先日、書いていた福津市の勝浦峯ノ畑古墳と勝浦井ノ浦古墳について改めて興味が湧きました。
気になる古墳なんですよ。
双方とも5世紀中頃の前方後円古墳とされます。
勝浦峯ノ畑古墳は、横穴式石室で2本の石柱があり高句麗のソウエイヅカ古墳と似ていると言います。
大刀や短甲などが、副葬されていますが、鏡やガラス玉が多く、被葬者は女性ではないかという説があります。
こちらにヤマト王権と繋がりがあるのではとされる画文帯神獣鏡もありました。

すぐ近くにある勝浦井ノ浦古墳は、挂甲や三環鈴、武具馬具も多く、武人です。
将軍クラスであろうとされます。
竪穴式系横口式石棺で赤く塗られていて地元九州の特徴を色濃く持っています。

勝浦峯ノ畑古墳は、もしかしたら女王墓でそれなら高句麗の女王かと思わせたりします。
ヤマト王権からの鏡を所持していたとしたら・・・この女性は、卑弥呼?新卑弥呼?
この場合は、ヤマト王権が邪馬台国ではなく、卑弥呼を女王にした魏になるのでしょうか?
この時期、ヤマト王権は男王の時代です。
ですから女王国ではありません。
後の隋の時代に日出づる国と日没する国という対等外交を行っていますが、
倭では、天皇は皇帝と対等であると考えていたと言うことかもしれません。
これは、あくまで憶測にすぎません。

同じ5世紀中頃に允恭天皇の倍塚に長持山古墳という円墳があり石棺が阿蘇の石であり家形であることから九州、筑紫の出身者であると個人的に考えています。
同時代、八女の筑紫君の古墳群には、瑞王寺古墳というやはり円墳があります。
馬具や武具が副葬されていて長持山古墳の被葬者とともに轡を並べ、戦いに出ていたのではないかと想像できるように思えます。
長持山古墳と瑞王寺古墳は、ともに円墳ですが、
福津市の古墳にも円墳は多く、加耶のものが出土するのが、円墳だったと思います。
同じ5世紀中頃に福津の宗像氏とされる古墳にも大型円墳があります。
須多田ニタ塚古墳ですが、横穴式石室で石の積み方が、勝浦峯ノ畑古墳に似ているとされます。
とても興味深い古墳の数々です。
円墳グループというのが、あるようにも思えます。


宗像君の古墳であろうとされるのは、その後、須多田天降天神社古墳がありこの古墳は、磐井君の岩戸山古墳と同時代のものです。
高坏が出土していて写真がありますが、筑紫君のものとは違います。
須多田天降天神社古墳があるので宗像君は、磐井の乱で磐井君には、加担しなかったのではないかと言われています。
しかし、筑紫君の方でも鶴見山古墳など古墳も武装石人も継続しているので葛子君が、継体天皇の懐に飛び込み許されている事実があります。

磐井の乱後、途絶えてしまったような古墳の系列もあります。

水沼、うきは、日拝塚、番塚などです。

6世紀後半に100メートルを超える前方後円墳が、宗像氏に出現します。
在自剣塚古墳です。
筑紫君の方では、大塚古墳や鬼塚古墳と言った古墳があり大塚古墳は、大きな円墳ですが、
中に2部屋ありどういった造りになっているのか、造営が難しかっただろうと思い、とても興味深いです。
どちらも豪華な副葬品があります。
貝の飾りの付いた馬具とか、銀象眼の文様が入った大刀など。
銀象眼の文様入りの刀は、全国で30例あるそうですが、九州では4例でそのうち、3本が八女にあるそうです。
八女に3本で2本が、鬼塚古墳に副葬されていてひとつの古墳から2本出ているのは、ここだけだそうです。

6世紀後半なら欽明天皇のときに百済救援で筑紫の兵たちが、出陣しています。
筑紫国造の活躍で百済王から鞍橋君の尊称をもらい、現在の鞍手郡が鞍橋君の地だとされます。
百済救援の報償だったのかもしれません。
それと587年に丁未の乱が起り物部氏は、聖徳太子率いる蘇我氏に討たれます。
その後、筑紫の部民は、蘇我氏上宮王家へと変わっていくのですが、その端境期といいましょうか、
中央からの支配が、緩んだ時期だったようにも思えます。
ただ、磐井君の台頭も皇統が、不安定で皇位が空位の時だったように思っていましたが、これは違うかもしれません。

継体天皇の即位から20年後に磐井の乱が起っていますが、

その間、穂積臣押山の百済外交が盛んに行われていた様子が皇紀に記されています。

筑紫の馬が40頭送られたり百済からは、五経博士が来たりしています。

百済外交に筑紫君や宗像君が貢献し、評判を高めていたのかもしれません。

この時期、韓半島にある筑紫君系の文物は、筑紫の人たちが韓半島にいたことを示していますが、筑紫の各国との繋がりは穂積臣押山の外交を支えていたと思います。

筑紫の韓半島進出が、磐井君や筑紫だけを利するものではなく、穂積臣を支え継体天皇に貢献するものであったと考えられます。

穂積臣は、百済との往来を海外勢力に襲われることも遮られることもなく行えた。

それだけに慎重に天皇に従い続ける姿勢を貫かないとヤマト王権、天皇や周辺の豪族たちを刺激してしまう恐れがあったかもしれません。

皇統の争いや権力争いが起りやすい政治の中心部です。

疑心暗鬼、嫉み妬み、白が黒とされてしまうことも起こりかねない。

穂積臣押山の行った百済外交に貢献していたであろう筑紫君と宗像君が結局、存続を許されているようにも見えます。

502年に梁が倭王武を叙位。

512年に百済武寧王が、梁に遣使朝貢。

(日本書紀が、編纂された時代、磐井の乱が天皇への謀反なら磐井君が、従った君主は、梁の皇帝だったと言う意味になっているのかもしれません。磐井の乱の記述を大きくすることは、当時の唐新羅を喜ばせ、太宰府外交を盛んにし、敵として戦った倭から派遣される遣唐使の待遇を良くするためだった可能性もあるかもしれません)

時代は戻って雄略天皇のときの百済救援でも筑紫の臣たちが、高句麗を討ったとされます。
このときの報償は、熊本にある江田船古墳の副葬品ではないかと思うのですが、
ずっと見てきて気がつきました。
宗像君の方には、生家大塚古墳と言った埴輪や須恵器のある全長73メートルの前方後円墳があるのですが、
江田船山古墳とは、様相が違うように思えました。
高句麗を討った筑紫の臣たちの船卒は、宗像君だろうとしていましたが、
百済からの報償が、江田船山古墳に集中しているように思えます。

宗像君も百済救援の軍勢だったのか、ちょっと疑問になっています。
雄略天皇が、崩御してしまって報償が、皆に行き渡らなかったかもしれません。
よく分りませんけれど。
皇紀では、宗像君は宗像神を祀る祭祀の氏族としています。
しかし、宗像君の古墳群には、武具や馬具が見られますし、やはり軍事活動も行っていたように思えます。
雄略天皇と允恭天皇の時代は、正しく倭の五王の時代です。

那津宮家が、糟屋屯倉であったなら筑紫君が、所有していたことになります。
屯倉があったことが、韓半島での筑紫の兵たちを支えていたのは間違いないでしょう。