以前、欧米の研究者による著作で倭国の境界は、水城とする説を読んだことがあります。
水城や朝鮮式山城の大野城と言った防衛施設が、倭国の境界線になるのではないかという説です。
古代史には、いろいろな説があり論争がありますが、
だいたい倭の境界線、前線は、天智天皇が山城を築き防人を置いた対馬とされるでしょう。
倭、日本の防衛ラインもここにあります。
しかし、倭と日本の防衛ラインは、違うという説もあります。

魏誌東夷伝倭人条には、
女王国の北は、その戸数と道里が分かると書かれています。
それは、封海国、対馬のことですが、ここから戸数と道里が記されています。
それ以前の狗邪韓国は、道里は書かれていても戸数は、書かれていません。
女王国の役人の名も書かれてはいません。
要するに女王国が、管轄しているのは対馬からと言うことになるでしょう。
天智天皇が、防人を置き山城を築いた対馬と一致しています。

奴国の範囲は、分かりません。
どのくらいの規模で奴国が、広がっていたのかは、正確には分かりません。

では、倭の五王はというと、宋の皇帝に将軍位の叙位を求めています。
倭国の王であるのですが、
その他、将軍位を求める国々を挙げています。
これらの国々の王ではないので皇帝に求めているのでしょうが、
皇帝に求めると言うことは、これらの国々は、皇帝の配下ですよと言う意味があり皇帝への忖度があります。
将軍位の国々は、新羅、任那、加羅、表韓、恭韓と倭です。
百済も求めていましたが、得られずその代わり加羅が入っています。
表韓は辰韓のことで恭韓は馬韓のことだともされます。
任那は、国として国名が挙げられていますが、ここにもいろいろな説があります。
特に日本の皇紀には、任那日本府が出て来ますので諸説が語られています。
該当する遺跡が発見されていないのでなかったとする説すらあるくらいです。
また、倭の五王の武王が、上表した開府三府のひとつとする説もあります。
武王が、皇帝に申請している府と皇帝の許しを必要としない日本の府があった可能性も否定できません。

任那日本府は、6世紀前半に新羅に攻め滅ぼされたとされます。
武王の開いた府の一つだったのでしょうが、
筑紫君磐井が、討たれた後、ここが新羅攻撃の拠点となることを恐れて早々に潰しに来たと考えます。

太宰府の帥は、都の豪族や王族から人選されています。
ところが、任那日本府は、地方豪族がその任に当たっていたようです。
例えば、吉備臣であったら任那日本府と国元との往来や伝達をヤマトから監督、掌握は難しいのではないかと思われます。
疑問に思える点があります。
もし、筑紫なら止めて荷を検めると言ったことが、出来たのではないか。
そのために任那の将軍位も必要ではなかったか。
日本書紀に宗像神の神篭は、筑紫の国造が作ったとあります。
「この豪華な品々はなんだ?」「鉄ていがこんなにいるか?」「この鉄ていで武器を作るつもりではないか」「宗像神、沖ノ島にお供えしたいんだな。分かった。信仰心が厚いのは良いことだ」

沖ノ島には、多くの鉄ていや馬具、鏡などが、奉納されています。
要するに国元に運び込もうとしていた品々、逆に持ち出そうとしていた品々を倭の関門で照査する。
宗像神の神篭を筑紫国造が、作って宗像君らが祭っていたとされます。
半島との航行を担っていた海女族が、宗像神を篤く信仰し、奉納していた。
吉備は、5世紀に韓半島の土器や鍛冶具なども出土していて朝鮮との往来や朝鮮人の渡来が、確認されている地域です。
ヤマトの方で朝鮮半島関連の出土が多いのは、葛城氏の領域ともされます。
皇紀にも葛城氏と朝鮮に関する記載があります。
しかし、四国や日本海側と言った葛城&吉備とは、違うルートでの朝鮮関連の出土も多くあります。

日本府の運営に葛城氏は、関与しなかったのか、他のヤマトの豪族は、どうなのか。

なぜ、吉備だったのか。

倭王武王との関係はあったのか、宋の皇帝の影響はあったのか、分かりません。

任那日本府の遺跡が、発見されたら解明されることも多いことでしょう。


磐井君の古墳とされる岩戸山古墳には、別区がありますが、
別区を持つ古墳は、日本海側にもあり石制表飾もそうです。
筑紫とヤマトは、親しい関係を伺わせながら筑紫の独立性や他地域との交流も見逃せません。
また、他の地域もそれぞれに朝鮮半島との交流が、伺われます。
筑紫国造の長田命と「命」と言う尊称が遣われていることも注目したいです。

 

朝鮮は、併合していましたので

その時期に任那日本府についての探索、調査もかなり行われています。

朝鮮の古墳で倭系のものは、北部九州の特徴を持つ横穴式石室で筑紫の文物も出土しているものがあり筑紫の兵たちや筑紫に関係する人たちが、海を渡り朝鮮にいたことや埋葬されていることは、確認できています。
九州型の石室からは、倭系だけでなく新羅、百済、加耶などいろいろな国のものが、副葬されていることがあるそうです。

これは、日本書紀にある宣化天皇の勅で筑紫国は、各国使者が朝に至ったという記述にも通じるように思え、天皇の勅への信頼と共に筑紫の外交力、後の太宰府へと繋がるようです。