ナツルの心情ダダモレ日記〜帰国後結婚・子育てとコロナ禍と -8ページ目

ナツルの心情ダダモレ日記〜帰国後結婚・子育てとコロナ禍と

2009/12/23スタートしてから、誰にもナイショにしてる私の解放場所です。
2013年1月、タイトル変更しましたが、中身はそのまま心情ダダモレですw
こんな人間もいるんだなと読み流していただければ。
人生一期一会、袖触れ合うも他生の縁です。

夢ってなんだったっけね。
やりたいと思ってもそれが叶わないものならば、諦めるしかないのか。

いや、すぐに芽が出るのはきっと選ばれた人達で、自分は凡人だけど、でもやっぱりそれが好きだから、一生掛けても思いは実らないかもしれない、けれど、それを続けていくしかないんだろう。

たとえそれが、結婚するとか家庭を持つとか、子供を産むとか、そんな幸せを全て捨てることになったとしても。

家庭を得た上で夢を目指し続けることは出来るだろうけれど、こうも恋愛運がないのでは、もうどうしようもない。悲しいね。

二十代から三十代、人生で一番輝く時期を浪費しながら、私は一体なにをやっているのだろう。

NY行ってるだけでもすごいと良く人は言ってくれるけれど、まだこちらで就職もしていないし、何より、人間どこでだって生活は出来るんだよ。少なくとも私は生きられる。

問題は、どこで生きているかよりも、どうやって生きているかなんだ。
とってもお久しぶりですナツルでーす。
ここに書くのはめっちゃ久しぶり!
取りあえずボチボチ生きてますw

今になってやることたくさんなんですが、ホント、こっち来る前にもっと人に聞いておけば良かった。
今の学校じゃなくて、Collageか、頑張ってUniversityに入っておけば良かった!
ビザの都合もあるけれど、今の学校で何学んだって、そうそう語れるようなものが何もない。
OPT取る為とはいえ、今になって後悔しきり。
まあ、お金がゼロ一桁違うくらい高くなっちゃうから、難しかったとはおもうけども。
それでもねー…、就活の為に今自分のポートフォリオサイトとか知り合いのサイトつくったりしてるけれど、完全独学だから、なかなか進まないのが現状。

そしてそんな状況に「果たしてこれは本当に自分やっていっていいものなのか、もっとすぐ就職できるようなものにシフトしたほうがいいんじゃないのか」っていう葛藤と戦うっていう。

こっちでの働くビザ、一応H1が一番有名だけど、これは四大出てないと取れない且つ、その時の専攻科目と仕事がイコールになっていないと出ないんですね。
↑これ重要。試験だとまずココ出るよ印。

これ知ってる人ってどんだけいるんだろうか??

って事で悩んでるのが今後の職種。

●WEBじゃなくて一般事務(国際関係)にして、WEB系の勉強は辞めてその時間を英語やスペイン語に当てて、余った時間で小説を書く。
 →これすごく魅力的。でもぶっちゃけそれだと日本にいるのとあんまり変わんない?

●とにかく今までの経験というかちょっとでも学んだものを生かしながら、なんとしてでもWEBで頑張ってみる。デザインもWEB関連もココから発生多いし。
 →小説ほとんど書けないね。そして頑張ってもそれが実になるかもわかんない。

取りあえずフタ開けてみない事にはわかんないからなあ。
学校に入り直す、とか、他のWEB系セミナー受けるとかしたいけど、お金的に無理。
フリーセミナー探して行くのが精一杯。
今も一応フリーセミナー行ってはいるけど、そこの内容の、なんと濃くまた有用なことか…!!!
いかに今の学校が本当に最悪だったかっていうことですね。
一年でOPTとSSNとれるっていうくらいしかメリットないし、行く事のデメリットもあったしね。

紹介してくれた人が学歴に興味がなく、且つ実はGカード持っててビザの苦しみを全く知らなかった、っていう事を知ったのは、こちらにきて半年以上経ってからでした…

人のせいにはしたくないけど、せめてちょっとくらいはグチ言いたい!!
だって人間だもの!!!

取りあえず両方攻めてく感じになると思いますが、そろそろ平穏に暮らしたい…安定した収入と生活が欲しい…日本でもあんなに苦労したのに、どうしてこうも私は回り道ばかりなんだろうか…


これは一個人としての意見ですので、誹謗中傷は受け兼ねます。
また、犠牲者の方々、関係各社、各者、機関等を冒涜するものでもありません。
ご了承の方のみ、ご覧ください。







これを書き始める三十分程前、ボストン爆弾犯のもう一人が捕まったそうです。
今日は一日中TVでニュースの生放送。
一般の番組は2時間ほどしかなかったんじゃないでしょうか。

とりあえず、思った事を忘れないうちにの覚え書きのようなものです。

当初言われていた「爆弾テロ」。
オバマさんもテロと断定したと、日本のメディアでも見ました。
でも、FBI等からは、「国内外のテロ組織との繋がりが不明で、事件背景がわからない」とも、ずっと言われていたのです。

その辺りから感じ始めた、違和感。
さっきもう一人、犯人である弟が捕まったと報道された際、彼の地では住民が拍手喝采、USAのコール。歓喜の叫びもありました。

確かに犯人が捕まった事は喜ばしいし、最後は誰も命を落とさずに済んだようでホッともしました。
けれど、この燻っていた違和感。

もしこれが、日本で起こっていたらどうでしょうか。
近所の人々は外に出てきて警察や機動隊に拍手喝采し、叫んだでしょうか。
答えは簡単過ぎるほど「No」だと思います。

