鬼武蔵と呼ばれた男、森長可。武士に価値を見出さなかった猛将の胸中。 | ナツレのツレヅレなる何か

鬼武蔵と呼ばれた男、森長可。武士に価値を見出さなかった猛将の胸中。

どうする家康にまた屈指のイケメン武将が♪

 
 

令和5年(2023)NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていたら、またイケメン武将が登場しました。イケメンのお名前は城田優さん。演じる武将は鬼武蔵の異名で知られる森長可(もりながよし)です。

今回は、織田信長の小姓で有名な森蘭丸の兄であり、鬼武蔵という異名で知られる猛将・森長可について調べたので紹介します。

 

■鬼武蔵の素顔

森長可は織田信長に仕えた武将で、父は信長の寵臣である森可成(もりよしなり)、弟は信長の眉目秀麗な小姓として有名な森蘭丸(乱丸)です。あの森蘭丸の兄である長可なら、きっと城田優さんのようにイケメンだったと思いたいですね。

しかし、老成していたと評判の蘭丸とは違い、長可さんは相手構わず喧嘩をふっかけたので、同僚から避けられるほどだったといいます。

ただ、残された甲冑からは、意外と小柄な人物だったと推定されています(甲子夜話)。血気盛んで「鬼武蔵」という勇ましい異名を持っていましたが、実は線の細い中性的な雰囲気をまとった武将だったのかも〜とワタシはかってに萌えています。

伝承では、黒の甲冑・白の陣羽織、大業物の「人間無骨」という十文字槍を携え、黒馬の名馬「百段(ひゃくだん)」に跨いで戦場に出ていたというのですからカッコよすぎです(ハート)。

 

「どうする家康」では少ない登場シーンで強烈なインパクト残していましたが、長久手で散るシーンがみられなかったのは残念でした。

 

森長可(もりながよし)、勝三、勝蔵、(庄蔵)、武蔵守、長一(?)、可長、

森可成の二男(重修譜) ※長男とする系譜もあり 

妻は池田恒興

織田信長に仕え、父可成とともに天正初年頃より各地を転戦。

元亀元年(1570)、父可成戦死に伴い13歳にして家督相続。美濃兼山城主。

天正2年(1574)頃より織田信長の長子織田信忠付となる。

天正10年(1582)春、甲斐武田勝頼を攻めた甲州征伐に際しては、先鋒の織田信忠勢のさらに先陣を務めた。また上野へも侵出して小幡氏ら国集を従属化させている。戦後、信濃海津城に在城し信濃国衆の知行安堵や禁制を発給し、領内の安定化を着手。

6月2日、惟任光秀の謀反により、織田信長・信忠父子が本能寺で横死すると信濃から撤収し美濃兼山城へ戻った。清須会議の結果から信孝配属となったと思われるが、織田信孝が羽柴秀吉と対立すると岐阜城を攻める秀吉に味方し東美濃を制圧したようだ(岐阜城攻めにも加わったとされるが記録はない)。このとき、秀吉から駿河・遠江の知行を約束されたという(森家系譜)。

天正12年(1584)3月、織田信雄・徳川家康と交戦する羽柴秀吉軍に加わり、13日に犬山城を陥れる(佐竹文書・宇野)。しかし3月17日、尾張羽黒に進んだが家康重臣酒井忠次・奥平信正・榊原康正の軍勢と遭遇し敗退した。

4月7日、義父の池田恒興とともに三好秀次を大将とする三河侵攻の別働隊に加わり、第二陣を率いた。しかし4月9日、長久手にて家康の先発部隊である榊原康政・大須賀康高勢に三好秀次本体が補足撃滅され、第三陣の堀秀政勢も劣勢であった。すぐさま救援に赴いたが同処で討ち死にを遂げた。享年27歳。 

なおこの戦の前に遺言状を残しており、その中で弟の千丸には自分の跡を継がせないよう言明していたが、結局この千丸が森家を継いだ。千丸はその後森忠政と名を改め、関ケ原では兄の仇である徳川家康に味方し加増を受け、美作国津山藩初代藩主となった。

 

 

鬼武蔵と呼ばれた武功

森長可は、天正10年(1582)2月の織田信長の甲州征伐の報奨として信濃海津城主となりました。しかし6月2日の本能寺の変にあたり、本拠地美濃兼山城へと戻ることになりました。この混乱に際し信濃国衆らが一揆をおこし、長可に提出していた人質の返還を求めました。多勢に無勢の状況ながら長可は反対に人質を盾に一歩も引かず、合戦に及んで一揆勢を粉砕してしまいます。そして一揆に参加した一族の人質を見せしめとして殺し、残った人質も通過地点の木曽義昌への取引の材料とされました。そうして道中の安全を確保し悠然と兼山城へ帰り着いたのです。この剛毅果断なエピソードから、以降「鬼庄蔵」とよばれ、武蔵守に叙任されると「鬼武蔵」の異名奉られるようになったといいます。

 

(他にもこれとは別の飯山一揆制圧の鮮やかな手並みのよるとも、橋守を斬ったことを信長から武蔵坊弁慶のようだと面白がられたからなど諸説あります。)

 

武士の世に疑問を抱いた?遺書に残された言葉

そんな鬼の武士とも呼ばれる森長可ですが、家族には武士にならないで欲しいと願っています。

小牧・長久手戦役の前に遺書をしたためているのですが、この中で、自身の娘は京の町人の、できれば薬師のようなところへ嫁がせてほしいと頼み、末弟の千丸にも自分の跡を継がせるのは嫌だと書いているのです。

ここから森長可は武士でありながら武士に価値を見出していない人物として注目されています。

 

おもえば、この森家・・・父の森可成を始め、兄の可隆(よしたか)、弟の乱丸(蘭丸)・坊丸・力丸すべて戦死しているんですよね。そこから武士の世を儚んでいたのかもしれません。

 

しかしその遺書は、「十万に一つ、百万に一つもし我々が総負けとなったら、皆火をかけ、死ななければならない」と武家の棟梁らしい凄みのある文言で締めくくっています。そして、運命の小牧・長久手戦役に参加しました。

 

長久手ではれいの黒の甲冑に白の陣羽織を着込んだ姿で奮戦したといいます。しかし一際目を引くその姿は格好の標的となり、水野清久配下・杉野孫六の狙撃を受け、眉間を撃ち抜かれて即死したと伝わっています(井伊直政の鉄砲隊の一斉射とも)。

 

そして遺書で禁じたはずの末弟千丸が森家を継ぎ、森忠政を名乗り兄の敵である徳川家康に味方して森家の安泰に成功。大阪城攻めにも名馬「百段(ひゃくだん)」に跨って参加し、森家は津山藩主として江戸時代を迎えるのです。

 

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