福津の古墳まつりが、行われました。
津屋崎古墳群の新原奴山古墳群でのお祭りです。
宗像の沖ノ島と一緒にこの古墳群も世界遺産に登録されたので今の時期にイベントを開催しています。


このお祭りに行く予定だったので先に七夕池古墳に行きました。
七夕池古墳の被葬者は、呉の兄媛ではないかとしているので
呉の兄媛は、宗像神に奉られた織姫ですので宗像氏の古墳群とされる新原奴山古墳群とも関連があるのではないかと思いました。

新原奴山古墳群の22号墳は、古墳群最大規模のものですが、ここには縫殿神社の鳥居があり上には、祠もあるそうです。

今回、私は見ていませんし、誠に残念ながらお参りもしていません。

22号墳の被葬者が、呉の兄媛かもしれません。

その可能性は、高いです。

22号墳は、全長80mの前方後円墳で円筒埴輪が、立っていたそうです。

ただ、縫殿神社は他にあるそうでそこには、呉から日本に来た兄媛を含む4人の織姫と応神天皇、神功皇后、大歳神さまが、祀られているそうです。

ここは、なんだか、霊力と言うか、呪詛があるように思えるところです。

仁徳天皇に奉られた織姫たちと宗像神に求められた織姫が居ました。

倭の五王が、天皇であるなら天皇が、織姫を得て幡を織らせてその旗を宗像君や筑紫君などに賜るのではないか。

もし、呉の兄媛が、新原奴山古墳群の22号墳に葬られているのなら七夕池古墳の被葬者は、誰なのか。

宇美八幡宮の近くではありますが、日本書紀、古事記に載らない、把握していない女性で首長クラスの人がいたことになります。

 

 

 

  

新原奴山古墳群には、ずっと行きたいと思っていましたが、なかなか機会に恵まれず。
昨年の古墳まつりにも行こうとしていましたが、生憎の雨で現地では開催されていましたが、
私自身が、億劫になってしまい、見送りました。
今年も時折春雨が降る曇天、お天気は悪かったのですが、先に七夕池古墳を見ていたこの機会を逃すわけにはいかないので行って来ました。

  

しかし!この古墳群とは、巡りあわせが良くないのか、無料バスに乗り遅れ。
JRとの乗り継ぎが、いいと思っていたんだけれど、甘かったです。
愕然としましたね。

思った以上に私が、トロかった!
次のバスまで2時間もあります。
なので駅近くのお店で食事。
でも、何が、ワルイかいいか、分かりませんよ。
結局、ここで食事を摂っていて良かったかもしれません。
イベント会場には、お食事処がありませんでした。

なんか、くわの農園の苺のあまおうの旗が立っていて気になりました。

ここ、バリスタがいるカフェでした。

豆も取り寄せていて自販機で販売していましたよ。


  

 

バリスタのいるカフェってやっぱ、多い。

で、メニューを見るうちに抹茶ラテを飲みたくなりました。

 

  

ほほほ、クリーミー。

で、2時間もあるんでやはり食事を摂りたいと、駅近くのお食事処でレディースセットを注文。

これに飲み物とデザートがついていました。

フライは、牡蠣ですよ。

味噌汁は、鯛のあらでした。 うっまい!

 

 

調度、食べ終わってお会計が済むと、バスも到着、無事に会場へ。

バスの中でボランティアさんが、いろいろと解説をしてくださいました。

その中でショックだったのは、宮地嶽神社は、元々は宗像三女神さまが、お祀りされていたと言う話。

えぇっ!息長垂姫さまや勝村大神、勝頼大神とばっかり思い、自説を述べていた私は、ショック&がっくり!

なんでも明治政府が、変えてしまっていたとか。

またもや、明治政府!

明治で祭祀が、変わっているんですよ。

ホント、困るわ。

地元の古老に聞かないと、分からないこと、ありますよ。

今回も新たに分かり、ショックひと塩!

と言うことは、福津は神功皇后ではなく、宗像三女神さまであった。

ですから新原奴山古墳群も宗像一族だと。

決め手は、海側にある方墳が、沖ノ島を向いていると言うこと。

沖ノ島祭祀に関わっていると、ユネスコに認められたそうです。

この方墳は、まだ調査が、されていないのですが、上から諸々な祭祀の捧げもののようなものが出ているそうです。

 

吉野ヶ里のことを思い出すんですが、

吉野ヶ里の南に海に面した方形の祭事場がありまして正面が、普賢岳。

北に北墳丘墓があります。

この普賢岳、南方形祭場、北墳丘墓が、一列に並んでいる。

新原奴山古墳群は、古墳は吉野ヶ里ほどの一直線ではありませんが、海の向こうに沖ノ島があり背後に古墳があると言う処は、何か、共通するものを感じます。

 

