クーラウの庭の干し草変奏曲を録音した。

全音楽譜出版社の『演奏会用フルート名曲集 ゴールデン・エージ 2(マルセル・モイーズ 編/高橋利夫 監修)』に選ばれている。

アイルランド民謡「庭の千草」による変奏曲 Op. 105
Variations sur l'ari favori Irlandais; The Last Rose of Summer
Variations sur un theme irlandais,Op. 105 "The Last Rose of Summer"

フリードリヒ・クーラウ 作曲
Composed by Friedrich Kuhlau

全曲を通して聴くには、再生リストから。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLfFfASVQuagqPGHrFQF09J5IoB6Fe1AWr

全曲を録音して、あらためて通して聴き、テンポが気に入らなかったので、主題と終結部は撮り直した。

主題部分



第2変奏(モイーズはこの変奏曲でカットをしている。原曲では第4変奏)


第4変奏(原曲では第6変奏)


Coda: Scherzando - Adagio - Allegretto vivace


クーラウについて、日本では、ピアノ学習者に名前がよく知られているのではないだろうか。全音楽譜出版社の『ソナチネ アルバム1&2』の冒頭に作品が収められているからである。ソナチネは、ソナタを簡略した形式の音楽で、この作品集は、ピアノ初級者のためにつくられた。第1巻には、作品20(第1番~3番)と作品55(第1番~3番)、第2巻には、作品55作品(第4番~6番)と88では4曲のうち2曲(第1番、第2番)が選ばれている。

この作品集の作曲家について、「1813年王室管弦楽団のフルート奏者になり」と書かれており、英語版Wikipediaには、「クーラウ自身はフルートの演奏ができなかったにもかかわらず、彼の生涯にわたる作曲の多くはフルートのためのものだった」と書かれていて矛盾する。

Many of Kuhlau's compositions throughout his life were for the flute, though he himself did not play the instrument.

そこで、クーラウについて、調べてみた。

International Friedrich Kuhlau Society(IFKS)による信頼できそうなWebサイトがあり、クーラウは、デンマークでは音楽史的に重要な人物と考えられていて、デンマーク語でのWikipediaでは、日本語のページよりも比較にならないほど充実している。これらを元に、フルーティスト向けに略歴を書いてみた。

フリードリヒ・クーラウ(Daniel Friedrich Rudolph Kuhlau 1786年9月11日 - 1832年3月12日)は、ドイツ出身でデンマークに移住したピアニスト、作曲家。ベートーヴェン(1770-1827)と同時代の音楽家である。

クーラウは、1786年、ドイツのニーダーザクセン州のユルツェン地区(ハノーファ)で生まれた。父はハノーファの軍のオーボエ奏者で音楽を教えてもいた。貧しい家庭に育った。9歳の時に転倒によって右目を失ったが、その直後の苦しい時期に、ピアノに取り組んだことが、フリードリヒに音楽の才能があることを、両親が気づくきっかけになった。作曲家の才能は、少年時代に、フルートを愛する薬草学者からレーズンとアーモンドを手に入れるために、フルートのための小品を書いたことで示されたという。

1800年か1801年にハンブルクに引っ越しして、クリスティアン・フリードリヒ・ゴットリープ・シュヴェンケ(Christian Friedrich Gottlieb Schwencke 1767- 1822年)に音楽を学んだ。シュヴェンケは、大バッハの息子である、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの跡を継いで、ヨハネウムのカントル、教会音楽指導者、ハンブルクの音楽監督に就任した。シュヴェンケの指導下で、厳格な音楽理論を学びながら、フルートを含む幾つかの楽器に取り組んだ。その中で、ピアノ演奏が特に優れていたという。1808-9年の冬にピアノ独奏者として公で演奏し、1810年5月に、作品1~作品3ピアノのためのロンド(3 RONDOS für Klavier)がライプツィヒで出版された。

クーラウは1810年暮れに、ハンブルクからデンマークのコペンハーゲンに移住した。クーラウ自身はこれを演奏旅行と定義付けていたが、一般的に亡命と言われている。それは、甥クーラウの証言で、「カスパール・マイヤー」という偽名を使っていたからである。亡命の理由は、徴兵の名簿に自分の名前があることに気がつき、徴兵を逃れるためだった。移住直後に身を隠した後、1811年1月に王室のために演奏会をするなど、音楽活動を再開し、1813年、王室の室内楽奏者の称号を与えられ、デンマークに帰化した。デンマーク語版Wikipediaによれば、「フルート奏者」としての室内楽奏者というのは間違いであり、クーラウ自身はフルートを上手に演奏できなかったという。

デンマークでの最初の数年は経済的に困窮しながら、音楽理論と作曲を教えて、ピアノ演奏とフルート作品の出版で生活を支えた。当時、フルートは流行していたので、求めに応じてフルート作品を作り、経済に役立ったという。ピアノ作品や歌曲、室内楽など、127まである作品番号の内、フルートが関係するのは、30ある。生前、クーラウはベートーヴェンと作風が似ていたことから「フルートのベートーヴェン」と呼ばれた。クーラウは、ベートーヴェンを尊敬し、1825年の旅行で、ベートーヴェンに会うことができた。ベートーヴェンの生前の関係者からの証言を元に書かれたことで知られる、『ベートーヴェンの生涯 アレグザンダー・セイヤー著』(Thayer's Life of Beethoven, Revised and Edited by Elliot Forbes Volume II, Princeton Paperbacks)には、1825年9月3日にベートーヴェンが、クーラウに宛てた手紙と共に、ピアノ奏者や楽譜出版社などと一緒に、昼からレストランでシャンパンを何本も開けて、ベートーヴェンの宿では赤ワインを楽しんだことが記されている。手紙には、「昨日の飲み過ぎたシャンパンで頭が痛い」と書かれている。難聴のベートーヴェンが筆談に使った会話帳には、クーラウの名前を元にしたカノンが書かれた。当時、ベートーヴェンは、ウィーン郊外の温泉地、バーデンで湯治滞在をしていた。

オペラ作曲家としてのクーラウは、1814年に歌劇『盗賊の城』(Røverborgen)が成功した。1828年に初めて上演されたエルヴェルホイ(Elverhøj)は、ヨハン・ルートヴィヒ・ハイベルク(1791 - 1860)の台本で作曲されて、1900年頃までに1000回以上、上演されるほどのデンマークの国民的演劇になった。

1814年までに両親をコペンハーゲンの呼び寄せていたが、1830年に両親を立て続けに亡くし、クーラウ自身も体調が良くなかった。1831年、クーラウの家は延焼による火事で全焼し、多くの未発表作品と共に、直筆原稿、長年かけて作り上げた『ゲネラルバス教程』も失われた。火災を逃れた際に寒い外に長時間いたことから体調がますます悪くなり生死をさまよった。病院から退院するほどまで回復したが、1832年3月12日に亡くなった。最後の作品は、亡くなる前の年の秋に書かれた、唯一の弦楽四重奏曲 イ短調 作品122だった。




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