任那日本府は、重要だと思います。
ただ、この府は、那津宮家のように天皇の勅が出て造営されたとか、豪族の誰が貢献したとか、その始まりが分かりません。
今の処、任那日本府跡も確認されていませんので府の存在そのものを疑問視する説もあります。
建物跡も確認されている那津宮家とは、違いがあるのも事実です。

魏志では、卑弥呼の役人は、対馬国から置かれています。
また、女王国の北は、戸数と里数が分かるとしてこれも対馬国からです。
ヤマト王権は、呉と外交関係があったことを皇紀に記しています。
これらのことからヤマト王権は、魏に冊封を受けた卑弥呼とは、別の王統ではないかと言う説も生まれます。
天智天皇は、倭の守りを対馬から置いています。
このことは、斉明天皇を女帝として倭の女王とするなら卑弥呼を踏破しているように見えます。
筑紫太宰も女帝の推古天皇のときで倭の女王が、ヤマト王権と重なる側面もあることにも注意が必要です。
特にこの頃は、外交相手の隋は、卑弥呼や邪馬台国を参考にして倭を見聞しています。

倭王武王は、皇帝に将軍位を求める際、任那もひとつの国としてその名を上げています。
武王が、開いた三府は倭国内に在ったと見ています。
武王が、冊封を受けているのは、倭国のみで任那は、入っていません。
入っていないので皇帝に将軍位を求めているわけですが、
皇帝の命令がないのに倭以外に府を開くとは、思えません。

任那日本府は、新羅が攻め滅ぼしたのも武王の三府ではなかったからと見ています。
梁は、武王を将軍に叙位していますから
新羅は、武王の将軍位に入っています。
新羅は、梁に遣使していますので
任那日本府が武王の府であるならここを攻撃して滅ぼすことは、梁にも背くことになります。

そして、この時期、韓半島に倭系の古墳があるのは、梁が武王を叙位したことと関係していると思います。
梁に武王が、叙位されたことで武王に従う者たちが、韓半島に渡っていたので
現地の人たちや倭人たちは、倭系の古墳を造って埋葬していた。
これらの倭系の古墳には、加耶だけではなく新羅や百済のものも入っていて
調査した韓国の研究者は、驚いたそうですが、
梁が叙位した武王に従う者たちなら複数の国々から副葬品が集まると思いますよ。

任那日本府は、倭の五王や皇帝のものではなかったので新羅が、攻め滅ぼした。
日本の韓半島進出は、皇帝に依ることなく行われていた。
それを可能にしていたものがあったのではないか。
しかし、その抑えが無くなったので新羅が、攻め込んだ。
各国の使者を引き入れて皇風に従わないとされた筑紫君磐井が、各国使者を迎え入れて
ヤマト王権の韓半島進出を支える役割を持っていたのではないか。

宣化天皇が、各国使者が筑紫国に朝に至るとしているのも
その勅の中で使者たちを手厚くもてなすことが、倭の安寧に繋がるとしていることも
磐井君の行っていた外交に重なると見ています。
筑紫は、紫ですので皇帝より賜ったことを意味します。
皇帝に依らずに韓半島に進出し、任那に拠点を築いていたヤマト王権を支えていたのは、冊封を受けた筑紫君で皇帝の権威を背景に韓半島の諸国を抑えていた。
筑紫君が、倭王として冊封されているので
天皇は、冊封を求めることなく、皇帝の臣下に下らずに王として皇統を繋いで行ったのでしょう。
皇帝に従い、高句麗との戦いを宿命づけられていた倭の五王とは、違う皇統であると考えます。