天照皇大神が、宗像神に出したとされる神勅の天孫は、筑紫君ではないかと思われます。

何故かと言うと、このことが書かれたところに筑紫の国造の名が、記されているからです。
宗像神の神籠を作ったとされるのが、筑紫国造の田道命の祖、長田彦(小狭田彦)です。
他に記されている名前はありません。
天孫は、筑紫君の系譜を差しているように読めます。

また、「命」と言う尊称が使われています。
日本書紀に「命」の尊称が使われるのは、素戔嗚命、大国主命と言った方々です。
「命」であるなら天孫の系譜でしょう。
「彦」もそうです。

天照皇大神の神勅が、出された誓約神話の頃、天照皇大神の元には、玉から生まれた5人の皇子がいます。
しかし、天孫はまだいません。
玉から生まれた5人の皇子と剣から生まれた宗像の三女神です。

玉から生まれた5人の皇子は、天照皇大神が高天原に連れて戻られています。
筑紫には、国造りがいて宗像神の神籠を作りましたので
宗像君らが、祭る神になったと言う意味に捉えられます。

日本書紀や古事記が、編纂され成立したのは、天武天皇の時だとされます。
その時に宗像神は、宗像君らが、祭る三女神なのです。

天武天皇は、それまでの天智天皇の政策から方向転換を行っています。
特に唐や新羅との関係改善、外交へと方針転換が、計られ舵を切りなおしています。
遣唐使の派遣も積極外交に欠かせません。
そうなると、航海の神さまとされる宗像神の存在は、大きかったと思います。
天武天皇には、宗像君から尼子娘姫が、嫁いでいます。
このことからヤマト王権と宗像君との関係は、強化され唐や新羅との外交にも多大な影響を及ぼしたものと考えられます。

宗像祭祀が、宗像君らがおこなうものだからこそ、婚姻することで関係を作っているようにも見えます。

ヤマト王権の航海の神さま、湾岸の神さまは、住吉神です。
ヤマト王権は、津守氏に住吉神の祭祀を任せると勅を出しています。
ですから
ヤマト王権の国家的祭祀は、住吉神で行われます。
そして、宗像神は、神代に天照皇大神が、天孫を助け天孫に祭られよと神勅を出したとされます。
神代のことでニニギ命は、天下ってはいない頃のことで筑紫国造りが、神籠を作ったとされます。
筑紫君も天孫であったのでしょう。

すると、これはヤマト王権が、樫原に成立する前に筑紫には、国があったと言うことを示していると捉えることが出来ます。
ヤマト王権からすると、筑紫国でしょうが、
それ以前には、伊都国、奴国、不弥国、女王国と言った魏志にある国々がありますし、後漢や前漢の時代にも中国王朝と誼を通じていたクニグニがあります。
その中でヤマト王権と深く親交があったのが、筑紫君ではないかと思えます。
それは、以前にも指摘しましたが、筑紫の古墳文化は、ヤマト王権と繋がっています。
八女の石人山古墳は、前方後円墳で周溝、葺石があり円筒埴輪や形象埴輪もありました。
ヤマト王権の海洋進出、外交を筑紫君は、支えていたと思います。

仲哀天皇は、神勅を疑い海洋進出を拒んだために崩御されたと言います。

仲哀天皇から応神天皇への皇統の変更が、ヤマト王権と筑紫君との関係を深めたようにも感じます。

天照皇大神は、素戔嗚命が、作った国が、良い国で豊かなので欲しいと思って天孫を降ろしたとされます。
天孫が、降ろされる前に良い国が、在ったとしています。
大国主命の国です。
この国譲り神話には、宗像三女神は、登場いたしません。
出雲神話として成立しているお話です。

宗像神の方では、神功皇后と武内宿禰が、沖ノ島祭祀を行ったとされています。
神功皇后は、天孫の系譜です。
宗像祭祀を行うのは、天照皇大神の神勅に合っています。
皇后が、共に新羅に渡ったのは、筑紫の兵たちです。
仲哀天皇や皇后に海の向こうに国があると渡航を勧めたのは、住吉神です。
住吉神を祭れば、新羅は従うと言うことと皇后のお腹の子が、天皇だと神勅が降りました。
皇后への神勅は、住吉神からのものです。
そして、皇后が、伴って渡航したのは、筑紫の兵たちですので
宗像神や沖ノ島でお礼の祭祀を行われました。
皇后は、天孫の系譜です。
筑紫君に降りていた天照皇大神の神勅の天孫にも当てはまります。

