日根野弘就
令和二年度NHK大河ドラマ『 麒麟がくる 』に美濃武将のアイドル()日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)こと日根野弘就(ひねのひろなり)さん26歳が登場したので興奮
え誰でどのシーンかといいますとあの斎藤道三の二男で高政の弟 彦四郎どのを斬殺したひとです。なお、その時手にしている太刀は「手棒兼常(てぼうかねみつ)」の異名をもつ名刀ですそう思って見返していただければなお味わい深いかと
信長公記(しんちょうこうき)によれば長井隼人(ながいはやと)という斎藤家の重鎮も実行に関わっていたので楽しみにしていたのですがぁ『 麒麟がくる 』では斎藤家の重鎮役は稲葉一鉄さんがになっており、実行犯としても登場せず残念
この、日根野弘就どの美濃を道三から奪った斎藤高政(義龍)やその子の龍興の重臣として数々の施政に携わり
斎藤家没落後は、その多くが織田信長に吸収された美濃武士の中にあって長年にわたり反信長戦線の構築に尽力したことで勇名を馳せています
また、日根野頭形(ひねのずなり)という鉄砲時代に相応しい、流線曲線を生かしつつ簡易な継ぎで生産が容易な冑(カブト)を用いて広めたことで、その筋でも有名です。
ドラマでこのあと高政や龍興の重臣として活躍するか不明ですがぁ
暗殺者役だけで終わったら惜しい凄い人なのでちょっとご紹介したくてかきかき
『 麒麟がくる 』では日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)として山中浩貴さんという方がキャスティングされてましたが、
お髭がステキでこの後おきた事件のインパクトもあって強く印象に残りました
日禰野弘就(ひねのひろなり) 姓:延永・日根野 官途名:備中守
齋藤治部大輔義龍の重臣の一人。
弘治2年(1556)義龍の命を受けて長井道利と謀って義龍の弟 彦四郎を稻葉山城で惨殺したという(信長公記)。太閤記にはその時26歳とある。
義龍施政下では氏家直元・安藤無用・竹腰尚光ら四人による書、さらに日比野清実・長井衞安らを加えた6人の連署に拠る書が多数見られ、奉行衆の中心として活躍した。
永禄9年(1565)、甲斐武田信玄に対し織田信長との確執を書状にて訴えている。
永禄10年(1566)9月、齋藤家の美濃没落で龍興(たつおき)は伊勢長島に逃れたが、これには従わず弘就は今川家に仕えたという。
永禄11年(1568)12月、掛川城で今川方として徳川軍と戦う。
永禄12年(1569)正月、天王山で徳川軍と戦っている(小倉文書・校訂松平記)。
この戦いの敗戦により今川家は没落した。
元亀元年(1570)頃、近江の土豪今井秀形に入魂し近江に上ったらしい(島記録)。『淺井三代記』には弟 盛就(もりなり)が淺井長政の麾下として働く姿が書かれている。
同三年(1572)の冬には近江を去り伊勢長島門徒に加担して岐阜の近くの新砦を守備した(顯如記)。
天正元年(1573)九月十四日、弟盛就が伊勢の福島新四郎に宛てた書状によると日禰野兄弟は依然反信長派であり、弘就が長島へ赴いたことが記されている(伊勢古文書集)。
天正2年(1574)9月29日をもって長島は信長により全滅させられるが、そこで日禰野兄弟は信長に降ったと思われる。
〔織田信長家臣人名事典、中部大名の研究〕
この方、さきにもいったとおり甲冑の工夫でも高名な方でした
後年、弘就は秀吉に出仕していましたが、その甥の三好秀次に強く請われて、唐冠の冑を渡しました。
その際この冑は「押付け※」を的に見せたことがないので冑に恥を欠かせる事ないよういい含めたと伝わっています。
※押付け(おしつけ)=鎧の背中部分
秀次はこの甲冑に木村常陸介から巻き上げた羽毛の陣羽織を着込んで、柴田勝家を倣った金のおご幣の馬印を掲げてさっそうと出陣していきました
しかしながら、小牧長久手において徳川家康重臣榊原康政の軍に散々に打ち破られて逃げ帰っております
関ヶ原後の慶長7年(1602)まで存命で高名なこともあり他の戦国モノとかにも
チラチラ名前だけ出たりすることもあると思うのでゼヒ覚えてあげてください
<ネタもと>