終わって良かった、捕まって良かった、ホッとしたけれど、でも人の命が失われたことは変わりなく、また、犯人は生きているけれど、法で裁けても遺族の気持ちはどうする、この地域のみならず、こんな人間が存在してしまっている。
もっと人を疑うべきなのか、いや、疑心暗鬼の塊で日々を過ごす事は出来ない、じゃあどうすれば…。

等々、出てくると思うのです。
何よりもまずは死者を悼む。そして、何故このような事件が起こってしまったのかを考える。
もちろんそれはこちらでも変わらないでしょう。

じゃあ何に違和感があるのか。
それは、アメリカがすぐに「テロ行為」と断定したことなのです。

違和感を探るべく、テロの定義を探しました。
すんごい略して抜粋ですが、

米国の政府による定義では、 「テロリズム」 とは、 民間人を脅迫又は威圧して政府の行動等へ影響を与えることであると考えられる。」

日本の定義では、「テロリズムとは、 国家の秘密工作員又は国内外の結社、 グループが、 その政治目的の遂行上、 当事者はもとより当事者以外の周囲の人間に対してもその影響力を及ぼすべく、 非戦闘員またはこれに準ずる目標に対して計画的に行われる不法な暴力の行使をいう」

「ここで取り上げた諸国等において、テロリズムとは、 直接の暴力のみでは目的を達成できないテロリストが、 威嚇又は恐怖を植えつけることを通じて、 政府へ圧力をかけるための恐喝の一形態として使用され得るものと考えられる。」


今回の爆破行為、政治的、宗教的なものは、犯人から何も通告されていません(現時点で私が知る限り)。
チェチェンで紛争が絶えず移民してきた家族であり、また彼らも当該の宗教を持っていたそうですけれど、聖戦を謳ったとは聞いていませんし、宗教の話は受け手側からのみ出てきているように見えました。

今もTVでニュースをやっていますが、「9.11以降、初めてテロリストに勝利した事例だ」というような事を言っていましたが、その観点が違う気がするのです。
もし「新テロリズム」と呼ばれるカテゴリになるのでしたら、この違和感は無に帰しますが、もし違うなら。

この事件が当該宗教以外の人が起こしていたら、どう捉えられていたでしょうか。
「社会への存在誇示、報復」等にカテゴライズされるならまた別かもしれませんが、

「アメリカ」という思考、存在に当てはめられない=理解できない「外」の行動は全てまとめて「テロ行為」とされ、宗教的バックボーン(揺るぎない自信)を持つ「(絶対的)正義=justice」の名の下に排除される。
それは「宗教」や「思想」の違いを捉え共存の道を考える、という事なく、「(アメリカに)害を及ぼすものは排除すべき(悪=evil)である」と。

エイリアンなどに代表されるような、「異質な存在」に対して、相当な恐怖をもっている、だから考える余地もなく排除する、という気がするのです。何故それがあるかはまた別項目ですが。

また、「アメリカ」の中から無差別殺戮者が出た場合、それは「精神障害者」として端からひとまとめにされます。「mental disorder」だったかと。

有名映画の公開初日に起こった無差別殺人、母親の勤める学校へ乗り込み母親をまっさきに射殺して他の無関係な人々を殺害した挙げ句に自殺した学生、エンパイアビルの一階で元同僚を撃ち殺し、警察に射殺された男性。他にもきりがないほど凄惨な事件はありますが、自国の人間で且つ宗教も変わらない場合(もしくは特定のものでなかった場合)、テロとは呼ばれていないと思います。
そしてそれは、「個人への怨恨」か「精神障害」にされてしまう。

もし日本で起こったとしたら、「宗教的なテロ行為はちょっとないだろうし、精神障害者かもしれない。でも、特異な生い立ちがなければ、この人間を殺人に駆り立ててしまった原因てなんだろう」と。
ワイドショーでよく「生い立ち」「経緯」「何故」という文言が踊っているかと思います。

でもこの国には、それがないように見えるのです。今のところですが。
「それ」というのは、「同じ土俵で考える」というのもありますけれど、この国は一個人を尊重することが、ある意味「本質を理解しようとしていない」という側面を持っているように見えます。

ざっくり例えれば、すごいたとえですが、「緑は緑」ですが、時にそれは、「黄色」と「青」が「ある分量ずつ混ざって出来ている色」ということを理解した方がいいことも、往々にしてあります。

もちろんそれが全てではないですけれど、「自国に何か間違いがあるのでは。まず自省して、改めるべき点があるなら改めよう」という見方を、絶対にしない。出さない。
それは「一国家」の自浄作用としては忌避すべき危機的状況なのではないでしょうか。

落ち度のない「絶対正義の勝利」を積み重ねる事で、「自己の正当化」をはかっているように見える。
それが多分、今感じている違和感の正体(の一面)であり、恐怖にも思えるのです。

「自らも他からすれば異質」であることを知り、地球という同じ土俵で共存していく。そうできたらと思います。
今は「異質なものはわからなくて怖い。自分にとって脅威となる存在かもしれない。相手を認めながら知るという行為は、足下を救われるかもしれない。危険を伴う。ならば、自分が全部手中に収めて実質支配してしまえばいい。それなら怖いものなどなくなる。それに、絶対正義の正当性も補強できる」

この国は、対等な相手など求めていないのかもしれない。
それは国の若さなのか、どうなのか。

今この国にいるのだから、出来うる限り、見て、聞いて、感じ、考えていきたいです。