世界遺産に認定されている新原奴山古墳群に実際に行きまして
同じ福岡県内の八女の筑紫君の古墳群と比べてみることにしました。

隋の時、推古天皇や厩戸皇子の時に筑紫太宰が置かれまして
宮地嶽神社に光の道の祭祀があるのは、この筑紫太宰となんらかの関係があるのではないかと。
宮地嶽神社がある一帯が、筑紫国に含まれていた可能性があります。
日本書紀には、宣化天皇の勅に各国の使者が、胎中帝(応神天皇)の時から筑紫国に朝に至っていたとしています。
宣化天皇のこの勅は、6世紀後半で筑紫太宰は、7世紀初頭です。
どちらも筑紫国と言う共通点があります。
宮地嶽神社は、地元の方が、元は宗像神が祀られていたのを明治政府が変えてしまったと言っていました。
と言うことは、
ヤマト王権が、「筑紫」と呼んでいる中には、筑紫君だけではなく宗像君も含まれているのではないか。

新原奴山古墳群と八女の古墳文化について比べてみます。

新原奴山古墳群のもっとも古い古墳は、一番大きな前方後円墳の22号と今は、埋め立てられていますが、
元は、海に面していた方形の7号墳です(7号墳は古墳ではなく祭祀場の可能性があります)
どちらも5世紀前半の築造とされています。

この頃、筑後地方の八女の広川に同じく前方後円墳の石人山古墳が、築造されています。
ですから両者は、同じ時代を生きていたことになります。

22号墳は、全長80mで新原奴山古墳群、最大の大きさです。
石人山古墳は、全長107mで一回り大きいです。
被葬者は、磐井君に繋がる人物とされ筑紫君の系譜とされています。
石人山古墳は、22号墳と同じく、葺石があり周囲を周溝で囲まれています。
円筒埴輪もあり外景は、とても似ていたようです。
石人山古墳は、円筒埴輪だけではなく、発掘品から形象埴輪も確認されています。
これらのことから
筑紫君は、ヤマト王権と対立していたのではなく、むしろ協力関係に在ったと考えています。
地方からヤマト王権を支える勢力に筑紫君はあったのかもしれません。
ヤマトの古墳文化をよく取り入れた古墳だと言えそうです。
石人山古墳には、武装石人がありこの点が、ヤマト王権の古墳文化とは、違う点で
石人山古墳が、筑紫君の系列とされる点でもあります。


新原奴山古墳群の1号墳は、やはり前方後円墳で5世紀中頃の築造、全長50mとされます。
副葬品に鍛冶具や木工具が、出ています。
八女の方には、石人山古墳から磐井君のものとされる岩戸山古墳までの間に目立った古墳がなく、間が空いていることが指摘されています。
その空いている中で同じ5世紀中頃では、瑞王寺古墳があります。
こちらは、円墳で全長26mです。
円筒埴輪や形象埴輪が、出土しています。
ただ、鏡や玉の副葬品に混じって馬具の轡一式が出土しています。
木芯鉄板張輪鐙一式も出土しています。

1号墳が、鍛冶や木工の道具で瑞王寺古墳が、完成品ではないだろうかと、
見ようによっては、繋がりを感じるのではないでしょうか。
瑞王寺古墳の形象埴輪には、家や人物、鶏に混じって馬もあります。

近畿ですが、
允恭天皇のものとされる市野山古墳の陪塚の円墳からも馬具が、出土しています。
この円墳からは、挂甲も出土していて当時としては、最先端の武具で将軍ではないかとも言われています。
この円墳、長持山古墳と言いますが、石棺が阿蘇溶結疑灰岩で出来ている家形です。
わざわざ九州から運ばれた九州の様式の石棺です。
この古墳の被葬者も繋がりそうに思えませんか。

石人山古墳から岩戸山古墳の間が、抜けているように見えるんですが、
近畿の天皇の陪塚にわざわざ九州から運んでいた石棺の被葬者が、眠っています。
近畿の長持山古墳と瑞王寺古墳は、どちらも円墳で馬具を副葬しています。
双方とも馬を乗りこなしていたことでしょう。

ともに乗馬、騎馬をしていたこともあったかもしれません。

長持山古墳から出土した挂甲は、新原奴山古墳群、1号墳の鍛冶具を持つ被葬者と関係があるのでしょうか。

近畿にも鍛冶具を副葬した古墳があります。

方形墳で五条猫塚古墳です。

この古墳には、蒙古鉢形眉庇付冑が副葬されていて有名です。

渡来系の人物ではないかともされています。

新原奴山古墳群1号墳は、宗像一族であろうとされますから倭人でしょう。

当時としては、珍しく高度な技術を要する挂甲は、渡来系の鍛冶だったかもしれません。

石棺は、九州だとしても挂甲は、どこで入手されたのか。

市野山古墳の他の陪塚古墳からは、挂甲は出土していないそうです。

長持山古墳だけの独自性が、強いと言っても良いと思います。


八女では、6世紀後半の円墳から馬具の轡が、4セットも出土します。
4セットは、多いだろうと驚かれ騎馬軍団に関係していたのではとも言われています。
この円墳、大塚1号墳は、規模や立地から見ても地域の盟主的地位に在った被葬者だったとされます。
内部が、2石室を造る構造になっていて副葬品に金張のものもあり。
身分が高そうな被葬者です。
2石室ですから被葬者方、おふたりです。

