概念に矛盾がないもの(古典的実在性)

 実在性2 概念に矛盾がなく、かつ直観形式のもとにあるもの(超越論的観念性)

 実在性3 概念に矛盾がないが、直観形式のもとにないもの(超越論的実在性)」(中島義道『カントの自我論』岩波書店 2007年10月16日 p41)

「こうした実在性の多義性に応じて、批判期カント哲学において実在するものは、あえて分類すれば次の五種類に分かれる。

 

(1)物自体

(2)道徳法則

(3)純粋直観である空間に位置する数学的対象

(4)時間・空間において観察可能な物理学的対象

(5)統覚 

 

 (1)と(2)が私の表象の『そと』に呼応する実在性であり、(3)と(4)とが私の表象の『うち』に呼応する実在性である。このうち、超越論的統覚が構成する実在的世界における実在的なものとは、じつのところ(3)の数学的対象と(4)の物理学的対象(物体)に絞られる。さらに、(5)超越論的統覚自身の実在性は独特のものである。つまり、超越論的統覚は、数学的対象と物理学的対象という実在的なものを構成する能力をもつかぎりで、みずから実在的なのである。」(中島前掲書p41-p42)

 カントは物(物質、物体)について、つまり、見えるし触れることができるものについて、「時間・空間において観察可能な物理学的対象」として実在性を認めている。数学的対象については、電子と同じように、理論的な概念として実在性を認めている。物(物質・物体)ではなく、従って見ることも触れることもできないものであるが実在的なものとして、カントは物自体、道徳法則、統覚の三つを挙げている。これらこそ、野矢のいう「経験超越型」概念というものだろうか。物自体の概念とは、「理念」と呼ばれるものである。道徳法則が実在するかと言われれば、なかなか答えることが難しいが、人間には良心(負い目)はあるような気がする。人間の中には良心を欠いた人間もいるようだが、カントは、宗教(キリスト教など)が発生するずっと前から、人類には道徳法則は存在したと書いている。私もそう感じる。

 統覚はどうだろうか。これも見えないし触れることができないが、統覚=私たちの理性、精神、思考などは実在するように思う。これらを否定するのも肯定するのも厄介である。

 すなわち、統覚=私たちの理性、精神、思考などは存在しないということも困難が生じるし、「タンパク質やら脂身といった物質の塊にすぎない」人間の身体のどこにあるのかということを証明することも難しい。そこに「宿っている」ように見えるが、物のように見ることもできない。こういうときは、哲学者は「存在論的身分が違う」というらしい。

 カントは「超越論的統覚は、数学的対象と物理学的対象という実在的なものを構成する能力をもつかぎりで、みずから実在的」であると言ったようだ。

 野矢は経験超越型概念の役割について次のように書いている。

「経験超越型の概念の働きは、経験を説明し、経験に秩序を与えることにある。そのことを見てとるため、『電子』を例にとって、その概念の働きを見てみよう。

 あくまでもことがらの構造を見るために、なるべく単純な場面を考えたい。あなたの前に実験装置が置かれてある。そこで『真空放電』と呼ばれる現象を生じさせる。すると、その隣におかれた蛍光板上に発光点がが現われる。(かつてのブラウン管テレビはそうやって画面上で発光点を走らせていたわけである。)『真空放電』をやめると発光点も消える。また『真空放電』と発光点の間に衝立を置いても、発光は消える。さらに、『真空放電』と発光点の間に『電圧をかける』と呼ばれる操作をすると、それに応じて発光点は位置を変化させる。これが、あなたが目撃した現象である。

『電子』はこうした現象を説明するために導入された理論的概念にほかならない。『真空放電』と呼ばれる現象によって電子なるものが発射される。それが蛍光板に当たって蛍光板が光る。そして電子は負の電荷をもつので、その途中経路に電圧をかけると、それに応じて軌道が変化する、というわけである。ここにおいて、電子そのものは観察されていないし、観察可能と考えられてもいない。電子は、一連の観察結果を説明し、それらを関連づけ、秩序立てるのである。

『プシコ』も同様の性格がある。プシコそのものは観察可能とは考えられていない。それは彼らの経験を説明し、彼らの経験を関連づけ、秩序立てる役割をもっている。例えば彼らは人の臨終のさいに、プシコがその人の体から離れていったと言う。あるいは、父は死んだが父のプシコはまだ生きている、のようにも言う。こうしてプシコは、彼らの死生観・人間観を形作っている。」(野矢同書p71-p72)

 野矢は、「霊魂が実在する」ことを基礎においた「霊魂的人間観」と野矢のような「唯物論的人間観」のどちらが正しいのかと問う。

「では、霊魂的人間観とわれわれのような唯物論的人間観はどちらが正しいのだろうか。おそらく多くの人は霊魂的人間観を誤りとみなすだろう。しかし、霊魂的人間観が『誤り』であるとは、いったいどういう意味なのだろう。それはたんに、彼らの信念がわれわれの信念とは違う、ということではないのか。

 なるほど、もしある立場や理論が、全体として不整合であったり、どうしても説明できない反例に直面したりするのであれば、その立場や理論は維持しがたいものとなるだろう。そしてそうであれば、そのような立場や理論を『誤り』と糾弾することも分かる。だが、いま、霊魂的人間観は整合的であり、彼らの経験を十全に説明しれくれるとしよう。その意味で、彼らの霊魂的人間観はいかなる破綻も示していない。そしてもしそうであれば、それ以上どのような観点から彼らの霊魂的人間観を虚偽と断罪できるだろうか。

