映画「死ねばいいのに」を観た。

https://shinebaiinoni-movie.com/

 

 人の本音はどこにあるのか。それは誰もが自覚しているのか。自分の行動の本当の動機を人は説明できるのか。

 日常生活で考えてもみないこれらの疑問を、奈緒が演じる渡会映子(わたらいえいこ)が、死んだ鹿島亜佐美の関係者に、次々と突きつけていく。そういう核心を突く疑問は、ビジネスでは役に立つが、人間関係では避けられる。踏み込んではいけない個人的な領域だからだ。

 だからそんな質問をされた側は、攻撃されたと受け止めるはずだ。実際に映子から質問を受けた関係者は、悉く(ことごとく)警戒し、反発し、あるいは反撃を試みる。隠していた心の部屋をこじ開けられて、土足で踏み込まれたようなものだから、当然の反応である。

 映子はおそらくそんなふうに生きてきて、誰からも遠ざけられるようになったのだろう。人から嫌われることも、暴力を振るわれることも恐れない、稀有な生き方である。孤独に耐えられるタフな精神性がそんな生き方を支え続けてきたわけだ。

 

 ある意味それは、映子にとってゲームでもあったに違いない。行動の動機や本音に関する質問をして、心の中に踏み込まれたときの反応を見る。予想通りの反応をすれば満足する。本作品では、倫理的な質問が効果的なやつには浮気を責め、体育会の先輩にはいじめを責め、男らしさや侠気(おとこぎ)にこだわるやつには、女を守ってやれなかったことを責めればいい。母親は、母親の役割を果たさなかったことを責めるしかないが、母親であることを放棄している女には、責める手立てがなかった。

 

 そして母親と同様、娘の亜佐美にも、映子の質問は通用しなかった。亜佐美には世間的な基準がない。いじめられても虐待されても、便利に弄ばれても、もの扱いで人格を蹂躙されても、それを不幸と思わない。恨むことも蔑むこともせず、相手をひたすら肯定する。変な言い方をすれば、最強の精神性だ。

 しかし映子にはそれが許せない。酷い目に遭ったら恨むべきだし、できることなら復讐するべきだ。やられっぱなしで、ヘラヘラ笑って、自分は幸せだなんて、頭がおかしすぎる。このあたりの映子の気持ちは、三島由紀夫の「金閣寺」の主人公に似ている。

 映子にとって亜佐美は金閣であった。誰も責めない、誰も恨まない、ただ自足している人間なんて、幻想でしかない。幻は消え去らねばならない。映子の行動は、ある意味で必然だった。非常に文学的な展開である。

 

 映子を演じた奈緒は見事だったが、亜佐美の孤高の精神性を表現してみせた伊東蒼が素晴らしい。「死ねばいいのに」という言葉を浴びせられたとき、ほかの誰とも異なる前向きで幸せそうな反応を見せる。女優の真骨頂を観ることができた気がする。