太宰府の発掘調査の報告がありまして再度確認が出来たことと新しく分かったことがありました。
やはり太宰府は、消失したことがありこれは、純友の乱に一致するであろうと言うことでした。
ここは、従来の見解の通りです。
遣唐使派遣終了の影響は、見られずこれは、最近言われていることの再確認です。
沖ノ島は、遣唐使派遣の終了に伴い、祭祀が終了していると、指摘されています。
しかし、太宰府の方には、見られません。
純友の乱での消失の後、再建されて平清盛が帥となり太宰府の終焉は、12世紀、源氏の時代の到来ですね。

そして、新たに分かったことで個人的に注目したのが、たくさんの小札が、見つかったと言うことです。
小札は、ひとつひとつ紐で結んで甲冑になります。
しかもこの小札を使って出来る挂甲というものは、研究者も指摘していましたが、将軍クラスが、着用する豪華なものです。
それもその数の多さから1領ではではなかったそうです。
2から8と幅を持たせていましたが、どういう形状かが、分からないと言うこともあるかもしれません。

やはり・・・。
挂甲が、筑紫で太宰府で出土しても全く、不思議ではないと思いました。
挂甲には、それだけの価値があるので証拠に加えさせて頂きたいと思います。

研究者は、戸惑われているようでしたが、
それは、大和朝廷では、太宰府に将軍を任じてはいませんから。
帥も将軍ではありません。

天皇の皇紀では、太宰府に将軍はいません。
帥と言うと、大伴旅人を思い浮かべますが、お爺ちゃんでしかも通風を病んでいて馬に乗るのも大変だったお方です。
とても甲冑を身につけて将軍位を果たすなど、考えられません。

都から左遷されて来るような人もいました。
でも、大丈夫です。
帥殿や太宰府をお守りする将軍はいたはずです。

左遷された人も来るのですから太宰府の秩序が乱れないように取り締まりや監視も必要でしょう。
外交の窓口ですから将軍もいるでしょう。

誰が?

思い出して頂きたい。
新羅、唐が、攻めて来ると、知らせた人物がおりました。
太宰府や倭を守る防衛の任に着くのではないでしょうか。
筑紫君薩夜麻。
この方、唐の外交使節団にも名を連ねていました。

唐が、外交使節に加えるのですからそれなりの人物でしょう。

隋の使節団に同行した小野妹子は、剣の達人で武勇に優れていたと言います。

文武両道、容姿端麗これが、外交使節のクリア基準です。
太宰府や筑紫には、新羅や唐の人たちも来ます。
中には、倭の役人の言うことを聞かず、横暴に振る舞う人間もいるやもしれず。
ここで睨みを効かせるには、唐にも後ろ盾を得ている将軍が、宜しかろうと、なるわけです。

倭の五王の時代。
宣化天皇の勅には、胎中帝(応神天皇)の時から筑紫国で各国の使者が朝に至っていたとあります。
そのような外国との外交の場で上手に采配を振るうためには、中国皇帝から将軍位を頂くのが、無難でありましょう。
太宰府にも将軍の挂甲があったと言うことは、ずっと長年続いていた伝統文化が、引き継がれていたと言うことでしょう。
天皇の皇紀には記録がありませんが、太宰府、筑紫には、将軍がおりました。

天皇陛下が、中国皇帝に傅いて将軍位を賜る必要など、まったくありません。
筑紫国が、やっていますのでお任せになられれば、宜しゅうございます。
日本書紀にも筑紫の武人のことが、書かれています。

百済の王族に関係したところで武勇を発揮しているのが、筑紫でした。

日本書紀の記述から外交の場での信頼も厚かろうと思わせるものがあります。

十分に倭の関門の将軍に値すると思われます。

沖ノ島の祭祀は、筑紫国に各国使者が、朝に至っていた時期に始まり遣唐使派遣の終了で終わっているようです。
宗像や筑紫には、舶来品が出土していることと各国使者との外交、沖ノ島祭祀は、あっています。
日本書紀では、宗像神を祭るのは、宗像君らとしています。
また、宗像神の神篭を作ったのは、筑紫君の祖だともしています。
宗像君らの「ら」の中に天皇や大和朝廷は、入っているはずはありません。

水沼君や火の君、安曇君は、「ら」に入っていたんでしょうか?

桜京古墳がありますから火の君は、あり得るような気がしてしまいます。

宗像神の成り立ちは、日本書紀や古事記では、素戔嗚尊が、天照大神の国を奪うような邪心はないと、身の潔白を示す神話になっています。
天照大神が、天照大神の国を奪うと言うことはあり得ません。
宗像神は、筑紫君と宗像君が、祀っていた神様ですと、日本書紀は示しています。
天孫である天皇家は、伊勢神宮の祭祀を行っています。
黒田清子さんは、伊勢神宮の斎宮をお務めでした。
宗像神話で素戔嗚尊が、かみ砕いた天照大神の玉を祖とするのが、天皇家の皇統となっています。
であるなら宗像神にも天照大神が、かみ砕いた剣から生まれた後の天孫がいたとしてもおかしくはありません。
宗像の女神たちに天照大神は、天孫を助け天孫に祀られなさいと言ったとされます。
その天孫は、天皇ではないか、他に天孫がいるはずもない。
皇紀は、物部氏も天から天下ってきたニギハヤを祖とするとしています。
天から(船に乗って)降臨しています。

神武天皇の聖なる剣を祀る氏族です。
であるなら宗像神の祭祀の方に玉を祀る氏族がいてもおかしくはありません。

筑紫の方では、宗像祭祀は、倭の五王の祭祀ではないかと思われます。
宗像氏の奥津城とされる津屋崎古墳群には、加耶の鉄製品を初めとする舶来系の武器が見られます。
倭の五王が、率いた兵たちであろうと考えます。
と言うことは、皇帝に冊封を受けた国が、これらの人たちの国ですから冊封を受けていない天皇の地を奪いに行くこともない。
皇帝に従っていても天皇や大和朝廷を脅かすことは、決してありません。
その証として宗像君らは、沖ノ島祭祀を行っていましたとも考えられます。
時期は、各国の使者が、筑紫に朝に至っていた頃から遣唐使派遣が、廃止されるまでです。
沖ノ島には、新羅の純金製の金環や唐三彩の破片も出土しています。
いずれも貴重なものですが、倭や天皇の国を奪う邪心はございませんと示すお供えと受け取ってもいいのではないでしょうか。
特に新羅系の舶来品は、磐井君の乱の後のもののようです。

 

大和朝廷が、遣唐使の航海の無事を祈願したのは、住吉大社です。

ただ、空海が遭難しそうになったときに宗像神が、不動明王となって現れ、荒波を鎮め助けてくれたとしています。

宗像神も遣唐使の航海の無事、安全を守る神様であったことでしょう。

空海は、お礼のために宗像に鎮国寺を開き、宗像神の化身ともされる不動明王を祀っています。

他に航海の無事、安全を祈願する神様は、志賀海神社のワタツミの三柱の神様もいらっしゃいます。

それだけ四方を海に囲まれた日本にとって航海の安全が、如何に重要であったかが、伝わってきます。

日本書紀、古事記に誓約の伝承があるのは、宗像神です。

宗像大社は、交通安全の神様としてもよく知られていて自動車に宗像大社のお守りを着けている方は、多いですよ。

道の神様でもいらっしゃいます。

 

皇紀である日本書紀と出土物を繋げ合わせながら考え得ることを稚拙ながら並べてみました。