 だって霊魂なんて見たことがない。そう言われるなら、電子だって誰も見たことがない、と答えよう。

 あるいは、唯物論的人間観と比べると霊魂という余計なものを含んでいる、と言われるだろうか。理論はよりシンプルであるべきだ、と。これは、説明において余計な項目を立てるなという、いわゆる『オッカムの剃刀』の適用になっている。だが、霊魂が余計者だと決めつけるのはそれこそ余計なお世話というものである。彼らの生活はまさにそのような人間観・死生観のもとに成り立っている。彼らの文化にとっては、霊魂はいささかも余計者ではない。

 それに対して、われわれの生活は霊魂の存在を前提にしていない。なるほど多くの人が熱心に墓参りなどをするが、たんに形式的な儀式として、より真摯な場合でも、個人を偲ぶよすがとして墓参りをしているのではないだろうか。現代日本の社会においては、経験を説明する仕方としても、また生活における行動様式においても、霊魂は余計者でしかない。だから、われわれにとっては、霊魂的人間観は誤りである。だが、『プシコ』の人々にとってはそうではない。彼らの生き方において霊魂はけっして余計ではなく、彼らにとっては霊魂的人間観こそ、真実なのである。

 私は、ここにおいて、霊魂に関する相対主義に立ちたい。」(野矢同書p74-75)

 霊魂の問題は一つの人間集団におけるの死生観・人間観の問題であるから、それを信じる「彼らにとっては霊魂的人間観こそ、真実」である。信念、価値観に関しては、その真偽を決めるものはない。それと同じように、理論的な概念の実在性を巡る問題も一義的に真偽を決めることはできないと野矢は考える。そうすると、電子は実在しないという主張も一概に偽だと決めつけることはできないと野矢は言う。

 なぜか。野矢は「理論の決定不全性テーゼ」なるクワインの説を解説している。

「理論の決定不全テーゼに従えば、可能なすべての観察を尽くしたとしても、それを説明する理論は複数可能となる。つまり、観察を重ねればいつかただ一つの理論だけが正しいと分かるだろうという素朴な期待は、けっして満たされないというのである。」(野矢同書p76)

 野矢はこの「理論の決定不全性テーゼ」を引き受け、そこから「反実在論」という主張をしたファン・フラーセンの議論を紹介している。

「現代のわれわれは電子ありの理論を正しいと信じている。ふつう、そのことから、現代のわれわれは電子が実在すると信じているのだと結論するだろう。科学は観察された現象だけに関わるわけではない。観察結果をもとにして観察不可能な世界のあり方をも知ろうとする。ふつうはそう考えるだろう。だが、ファン・フラーセンはそれに真っ向から異を唱える。科学はただ観察された現象を説明することだけに関わり、それ以上のものではない、そう主張するのである。それ故、電子ありの理論が正しいと信じていたとしても、それはたんに電子ありの理論が観察結果を十全に説明することができると信じているにすぎない。それ以上、観察不可能な世界のあり方についての信念などをそこに伴わせる必要はないというのである。

 では、電子は実在するのか。この単刀直入な問いにはどう答えられるのだろうか。――『分からない』、ファン・フラーセンはそう答える。彼自身の言葉を引けば、『科学が記述する世界の観察不可能な諸相の存在については、私は不可知論の立場に留まる』(B.C.ファン・フラーセン『科学的世界像』紀伊國屋書店 138ページ)というのである。だが、これに関して翻訳者である丹治信春は疑問を呈している。ファン・フラーセンの立場に従えば、電子が実在するかどうかは分からないとしても、しかし、人間の認識を超えて、なお電子は実在するかしないかのどちらかであることになる。もしそれがファン・フラーセンの考え方であるならば、それは実在論と言うべきであろう。(前掲書、「訳者あとがき」417ページ)

 なるほど、ファン・フラーセンの議論は、電子ありの理論から電子の実在性を結論しようとする『科学的実在論』と呼ばれる議論に対する反論になっているという意味では、『反-科学的実在論』と言える。しかし、実在論と反実在論の違いを、認識と独立な実在のあり方を認めるか否か(実在は人間の認識と独立であるとするのが実在論、実在は人間の認識と独立ではないとするのが反実在論)におくならば、ファン・フラーセンの不可知論はむしろ実在論的と言わねばならない。

 この点で、私はファン・フラーセンに反して、科学は観察に基づいて観察不可能な世界のあり方をも知ろうとするものであることを認めたい。それゆえ、われわれが電子ありの理論が正しいと信じているということは、われわれが電子の実在を信じていることなのだと言いたい。『ならばおまえこそ実在論じゃないか』と言われるだろうか。いや、そうではない。

 わたしはまた、理論の決定不全性をも認めたいと考えている。ほんとうに決定不全性が成り立つかどうかに関しては強い確信はもてないでいるのだが、多少ぱーっとした頭で、『決定不全性が成り立つといいなあ』と思っている。それゆえ、電子なしの理論も選択肢として可能であることを認めたい。そしてもし電子なしの理論を選ぶならば、それは――私の考えでは――電子が実在しない世界を選ぶということである。他方、われわれは電子ありの理論を選んだ。それはすなわち、電子が実在する世界を選んだということなのである。すると例えば、他の文化がもし現代において電子なしの理論を信じていたとするならば、彼らの住む世界には電子が実在せず、われわれの住む世界には電子が実在するということになる。世界が違うのである。

 同様のことは、宗教的な場面ではふつうに起こっていると私は考えている。ある人たちは神が実在する世界に住んでいる。他方私は神が実在しない世界に住んでいる。どちらが正しいというのでもないし、どちらかが正しいはずなのだが本当のところは分からないというのでもない。神が存在するのもしないのも、電子が実在するのもしないのも、それぞれにとって本当だと思うのである。」(野矢同書p79-p81)