番外編が、2つもあります。

申しわけありません。

なんか、長々書いてしまっていますので簡潔に書くとこういうことです。

筑紫君薩夜麻は、唐の外交使節団に名前があります。
使節団の郭務悰は、太宰府に入り天智天皇の死を知り拝礼したとされます。
しかし、他の天皇のことは、書かれていません。
天皇はいらしたはずですが記載はなく、筑紫君薩夜麻は、唐の外交使節団に加えられている。
太宰府があるのは、筑紫です。

これでは、唐書だけ読むと、太宰府は唐の管轄のようになってしまいそうです。

日本書紀は、これに対抗して
筑紫君薩夜麻は、女帝である斉明天皇、持統天皇に仕えていたことを記している。
倭の王は、女王国に従っていたとする魏書があります。
唐の臣下に加えられている筑紫君薩夜麻を天皇の臣下とするには、女王で行きます。


こういうことは、過去にもあったのではないか。

隋書に出て来る王は、阿毎多利思北孤です。
日本書紀は、女帝である推古天皇にしています。
男王と女王と食い違っていると、論争になり諸説がある箇所です。

宋書では、倭の五王が諸軍事の将軍ですが、
日本書紀では、三韓を従えたのは、神功皇后としています。
皇后、女性です。
また、雄略天皇の時に百済の末多王子を送ったのが、筑紫の兵たちで高句麗を討った船卒を率いたのは、筑紫の臣たちとしています。

筑紫は、日本書紀では、イザナギ、イザナミの国生み神話のときに名づけられています。

唐が、筑紫君薩夜麻を外交使節団に入れ、国書にその名前を書き残しています。

唐の最新の倭の臣下が、筑紫君なのでそれに伴い、日本書紀では、皇帝の臣下であった倭王(武王)も筑紫の臣とした。

「倭」も中国王朝によって名付けらたものであるなら唐が「筑紫」と呼んでいるのですから筑紫にしたのでしょう。

日本書紀に「筑紫」として書かれている地域は、中国王朝に「倭」と呼ばれていた処である可能性が高くなりました。

天孫降臨の地も筑紫です。

発掘調査から得た資料から日本書紀は、8世紀に書き換えが行われていると言う説が有力とされます。

発掘された木簡から北部九州の税は、太宰府に集められていますが、都には届けられていないことも分かっています。

太宰府は、大和からの派遣が無くなってから規模が拡大しています。

魏書にある伊都国王は、世々女王国に従っていたことや男王が立っても廃位され女王にかわっているこの前例を活用しているのではないか。



筑紫君薩夜麻は、天智天皇に唐新羅の大軍が来ると知らせていた。
しかし、実際は外交使節団が来ている。
知らせていた筑紫君薩夜麻は、外交使節団に加わっている。
唐の外交使節団ですから手出しはできません。
なので褒美を与えます。
魏書でも卑弥呼の使者は、魏の皇帝から役職を与えられています。
今度は、唐の皇帝の使者に天皇から役職を与えるのです。
褒美です。

おまえは、藤原だ。
いいか、これは、褒美だ。
藤原のだ。
筑紫君ではない、筑紫君から替えてしまいましょう、藤原姓。
藤原氏は、天皇の臣下であり絶対的な間違いようのない臣下です。
壬申の乱の褒美で藤原氏を賜る。

と言うことではないかと言った流れでございます。

古代、男系男子の皇統で女帝が、即位している朝は、中国王朝との外交が行われていたような、中国の国書に倭の人物が記載されているところのようなのでした。

忘れてはいけないのが、筑紫君薩夜麻の働きで唐新羅の大軍が、倭に攻めて来なかったこと、戦を外交に替えたこと、天皇が唐に冊封されて日本まるごと、唐の配下に陥らずに済んだこと。

筑紫君薩夜麻(藤原寅麿)も自分の真の役割を知っていたので日本を救うため祖先から受け継いできた名を替えて賜ったのでしょう。

日本は、持てる力の全てであらゆる手段を用いて日本の平和と独立、繁栄を守っていたのでしょう。


もちろん多くの憶測を含みます。