隋書に関していろいろと書いていますが、
よく指摘されているように隋書と日本側の国書、古事記や日本書紀とは違う点があります。
だいたい、隋の方にある俀国という国の名前が、日本側には見当たりません。
遣隋使を派遣していることは、一致しますが、一致しているだけに
多くの指摘があるように俀国は、男王ですが、ヤマト王権は推古天皇になっていることも余計に違いが際立ちます。

私なりに勝手に確認しておきたいと思います。

不手際、未熟な点、間違いも多々あろうかと思いますが、単なる個人の見解ですのでどうかご容赦ください。

隋書は、多くの記述を使者からの情報で記載しています。
俀王阿毎多利思北孤が、派遣した使者です。
王は、天を兄とし、日が弟であるとしています。
以前にも書きましたが、男三兄弟です。
天が明けやらずときに出て政務を聴き、日出づれば弟に政務を引き継ぐ。
昼間の政務を行っているのは、弟だとしています。
しかし、使者が王としているのは、夜に政務を聞く阿毎多利思北孤です。
昼に政務を行っている弟の日のことは、王とは呼んでいませんし、
その弟のことを隋の皇帝には、報告していません。
依って名前もどう言う人物像かも分りません。

このことから
この使者は、筑紫国から派遣されていて筑紫国の王のこと、筑紫君のことならよく分るが、
遠く離れた昼間に政務を執る真の支配者であるヤマト王権については知らないのではないかと思います。

魏誌では、邪馬台国(邪馬壹国)から来た使者が、魏に自分の国のこと、王のことを報告しています。
卑弥呼が、年老いて夫も子もいないとか、兵たちに守られていると言うようなことを聞かれるままに話しているのでしょう。
そして、伊都国には伊都国王がいるけれど、その名前やどのような様子かとかは、書かれていません。
使者は、邪馬台国(邪馬壹国)の使者ですから伊都国王や伊都国については、知らないのだと思います。

隋は、魏誌を参考にして理解しています。
と言うことは、邪馬台国(邪馬壹国)が、あって外交の要、観察監督をする一大率がある伊都国があり伊都国王がいるという体制なら
隋の時代は、ヤマト王権であり外交、海外進出の拠点は、筑紫国であると捉えて良いと思います。
邪馬台国(邪馬壹国)の使者が、卑弥呼のことはよく分り伊都国王については語っていない。
隋書では、昼間に政務を執る弟の日については、名前すら出ていないし、妻や仕事ぶりもまったく分りません。
これは、筑紫国の使者であるから実質的な筑紫国の支配者であるヤマト王権のことは、ヤマトに行ったこともないのでよく分らないのではないか。

隋の皇帝の使者、文林郎裴淸が実際にどうなっているのか、調べるとともに皇帝の考えを伝えにやって来ます。
個人的に隋書の中で一番、確かだと思っているのは、裴淸の報告の部分です。
筑紫国より東は、全て属国であるとしているところです。
俀王が、夜に政務を聴くだけというのは、属国だからだと思います。
そして、弟の日は、筑紫君の妹、膳女郎が嫁いでいることから聖徳太子であろうと考えます。
筑紫国には、上宮王家(聖徳太子)の部民が多くいますし、聖徳太子が実質的な実権を持ち支配していると考えて良いからです。

隋書のほとんどは、使者からの聞き取りで書かれているようです。
国書もありますが、そこも問題です。
と言うのも有名は、日出づる処の天子から日没する処の天子へとなっていますが、
これに皇帝が、怒ったようで恙なきやという挨拶の文言までしか、記載が無く、
肝心な内容については、「云々」となってしまっています。
この内容は、対等外交の日没する処の天子以上に問題があったのではないか。
文字にして書きの残すこともしなかった、破棄してしまったという内容です。
日本は、隋からの国書は、百済人に奪われたとしています。
奪われた小野妹子は、これと言った罰則は受けずにいますが、
お互いに国書の扱いは、ヒドイもので隋書は、使者からの見聞に頼っているとしか、言い様がありません。

遣隋使が派遣されますが、
これは事実でありヤマト王権から遣隋使が、派遣されて仏教を学ぶ人たちが隋へと渡りました。
これは、間違いないでしょう。
推古天皇と聖徳太子によって行われた事業です。
隋書の中では、使者が申し上げている皇帝を海西の菩薩天子とし、仏法を学びたいという申し出を受け入れています。
本当に国書の内容も同じものだったかどうかは、もはや確認のしようもありません。
国書の日出づる処の天子と日没する処の天子は、却下されたようで
「海西菩薩天子」が、隋に採用されて仏教を学ぶ遣隋使が、互いの了解の元に行われるようになりました。

