新原奴山古墳群には、何か、違和感を感じてしまうのですが。
ヤマト王権による国家的な外交は、推古天皇、厩戸皇子の遣隋使が、始まりでしょう。
新原奴山古墳群は、その前ですから。
むしろ6世紀までの古墳群で7世紀には、終了しているのでヤマト王権の国家外交の始まりで終っているように見えます。

近くにある神社、縫殿神社は、織姫を祀っていますが、織るではなく縫うです。
これは、もしかしたら縫殿神社の初めの「ぬ」の字は、奴ではないかと。
新原奴山古墳群の奴山の文字も「奴」で「ぬ」ですが、
これは、奴国のことで後漢に冊封されていた奴国を継承している意味ではないかと。
縫殿神社には、応神天皇と神功皇后もお祀りされています。
ですので天皇、ヤマト王権の祭祀です。
このことから奴ではなく、縫うと言う字が充てられたのではないかと。

那津宮家は、宣化天皇が、勅を出して造り、名を呼んでいます。
奴国は、天皇が呼ぶ「那」や「名」と皇帝に奴国と呼ばれた「奴」が、あるのではないか。
新原奴山古墳群は、やはり倭の五王の軍勢で後漢に冊封された奴の文字を伝えているのではないかと思います。

ですから
もし、国家外交でヤマト王権が冊封を受ければ、都は「邪靡堆」です。
訛っていてイヤだと言うのなら冊封は、受けませんでしょう。
日出づる国として邪靡堆とは、名乗らない。
邪靡堆と言う地名は、全国どこにもありません。
隋書には、俀と言う国や王がいて俀王も書かれています。
邪靡堆の文字の中の堆(たい)は、俀とは、読みは同じでも違う文字です。
隋ももしかしたら俀と邪靡堆は、違う「たい」だと気がついていたのではないかと。
この「たい」は、台や臺に繋がっている可能性は、大きいと思います。
魏書に繋がっていると、隋も思ったので魏書と比べながら倭を見聞したと思います。
魏は、帯方郡から1万2千里に女王国があるとしていましたが、そこが邪馬壹国かどうかは分かりません。
北にある国の戸数と里数が、はっきり分かるか、分からないかで違いがあります。
女王国は、分かりますが、邪馬壹国は、分からず、日数での表記です。
となると、魏の時代に女王の台や臺は、どっちになるのか、どこになるのか、不明です。
隋は、邪靡堆と呼んでいます。
隋の冊封を受けたいなら都は、邪靡堆です。
しかし、ヤマト王権は、冊封を受けていません。

中国王朝が、呼ぶ名と天皇やヤマト王権が、呼ぶ名では、違っています。
違う方が、普通のようです。
筑紫も隋は、竹斯国と呼んだのですが、天皇やヤマト王権は、筑紫とします。
筑紫太宰です。
唐も筑紫を筑紫と呼んでいます。
筑紫君薩夜麻を外交使節団に加えています。
外交の拠点、窓口なので国際色が豊かになっています。
邪馬壹国の時代も卑弥呼の使者は、魏の使者にもなっています。
倭の五王たちも皇帝に将軍位を求めて得ています。
筑紫は、後漢では、奴国で魏では、伊都国、奴国、不弥国でしょう。
唐の時代は、遣唐使だった吉備真備が、唐から役職を得て帥となり太宰府の整備を行っています。

新原奴山古墳群に話は、戻ります。
この古墳があるところは、魏誌に上がっているクニグニには、当てはまらないように思います。
奴を自称しているとしたら男王の方の勢力で卑弥呼の共立には、入っていなかったのではないか。
たぶん戦いに明け暮れていた倭王の軍勢なので女王には、従っていなかった。
ですから呉の兄媛をヤマト王権の使者から貰っていた。
魏じゃないから。
ので女帝の推古朝で新原奴山古墳群の沖ノ島祭祀も終了し、
7世紀の古墳は、宮地嶽神社の光の道になっているように思います。
西に沈む夕日の道が、相島に通っています。
日出づる国は、日本です。
宮地嶽神社から眺めるのは、日没する方向です。
宮地嶽古墳は、円墳です。
百済系の高級副葬品が入っています。

 

