福岡市は、奴国だったと思っています。

なぜか、それを説明すると。

まず、志賀島から後漢印が、出土しています。
志賀島は、龍の島とも言われ今年の干支にとても関係した島なのですが、
安曇氏の本拠地だったとも言われています。
ワタツミの神の島です。
志賀島から金印が出土している。
このことが、奴国が何処であったかの重要ポイントだと思います。
魏印「親魏倭王」の金印が、何処で出土するか。
これもまた、邪馬壹国が何処にあったかの重要な決め手です。
卑弥呼が、頂いた金印がどこでどのように発見されるか、多くの人が、関心のあることでしょう。

奴国の奴は、ヌとかドとされます。
しかし、日本人の感覚として国名に「ぬ」や「ど」の一文字を使っていたとは、考えにくいのです。
やはり「な」ではないか。
「なこく」の方が、スッキリします。

なぜ、そう思うのかと言うと、
日本人の発語としてヌやドよりもナの方が、すんり出やすい、話しやすいと言うのがまず、あります。
他にも日本は、日本として中国との外交を古くから行っていました。
しかし、日本「にほん」「にっぽん」と言っていたのに「やーぱん」と呼ばれていました。
果ては、黄金の国「じぱんぐ」です。
何処、それ?
日本が、日本ではありません。
書面や書物がありますからそこに「日本」と書かれていたので分かったのでしょうが。
発音やそれを聞く方の感性でこのように変わってしまいます。
倭人が、「な」だと言っているのに「ぬ」と聞いてしまうのなど、朝飯前でしょう。
日本が、やーぱんになるならナコクが、ヌコクに変わる可能性は、大いにあります。

宣化天皇は、那津宮家の造営で正しく那と呼び正されたのでしょう。
外国の使者たちを接待する場として造営されたのですが、
それを大伴氏や蘇我氏ではなく、天皇が直々に行われていることに「な」の付く事業には、王権が関わっていたと思われます。
海外の使者をもてなす事業です。
奴国王です。

魏志でも魏の皇帝は、卑弥呼の送った使者たちに言葉をかけています。
卑弥呼を倭王にすると、申し渡しています。
金印を初め刀や鏡など。
使者たちにも役職や銀印を授けています。
外国の使者たちに皇帝自ら申し渡しをしているのです。
那津宮家は、外国の使者たちをもてなす場であるのですから
天皇自らが、勅を出し臣下を動かされました。

隋の使者に対応したのは、日本書紀では、推古天皇になっています。
ここを太子とすることは、ヤバいです。
魏が、皇帝ですから。

と同時に
筑紫君磐井が、各国の使者を引き入れて居たと、されます。
百済も新羅も高句麗も引き入れていました。
そして、外交が成り立っていたと言うことであるなら、です。

筑紫君磐井討伐後、
那津に使者をもてなす宮家を天皇の勅で造営することは、絶対に必要なことです。
那津の那が、「な」であることは、奴国もまた、「なこく」であったと考えられます。
奴国とは、関係なく那津宮家が、造営されたとは、思いません。
そして、港が那津なら川が那珂川です。
那珂川が流れる一帯が、那、奴国に関係していたと推測されます。
那珂川の川から博多湾に出て海へと繋がって行く、ワタツミの安曇の海です。
安曇氏は、奴国王の末裔だったとする説があります。

櫛田神社は、女神さまです。
大幡主神さまとされています。
これは、卑弥呼のイメージです。
女性で大幡の主であったのは、黄幡を所有した卑弥呼ではないか。
なら福岡は、卑弥呼居ます女王国ではなかったかとも見られます。
もしかして親魏倭王の金印は、櫛田神社の下にあるのでは?と言う意見もあります。

鳥飼八幡宮では、本殿改装の時に地面から箱が出て来て龍が、入っていたそうです。
今、塗装をし直して東京で展示されているそうです。
ちょうど、辰年です。

宇佐神宮の下には、お墓が在って卑弥呼の埋葬地の候補になっています。
宇佐も女王国の候補地です。

奴国だったから卑弥呼女王を祀っているかもしれません。
卑弥呼の時代、奴国には王がいたようには、書かれていません。
卑弥呼を女王にしたのは、魏の皇帝です。
那津宮家を造営したのは、宣化天皇です。
櫛田神社は、お櫛田さんです。
櫛名田姫は、ヤマタノオロチの生贄でした。
それを助け出したのです。
卑弥呼は、皇帝の生贄になっていたので救い出したのかもしれません。
誰が?素戔嗚尊が。
お櫛田さんは、卑弥呼でいいのでしょうか?
それは、分かりません。
なんとも言えませんし、確証も有りません。
卑弥呼を魏の皇帝から取戻し、お櫛田さんにしているのか、どうか、それは、まったく分かりません。

もちろん、出土している弥生時代の遺跡、文物の数々は、奴国を示すものでしょう。
漢の頃に奴国王は、いたけれど、卑弥呼が女王になるときには、奴国には王の記載がありません。

これは、今の処、あっています。

奴国一帯が、繁栄していた弥生時代は、漢の頃です。

女王国の時代、倭のクニグニには市があり栄えていたとありその魏志の様子に奴国も合っています。