昨日は、天気予報では、警報球の大雨と言われていましたが、幸い免れたようです。
夜にNHKで倭の大王の歴史番組を放映していたので後半からでしたが、楽しく見ました。

前方後円墳は、ヤマト王権の象徴で全国に広がって行ったとしていました。
このブログで円墳である七夕池古墳や宮地嶽古墳を紹介していて本当に良かったと思いました。
どちらも副葬品が、豪華で注目されます。
磐井君のものとされる岩戸山古墳は、別区があるものの前方後円墳です。
前方後円墳ではあるけれど、ヤマト王権の文化ではない石製表飾が、あります。
でも、埴輪や周溝もあります。
円墳の七夕池古墳は、魏が倭王に冊封した卑弥呼をイメージしています。
ヤマト王権の象徴たる前方後円墳が、全国に広がる中、
かくての魏の皇帝の冊封を重んじる動きが、北部九州には在った。

獲加多支鹵大王の名が刻まれた鉄剣と鉄刀が、それぞれ埼玉と熊本の古墳から出土していることも言っていました。
獲加多支鹵大王は、雄略天皇と見られていますが、
私もそう思います。
番組では、言っていませんでしたが、熊本から出土している刀の方には、ムリテは事典曹人として奉られたと書かれています。
軍事ではなく、文官です。
やはりこの地域では、軍事的な活動は、宋から将軍位を得た「武王」の名でなければ、出来なかったと思います。

以前、指摘していましたが、
冊封を受けたら皇帝が、呼んだ名を授かってそれを使うでしょう。
なので宋の将軍は、倭の五王の名をそのまま使わないと、筑紫の軍を動かくことは出来ないのではないでしょうか。
獲加多支鹵大王の名では、筑紫の兵たちを軍事的には、使えないのだろうと思います。
文化面限定ですから「事典曹人」で奉られていて合っています。
獲加多支鹵大王は、雄略天皇ですが、武王と言う名ではないので筑紫からは、文官として奉られています。

東国で飼育されていた馬たちが、ヤマト王権に送られていたことは、知らなかったので勉強になりました。
また、皇紀には、継体天皇の時に筑紫の馬を百済に渡していたことが、書かれています。
百済は、梁に使者を送り仏教の経典などをもらっています。
梁から武王は、叙位されていますので百済に馬を送るのは、筑紫だったのでしょう。
東国を駆け巡っていた馬たちが、ヤマトにやって来るなんてロマンを感じました。

東国には、前方後円墳も数多く、残っています。

ヤマト王権を支えていた地方だったのでしょう。

ヤマトは、皇統を巡る争いが、熾烈で豪族たちも武装していたようです。
朝鮮半島にも派兵し権威を示し、軍事的に発展して行ったことでしょう。

このヤマト王権の軍事化と筑紫の軍事化が、やがて磐井の乱と言う古代史最大の戦いへと繋がって行くように思えます。
ヤマト王権が、軍事力を増強して行ったと言うだけでなく。
全国統一を推し進めるヤマト王権と各国使者が至る筑紫の海外を向いた視点の違いもまた、戦いの原因だったと思います。
磐井君が止めたのが、新羅討伐軍ですから。

謀反で止めたと言うよりもむしろ天皇や倭を思うからこそ、出兵を阻止したと言う感じもありますが。
やはり筑紫は、国際情勢を重要視していたと考えます。
筑紫が、外交の窓口として磐井の乱さえも相応しかったと言えそうです。
ですから筑紫太宰、太宰府へと繋がって行ったのでしょう。

そして、ヤマト王権は、律令制度、国府と国分寺の建設を行い、全国統一を本格的に成し遂げます。
 

 

追記。

いろいろな学説が在ります。

ひと口に前方後円墳と言っても様式は様々で近畿の纏向古墳と同じタイプは、北部九州では、小郡の津古古墳群とされます。

博多部の那珂八幡古墳群は、違うタイプの前方後円墳で同じ氏族の人たちが、作ったとは思えないと言っている研究者もいます。

近畿と九州とずい分離れているのに古墳時代の始まりにすでに同じタイプがあるのは、凄いと思います。

そして、津古に近畿より遥かに近い博多に別のタイプの前方後円墳があるんですよ。

凄くないですか?

