皇紀にある履中天皇の勅、宗像神のものを奪ってはいけない。
この勅も筑紫国造が、筑紫君だったことに関係していると思います。

 

昨夜のテレビで宗像三女神の祭祀を石原良純さんたちが、訪れ参拝する番組がありました。

神秘的で神々しい神居ます神聖な場をありがたく拝させていただきました。
テレビ番組としては、楽しく拝見しました。
神社や祭祀の有り様をひとつにとつ訪ねておられました。

 

それを見て思ったのは、
宗像神を祀るのは、宗像君等とあり神籠を作ったのは、筑紫国造の祖と言うのは、不可欠な要素ではないかと思ったのでした。


宗像大社があるのは、筑紫国です。
隋の時代に筑紫国の名があり日出づる処の天子の都に従っていると位置づけられています。
当時、遣隋使が派遣されます。
宗像徳善の姫、尼子娘が皇統の大海人皇子に嫁ぐ、ずいぶん前です。
聖徳太子に膳女郎が、嫁いでいます。
筑紫君の方の女性が、聖徳太子のもとに嫁いでいます。
聖徳太子こそ、隋との外交で主軸を担った日出づる処の天子と思われるのです。
隋の方でも秦王国と筑紫国の名のみ隋書に上げているのです。

 

以前から指摘しているのですが、
日宋貿易は、平清盛。
日明貿易は、豊臣秀吉。
平氏は、壇ノ浦の戦いに敗れ、男系男子を失っています。
秀吉もまた、悲運な運命でした。
徳川家が、日本国王の印綬を引き継ぎますが、
徳川家の選択は、鎖国でした。
徳川家は、宗像祭祀には関わってはいなかったようです。

それ以前、倭軍と百済軍は、白村江の戦いに敗北し、百済は滅びます。

5世紀から6世紀にかけて朝鮮半島にある前方後円墳には、筑紫の特徴があります。
皇紀にも筑紫が、百済の救援で活躍していたことが書かれていて記述との一致が確認できます。
筑紫君の人たちは、実際に朝鮮に渡り百済に行き、百済王から金銅製の冠を頂くような活躍をしていた。
そして、古墳が残っているのです。
これらの歴史を辿ると、宗像神の祭祀が、航海の祭祀で朝鮮との往来の為のものなら
その神威を得ていたのは、筑紫君ではないかと思われます。

履中天皇は、5世紀中頃の天皇ですから
宗像神のものを奪ってはいけないという勅の後に
筑紫君は、韓半島に渡って活動し、百済を救い古墳も残していることになります。

筑紫国造を宗像君でもなく、水沼君でもなく、安曇君でもなく。
筑紫君としていたのは(磐井の乱があったとしても)
宗像神の神威を抜きん出て受けていたのが、筑紫君であったからではないでしょうか。
そこには、履中天皇の神聖な勅が、大いに関係していたように思えます。

宗像神は、道の神様でもあります。
隋への道、遣隋使の道を通したことに宗像神のご加護があったとしたら。
宗像大社が、筑紫国にあること、隋が筑紫国の名を呼び、誼があったと思われること。
筑紫太宰が、外交の要としてその役割を担っていたこと。
このことにも道の神であり航海の神である宗像神が、大いに関わりご加護があったと考えられます。

後に唐の皇帝の即位式に捕虜だった筑紫君が、参列したとされます。

国家事業である遣隋使、遣唐使の派遣に宗像神のご加護、神威が大きかったのではないかと思われます。

これらのことも

ヤマト王権が、筑紫君を筑紫国造としたことと関係していると思います。