文林郎裴淸が、実際にあった王が誰なのか、そこも議論になるところです。
推古天皇としている日本側ですが、裴淸は女帝だとはしていないからです。
当の本人が、俀王阿毎多利思北孤と会ったと捉えているのです。
では、筑紫君なのか。
私の見解ではそうなります。
しかし、裴淸は東の方向に進んでいて途中に秦王国があり国が十余国あったとしています。
そして、海岸に至るとありそこは、ヤマトであり畿内まで行っていると捉えます。
筑紫国より東は皆、俀に属しているわけですからヤマト王権でしょう。
「邪靡堆」という都の名前も堆と言う漢字を使っていてこれは、大きな古墳、王の御陵を見ているからだろうと思います。
埋葬方法については、大きな前方後円墳のことは、まったく触れられていません。
これも使者からの聞き出しでは、筑紫国のことであったろうと考えます。
実際に裴淸が、行った都では、大王の巨大な御陵が、あるのですから堆と言う文字を宛てたと思います。

俀は、ヤマトなのか、筑紫なのか。
これは、邪馬台国(邪馬壹国)論争にも似ていますが、
どちらにも当てはまる点があり違う点もあります。
しかし、隋が俀についての多くを聞き出している記述については、筑紫だと思えます。
百済も新羅も阿蘇山に来ているという箇所もあります。
何より初めに指摘しているように王が、昼間の政務ではなく、夜のみであり属国の王と言う印象を拭えません。
また、隋が国名をあげているのが、竹斯国であり筑紫国です。
使者からの情報を国書に記載しているのも筑紫国からのものではないかと思えますし、
何よりその後、筑紫太宰が、外交の拠点として機能します。
より正確な情報が、確認できたところを外交の拠点として双方が、合意している。
遣隋使を受け入れるにしても筑紫太宰で了承されている照査されていることが、重要だったと思います。
隋書に多く書かれている情報が、筑紫国のものだから筑紫太宰となっている。
 

百済が、隋の使節が国内を通って行ったと本記に記載しています。

百済の国内には、筑紫君の古墳がありますからここを通って行ったと思います。

日本の皇紀に筑紫の臣たち、高句麗を討つとあり宋への倭の武王の上表からいって筑紫が、皇帝に果たしてきた忠義には、無視できないものがあったと考えます。

上表には、累々の朝に遣使して来たとなっています。

とすると、隋の皇帝にも倭王武の子孫から使者が行っていても可笑しくはありません。

隋が、竹斯国と名を呼んでいるのは、そういう長年の遣使から培われた関係性が在ったのではないかと思われます。

その信頼性は、聖徳太子や推古天皇にも十分に伝わっていて隋との外交でもお膳立ての役割を担うこととなり筑紫太宰へと繋がり後に太宰府となったと思います

 

阿毎多利思北孤も筑紫の王だと考えます。
推古天皇や聖徳太子、蘇我氏では、当てはまる名前がありません。
兄が天、弟が日。
そして、夜に政務を行っているのなら月ではないか。
玉垂命は、月の神さまともされ藤大臣、筑紫君ともされます。
魏に帯方郡があったように邪馬台国(邪馬壹国)に伊都国があったように。
ヤマト王権には、筑紫国です。
筑紫や筑紫国が、各国と共有されると「俀」という国名も王名もやがて消えていったのではないかとも思えます。
 

最終的に遣隋使を派遣することを文林郎裴淸に伝えたのは、日本側では推古天皇になっています。

謁見したのは、聖徳太子だったのか、蘇我馬子だったのか。

日本側の国書には、日出づる処の天子と書かれていたのですし、

「弟の日」というのも象徴的な言い方で日本側は、本当の名を明かすつもりは、元々なかったようにも受け取れます。

それは、呪詛を避けるためであったかもしれません。

 

俀国王の使者が言う三兄弟は、

長男が、天で武王に天極と称された皇帝。

次男が、月で倭王、筑紫君。

三男が、日で天皇(皇太子)、ヤマト王権、日ですから天照大御神の天孫と言う意味に繋がって行くでしょう。

倭の五王も筑紫君で皇帝から将軍位を得て高句麗討伐を目指していたのなら。
強国高句麗との厳しい戦いは、筑紫に任せてヤマト王権は、任那日本府を通して鉄や技術者、渡来人などを得る。

仁徳天皇は、内政に力を入れました。
隋との外交でも皇帝とのややこしい直接交渉は、俀王阿毎多利思北孤に任せて仏教を通し、隋の文化や技術、政治手法を取り入れる。

隋も天極ならヤマトも天極なのでどちらにも頭を下げることが出来る筑紫が、双方の間でバランサーになると言う作戦。