天武天皇が、唐や新羅との外交政策に舵を切ったときに宮地嶽古墳は、既にあります。
時期から言ってもこの古墳が、築造されたのは、筑紫太宰の頃です。
新原奴山古墳群が、倭の五王の頃の祭祀の古墳群なら宮地嶽古墳は、隋との外交、推古天皇、厩戸皇子の頃のものです。
宮地嶽古墳の被葬者が、誰なのかと言うことと日本書紀にある宗像神の神籠は、筑紫君が造ったと言うことは、リンクしていると思います。
もし、被葬者が尼子娘姫の父、胸形徳善であったなら宗像君を中心にした外交になっていたでしょう。
宮地嶽古墳の築造時期は、胸形徳善の頃とは、違っています。
もっと早いです。

大海人皇子に嫁いでいるのですから父親は、斉明天皇と同世代くらいくらいでしょう。

宮地嶽古墳の被葬者は、推古天皇の時代の人ですからこれは、もう有り得ません。
やはり八女の奥津城の童男山古墳の後続、筑紫君と考えた方が、自然に思えます。

童男山古墳には、徐福伝説が伝わっていて中国から貴人が来たとされています。
北部九州で巨大な円墳を築造し続けている家系は、筑紫君しか、ありません。

また、宮地嶽神社には、光の道が通り日が没する処を眺めます。

天皇と婚姻関係がある宗像君では、ないでしょう。

 

筑紫太宰が、出来る前に宣化天皇、ヤマト王権は、博多部に那津宮家を造っていますが、
そのときには、近くに東光寺剣塚古墳と言う前方後円墳が、出来ています。
被葬者は、那津宮家に関係していてもおかしくはないのですが、
石材が、阿蘇岩を使っている横穴式石室で筑紫君一族の可能性が高い古墳です。
円筒埴輪や形象埴輪も出土していて周溝もめぐっています。
八女の石人山古墳に外見が、似ています。
ヤマト王権の対外政策に筑紫君が、関わり続けていたと考えられます。

宮地嶽古墳には、質の高い馬具や王冠が、入っていましたが、これらは百済系の文様を持つとされます。
娘が、天皇に嫁ぎ、孫が高市皇子の胸形徳善氏が、百済系の高級品を副葬するとは、思えません。

百済系の文様の王冠まで副葬されていまし
一方、筑紫君は、百済王族の危機を救っています。
雄略朝には、末多王子を送って行き、、高句麗を討ったとされていますし、

その後の欽明天皇の世にも新羅の囲みからも百済の王子を鞍橋君が、救ったとされます。
鞍橋君と言う名も百済王から送られたものです。
筑紫君が、百済に感謝されリスペクトされていてもそれは、納得できます。
ヤマト王権から見ても賄賂とか、謀反とは、捉えないでしょう。
隋との外交で小野妹子が、隋からの国書を百済人に奪われたとされます。
その頃、宮地嶽古墳の被葬者は、生きていたはずです。
奪われた国書が、何処の誰の手に渡ったか、それは分かりません。
しかし、不思議なことに天皇もヤマト王権も奪われた小野妹子を咎めることはありませんでした。
宮地嶽古墳の被葬者は、筑紫君ではないかと思います。
たぶん、その国書に都の名を「邪靡堆」とすると書かれていたかもしれません。

その後、都の名を邪靡堆とする隋と都の名前は、天皇が決める日本との間の外交を調整しながらどちらにも粗相や支障がないように筑紫太宰が、多忙を極めたのではないかと思われます。

このような隋との外交の中で筑紫太宰があり各国との外交を支え、倭の関門となっていたのですから。
玄界灘の海人族でもある宗像君の尼子娘姫を迎えた天武天皇は、唐や新羅との外交の重要性を知り
また、筑紫太宰や隋との外交をたたき台にして
新たに太宰府を拠点にした遣唐使派遣の対外外交へと踏み出して行ったのでしょう。
太宰府の守りを固める朝鮮式山城は、百済の将軍たちの指揮によって作られました。
このことも筑紫君と百済との関係を考える上で重要ではないかと思えます。
筑紫君が、天皇の臣下に下り遣唐使派遣を初め天皇の外交政策を支えて行ったのでしょう。
ヤマト王権からは、トップである帥や役人を派遣し、太宰府に倭の女王として斉明天皇の菩提を弔う観世音寺を建立しました。
その太宰府から出土した木簡には、筑紫と筑後の兵たちを召集したことが書かれていました。
将軍のものとされる挂甲の出土もありそれが、幾世代かに渡っていました。
唐や新羅との外交でそれは、倭の歴史で変えてはならない伝統文化であったと捉えることも出来るでしょう。