日本書紀の宗像神のところで記述がある筑紫国造や田道命について注目してみます。

天照大御神と素戔嗚尊の誓約の場面ですが、
このときに天孫はいませんし、素戔嗚尊の国もまだ、ありません。
それ以前に田道命はいてその子孫の筑紫国造の長田彦が、宗像神の神篭を造りました。
田道命は、田んぼと道を示しているお名前なのでしょう。

田んぼや道があったのは、天孫が降臨する前で素戔嗚尊が、国造りをする前からであった。
と言うのは、史実や発掘調査でも裏付けは出来ます。
ヤマト王権が、成立したときには、稲作は行われています。
かなり早い段階でお米は、作られていました。
日本書紀の神話に示されている認識は、かなり正しいと思われます。

道の方も宗像神は、海の中道に降り立ったとされこれは、韓半島との往来を意味するのでしょう。
帯方郡や楽浪への道と言いましょうか。
壱岐、対馬を経て渡るのが、一番効率が良いとされます。
これは、今も魏誌東夷伝の時代の昔も変わらないようです。
沖ノ島から韓半島へは、渡ることが困難なことも分かっています。
この航路、道は、筑紫の古代王たちに依って開かれたと見ていいでしょう。
宗像は、胸や肩に入れ墨をする倭人独自の文化から来たという説もあります。
古代の倭人、倭王たちは顔や身体に入れ墨をしていました。
そして、韓半島や大陸との往来を重視していました。
田道命というお名前は、そのことを示しているように思えます。
宗像神の神篭は、筑紫国造の長田彦によって作られました。

天照大御神から直接、命を受けたのではないようです。
宗像神が、天照大御神に天孫を助け天孫に祭られよという勅を受けてのことです。
田道命の子孫であるから筑紫国造は、天孫であると、考えられます。
田道命と天照大御神や素戔嗚尊との関係は、明らかではありません。
天孫降臨や素戔嗚尊の国造以前に筑紫には、筑紫国造がいたと言うことと宗像神、韓半島との往来を祭祀する神さまはいらした。
筑紫国造というのは、天皇やヤマト王権からの呼び名でこの名で呼ばれるときには、天皇の臣下という位置づけになるでしょう。
天皇が名付けヤマト王権が呼んでいた名前があると言うことは、筑紫自らが名乗っていた名前もあったと考えられます。
筑紫が、自ら名乗っていた名前をそのまま、天皇やヤマト王権が取り入れていたとは、考えにくいように思えます。
天皇が、名付けてその名を授かり天皇の臣下としたという方が、あり得ます。

ですから
奴国の奴が、那であったりするわけです。
特に奴国の場合は、後漢の時代に王が、冊封を受けていますので
それと同じ奴国であると、後漢の冊封を受け入れていることになるのでしょう。
天皇が、名付けた名前、呼んだ名前。
宣化天皇が、那津宮家と奴津ではなく那と呼んだことには、意味があると考えます。
宣化天皇の時代よりもずっと古くからヤマトと筑紫は、交流があり同一文化が見られまた、それぞれの独自性も保っていて系統の違いも見られます。
ヤマト王権成立時に遡ることが出来ます。

巻向の箸墓古墳と同じタイプとされるのは、小郡の津古古墳群です。

そして、時期的にも見て近い博多部の那珂八幡古墳は、別のタイプで専門家は、同じ種族のものとは思えないと指摘しています。

遠く離れた近畿の巻向と小郡に同じタイプの古墳、同一種族とも言えそうな古墳があり

近くの那珂八幡古墳は、違うのですから興味深い指摘です。

違う方の古墳に「那珂」「八幡」と言った天皇やヤマト王権に関係する名前がつけられています。

古墳の上に八幡さまが、お祭りされているのですが、神社があるので発掘調査が見送られています。

もしかすると、

どこかに田道命や長田彦の古墳があるのかもしれません。