納豆の夢

 

 われわれは納豆を求め、納豆を食す。それは美味しさのためであったり、健康にいいからであったり、あるいは朝食に用意されていたから何となく食べた人もいるだろうし、他に食べる物がないから仕方なく食べた人もいるだろう。

 食べる側の背景はさまざまだ。

 では、食べられる側の納豆にとってはどうだろう。どんな気持ちで日々食べられているのだろうか。

 納豆は基本的に受動的な食べ物だ。我が意に背いてひきわりにされたり、目が覚めたら箸で混ぜられていたりと、ほとんど主張する機会を得ず食べられ、胃に落ちる。

 ほとんど、と書いたのはもちろん、納豆にもちゃんと主張する時間が用意されているからだ。

 それが、パックを開けた時の匂いであり、混ぜる時の粘りであり、味であり、食感である。

 箸で混ぜられることは受動的と書いたが、それは同時に粘りを生むという、納豆にとってこの上ない能動の時間でもある。

 受動的であり、能動的という矛盾。

矛盾を楽しむ食品、それが納豆だ。

 結論を言うと、納豆を食べる時は納豆の主張に、声に耳を傾けてあげること。それが納豆の望むところであり、納豆として生まれ変わった大豆たちの夢だ。いろいろな料理にアレンジできる納豆ではあるが、例えばオムレツに入れれば風味は飛んでしまう。だからこそ、せめて混ぜる作業だけは疎かにしてほしくない。間違ってもパックを開けてそのまま裏返して卵に落とすなんてことは避けていただきたい。それは納豆に対する背徳行為だ。

 

 納豆は、愛する者を愛す。

 

 これは、さっき考えた言葉だ。納豆に真摯に向き合えば、その分だけ納豆から受け取る愛情は増幅する。これまでたくさんの納豆を食べてきた中で感じた経験則に基づいているから間違いない。

 納豆、ありがとう。

 納豆、これからもよろしく。