新原奴山古墳群で方墳が、作られた5世紀前半は、まだそれほどの古墳群ではなく、縫殿神社の祠のある22号墳はあります。

方墳が、沖ノ島の方を向いていて沖ノ島祭祀と関係があるとされ世界遺産となりました。

となると、大島や宗像大社は、どう関わっていたのでしょう。

大島からは、沖ノ島は見ることが出来ます。(見えない日も多くあります)

遥拝所があります。

沖ノ島(沖津宮)、大島(中津宮)、宗像大社の三女神の信仰は、どう捉えられているのでしょう。

新原奴山古墳群は、調査されていない遺跡、古墳が多く、世界遺産に登録されて保護継承を確実にしています。

また、沖ノ島祭祀もこれから調査解明が、進められて行くことでしょう。

 

 

  

 

 

新原奴山古墳群のMAP

 

  

 

調査済みの5号墳。

 

  

 

21号墳の上には、鎌倉時代の供養塔があり普段は、金網を張って入れなくなっているそうです。

21号墳は、5世紀前半に築かれた直径17メートルの円墳です。

 

  

 

大日如来とお経の文です。

元の襲撃に関係しているのではないかと言うことでした。

 

  

 

  

 

 

  

 

 

  

 

 

古墳を覆っていた葺石は、お城の築城や一般の人たちが、漬物石にするために持って行ってしまったとか。

古墳には、葺石があったそうです。

 

現在調査中の34号墳。

この古墳は、6世紀後半のものだそうですが、円墳だと思っていたら周辺の発掘調査から周溝が見つかり実は、前方後円墳だったことが、分かったそうです。

調査員さん、すごく嬉しそうでした。

 

    

 

パンフレットを見ていると、6世紀の中ごろ以降、前方後円墳がなくなって円墳ばかりになり磐井の乱の影響かって思ってしまう感じでしたが、前方後円墳もあったんですね。

同じ日にテレビで邪馬台国のことを言っていて古墳の築造に種類が違う土を重ねて行って盛土をするので壊れにくいと言うことをやっていました。

この前方後円墳も同じ工法の盛土のはずですが、方形の部分だけ壊れていたと言うのですから。

見た目だけではわからないと言うか、発掘調査をして詳しく調べて分かって来ることもあるようです。

 

古墳の下から住居跡も見つかっていて

ここに住んでいた人たちが、何処に行ったかと言うと、平地の方に集落が出来ているそうです。

移り住んだ後の住居跡に34号墳は、立てられていることになるようです。

朝鮮の前方後円墳は、空き地に作られていると、韓国の研究者が言っていたのを思い出しました。

何もなかった処だから攻め込まれたとか、征服したと言うのではなく、友好的な感じで作られている印象だと。

 

34号墳は、横穴式石室で古墳の上に行って中を覗けます。

 

  

 

川石を積んだ感じでしょうか。

かなり立派な石室です。

調査員さんに伺うと、北部九州式の石室だと言っていました。

肥後とは、違うと言っていました。

石室部分は、朱塗りだったそうで棺のことを尋ねると、棺は無くなっていたそうです。

調査員さんは、木棺だったと思うと話していました。

良く似た古墳があったなぁと心の中で思いました。

 

石室の入り口。

   

    

 

入り口付近で見つかった土器類と埴輪。

実物です。

もちろん、触りました、持ち上げました。

 

     

 

本で読んだことがあるんですが、竪穴式石室と横穴式石室って根本的に違うそうです。

竪穴式は、古墳の上部で祭祀を行って埋葬するそうです。

横穴式は、横の部分で埋葬するそうでこの古墳もそうなっています。

 

発掘調査って本当に大変だろうと思います。

ご苦労さまです。

以前にも新原奴山古墳群に来たと言う人が、話していましたが、

夏は、ここはもう、草ぼうぼうだそうで冬から今頃までに来るのがいいそうです。

その草を獲ったり整備してくれている方々もいらっしゃるはずですね。

多くの方々の手入れや作業が在って遺跡の保存が、なされていると思い、感謝しました。

草ぼうぼうと聞いて、だと蛇もいそうだなぁと思いました。

菜の花の古墳まつりの時期に来るのが、一番かなぁと思いました。

 

  

 

ポニーちゃんが、いたんですよ。

エサやりも出来るみたいでした。

馬に好かれるタイプらしくってカメラで撮ろうとすると、どんどん近づいて来ちゃってアップになり過ぎ!

カメラ、舐められるかと思いました。

可愛い子だったので顎の下、撫でてやりました。

よしよし。カワイイね。

 

  

 

この方向に唯一の方形墳が、あるんですが、誰も行っていなくって。

まだ、調査をしていないそうですから遺跡保全の意味でも足を踏み入れるのを止めました。

本来は、内海に面していたそうなんですが、

黒田藩が、開拓事業を行って陸地にしてしまい、田んぼや塩田になったそうです。

塩田は、今はしていませんが、当時の様子を伝えているそうです。

ですから

古墳が、出来た時は、海が広がっていたはずですが、今は陸地になっています。

ただ、ため池はありますね。

すごく田舎で長閑な風景でしたよ。

菜の花も良く咲いていました。ちょうちょ