ひとつのお棺におふたりを埋葬している例もありますし、2つのお棺を並べる埋葬法もあります。

2石室造る構造を持っていると言うのが、特別な感じがします。

馬と言いますと、
百済から応神天皇に2頭の馬が送られたと、日本書紀にあります。
北部九州では、馬の形象埴輪が、早くから見られます。
以前にも指摘していましたが、
神さまが馬に乗って飛び去ったと言う伝説が残っています。
宗像の宗像三女神のいらっしゃる大島から田心姫が、馬で飛び去ったと言う馬蹄伝説。
高良山の高良の神さまが、馬で飛び去ったと言う馬蹄伝説。
奥八女の日向神渓谷の日向神さまが、馬で飛び去ったと言う穴の開いた岩の伝説。
宗像、高良山(久留米)、八女と神さまが、馬に、空飛ぶ馬に乗られている伝説が残っています。

倭の五王は、将軍位を得て高句麗討伐を目指していますが、
倭が高句麗軍に敗北したのは、馬がなかったからだとされています。
ですから倭の五王にとって馬、騎馬は、なんとしてもクリアしたい必修事業であったろうと考えます。
雄略天皇の時に高句麗を討った筑紫の臣たちの中に「馬飼臣」と言う人物がいますが、
これは、打倒高句麗の意志の強さを示しているように思えます。
市野山古墳の陪塚に馬具や挂甲を副葬する被葬者がいたこともこのことに関係しているように思います。

筑紫では、馬の骨の出土はありますが、牧は見つかっていません。
牧の候補はあるのですが、馬に舐めさる塩を入れた器が見つかっていないと専門家が指摘しています。
この塩の器が、無い限り牧と決めることはできないそうです。
先日のNHKでヤマト王権の牧は、東北にありそこから馬を運んでいたとしていました。
と言うことは、
筑紫に馬具が、出ているのですからヤマト王権から馬を送られていた可能性もあります。
高句麗を討った筑紫の馬飼臣は、ヤマト王権から東北の馬を賜っていたかもしれません。

新原奴山古墳群が、沖ノ島祭祀を行い、朝鮮との往来にも関わっていた可能性は高いと思います。
朝鮮や大陸との往来は、ヤマト王権よりも筑紫の方に需要が多かったとも思います。
各国の使者が、筑紫国に朝に至っていたとされることから後に筑紫太宰になります。
筑紫太宰が、現地で対応していることが、中央から受ける命よりも件数が、多くなりそうです。
都まで行かずとも良いように筑紫太宰が、あるのですから。

百済も新羅も隋に遣使して叙位されています。

その隋が、倭の都を邪靡堆(やびたい)としていますので邪靡堆と名乗らないと混乱が起きたかもしれません。

大和(やまと)倭(やまと)や飛鳥(あすか)とは、隋書には、書かれていません。

邪靡堆(やびたい)。(← 訛っているんですけれど)

隋を敬っている諸外国は、隋書や隋の情報を優先させる可能性があります。

日本書紀にも古事記にも隋が、倭の都を邪靡堆と呼んだと言うようなことは、書かれていません。

ヤマトや飛鳥で通していたら大混乱が、起こっていた可能性すらあります。

隋と正式外交を行っているのに都の名前が違っていると言う飛んでもない状況になっています。

(後の話ですが、朝鮮と言う国名も中国王朝にもらった名前です)

筑紫太宰は、隋が竹斯国(ちくしこく)と呼んでいますので「ちくしだざい」で各国にも通じたでしょう。

天皇が、都を邪靡堆としない限り筑紫太宰の行う要件は、膨大になっていたと思われます。

隋が、竹斯国と呼んだ「ちくし」の「ちくしきみ」で筑紫君なのか、竹斯君なのか、分かりませんが、

取りあえず、「ちくしきみ」は、筑紫太宰とともに倭の外交では、重要になっていたでしょうし、機能していたと思います。

 

宮地嶽神社の古墳も円墳ですが、八女の古墳にも大規模な円墳があります。
推古天皇や厩戸皇子が、隋との正式外交を始めて筑紫太宰が、出来たのですから
筑紫君も筑後に引っ込んでいる訳にはいかないでしょう。

海の見える沿岸部にて倭の守り安寧を願うような役目を果たしていたのではないかと思えます。

宮地嶽古墳の副葬品に百済系の飾りが見られると伺ったことがあります。

武装石人があり筑紫君の系統だろうとされる江田船山古墳も百済系の高価な副葬品を持っています。

かくて百済の危機に筑紫の兵たちが、力を貸したことと関係しているのではないかと思えます。

宮地嶽神社には、光の道がありますが、光の道が延びる先は、相島です。

新原奴山古墳群は、沖ノ島を祭祀しているとされ世界遺産にも登録されました。