どうなっているんだ?って思いますよね。

また、この那珂八幡古墳は、庄内式土器が出土しています。

近畿の纏向古墳から出土している布留式土器より古い時代の土器です。

竪穴式と横穴式では、埋葬での祭祀の仕方が、ぜんぜん違うと本に書いてあったんですが、

前方後円墳もその形から作り方が、それぞれ違っていると言う研究者もいます。

なのでひと口に前方後円墳と括ってしまうことには、異を唱える研究者もいますよ。

前方後円墳だけでも見解、学説、様々あります。

 

那珂八幡古墳は、周辺に円墳や方墳もあっていろいろな価値観の人たちと共存しているように見えます。
一方、吉武にある樋渡古墳は、弥生時代の墳墓の上に作られていて前方後円墳の優位性を示しているように見えます。

 

隋が、邪靡堆とタイに堆を使ったのは、巨大な前方後円墳を幾つも見てうず高く積むと言う意味の堆にしたのだと思います。

隋の使節団を迎えた王がいる都を邪靡堆と名付けました。

俀には、大きな古墳は、なさそうだと思います。

あったら堆、堆王になっていたんだろうと思います。

日本は、隋から冊封を受けたくなかったし、受けてもいないので皇紀に邪靡堆も俀も残っていないんだと思います。

冊封を受けずに文化や技術を得るのは、とても難しいです。

(新羅も百済も遣使して冊封を受けて仏典や僧侶を得ています)

それを可能にしたのが、筑紫太宰や筑紫国、後の太宰府だと思います。

もっと筑紫の存在、貢献をクローズアップしてもいいと思います。

 

番組のラストに卑弥呼は、魏と組んで呉を囲むと言う壮大な構想を持っていたとしていました。
凄いです。
でも、魏誌の中の卑弥呼は、隣の狗奴国王が攻めて来て魏に助けを求めています。
構想は、壮大でも隣国の男王がぁ!こういうとこは、卑弥呼は、九州にいたんじゃないかって感じなんですよ。
近畿の纏向だと隣の男王が、攻めて来たりしていないって思いますよ。
ですから壮大な構想を描いてそれを魏に持ちかけることも出来る。
九州だと、隣の狗奴国王が、弓矢を射かけて来た、魏に使いを出せ、急げ!ってなってしまうのかもしれません。

ですから周辺が安定しているヤマト王権が、全国制覇をやり遂げるくらいに発展したのでしょう。

邪馬壹国(邪馬台国)は、九州と近畿と2つの説に別れてしまいます。

ヤマト王権は、皇紀の中で呉との外交を書いています。

縫殿神社も呉から来た織姫たちを祀っています。

同じく呉の織姫を祀る神社は、大阪にもあります。

日本橋の呉服店三越の祖になっていると言う説もあります。

卑弥呼の神社はないと言うことは、以前から指摘されています。

宇佐神宮の女神や櫛田神社の大幡主神ではないかとも言われます。

しかし、邪馬壹国(邪馬台国)が、確定できないように祀っている神社も明確ではありません。

卑弥呼が、魏と組んだのでヤマト王権は、呉と組んだのでしょうか。

この説を主張する研究者ももちろんいます。

卑弥呼を天照皇大神とする説もありますが、
子どもがなく宋女の壹與が女王を継いだ卑弥呼と天孫を天下らせた天照皇大神とは、違うでしょう。
卑弥呼を祖にすると、天孫が失われてしまいます。
天照皇大神は、卑弥呼とは、別の王統だと思いますよ。

とにかく、日本では、中国皇帝に冊封を受けた王、女王は、祀っている神社が、特定できません。

そういう伝説もありませんし、皇紀にも書かれていません。

推測の範囲を出ません。

天皇陛下の祖であるとは、とても思えないのが、実情です。