沖ノ島の祭祀は、続いています。

遣唐使が、終るまで続いているのですから

それで沖ノ島の祭祀は、国家的な祭祀と位置付けられているのでしょう。

糸島の平原方形墳の多くの鏡を副葬した厚葬は、近畿に移っているので近畿に新たな権力が、誕生しているのは、確かです。

それが、ヤマト王権の元になったこともそうであると思います。

伊都国、北部九州から強力な権力が、居なくなったので宗像地方が、祭祀を行って成長したと言う考えも有り得ます。

外国との往来の港が、変わっていると言うのが、大きいでしょう。
3世紀の魏の時代、ここは卑弥呼を共立したクニには、含まれていないと思います。

どちらかと言うと、弥生時代は日本海側の方と交流していた地域です。

北部九州沿岸部にしては、近畿の文化が、入っていなかった地域です。

調査研究の余地があると思います。

新原奴山古墳群は、吉野ヶ里の北墳丘墓や方形斎場を思わせるので吉野ヶ里との繋がりも考えたい側面があります。
吉野ヶ里に男王がいた時代の祭祀です。
吉野ヶ里遺跡は、魏誌の女王国の様相に似ています。
新原奴山古墳群は、倭の男王からピックアップしているように思えます。
間違いなく倭の五王の勢力下でしょう。

倭の五王は、筑紫君だとしています。
魏書で帯方郡から1万2千里にあった女王国だった地域を治めていたのが、筑紫だからです。
その後、ヤマト王権の隋との外交でも筑紫太宰となっているのは、倭の五王の時代の継承があるからだろうと考えます。
ヤマト王権は、ずっと冊封を受けていませんが、5世紀も冊封を受けてはいなかったと思います。
ヤマト王権が、外国の文物や人々を受け入れていた窓口が、筑紫や宗像だったと思います。
冊封を受けていた筑紫を窓口にして倭の関門とし、ヤマト王権は、外国文化や使者、渡来人、技術者等を導入していたと。
そして、直接的な国家外交は、やはり隋との外交で遣隋使が、始まりでしょう。
新羅を討伐する軍勢や朝鮮への出兵は、していたし、百済との外交は行っていたでしょう。
正式な使者を迎えて外交往来を管轄管理する筑紫太宰が、必要になり設置しているのは、外交関係でワンランクアップしているからだと思います。
その前は、使者が朝に至っていたのは、筑紫国ですから国として裁いていたのは、筑紫ではないかと。
日本書紀や古事記と言った皇紀は、かなり信用度が、高いと思います。
太宰府も筑紫ですから。
筑紫太宰の前の筑紫国、魏の言うところの女王国と繋がるのだろうと考えます。

邪馬壹国や邪馬台国が、何処に在ったかは、それはまだ、分からりません。

邪靡堆は、大和であろうと考えます。

(邪靡堆になってなくってようございました)

沖ノ島祭祀も新原奴山古墳群もこれからの調査研究に期待されます。

もちろん橿原も調査研究をしていただき、今後にも期待しています。

 

 

追記します。

 

縫殿神社は、呉の織姫たちを祀っています。
織姫を求めていた応神天皇と神功皇后、大歳神さまです。

沖ノ島祭祀が、行われていたとされるのですから
兄媛を求めた宗像神や兄媛を祖とする筑紫の御使い君も祀られていても良いのではないかと思われます。
縫殿神社は、ヤマト王権の祭祀の神社なので応神天皇と神功皇后なのでしょう。
宗像神は、宗像君らが祀る神さまで神籠を造ったのは、筑紫の国造りの祖と日本書紀に記されます。

ですから
縫殿神社の周辺では、沖ノ島祭祀が、行われていたことが、歴史の彼方に消えていたのかもしれません。

世界遺産の登録をきっかけに明らかにされて行くこと。
失われている文化伝統が、ヤマト王権や天皇の可能性は低いと思われます。
長く続いた貴重な日本の天皇、天皇制ですから大切に伝えられ、受け継がれていることが、多いと思います。
私たちに課せられているのは、むしろその逆。
失われてしまった文化伝統、埋もれてしまった真実。
天皇や天皇制の影になってしまった文化伝統。
世界遺産としてユネスコが、守ろうとしているのは、消えようとしている。
あるいは、消えてしまった文化伝統、遺跡だと理解しています。
天皇を象徴とする民だからこそ、失われた伝統文化にも責任があるのだろうと思っています。