映画「世界一不運なお針子の人生最悪な1日」を観た。

https://synca.jp/ohariko/

 

 登場する現金ケースは、やや小さめではあるが、日本円だと1億円が入るくらいの大きさである。100スイスフランは約20,000円だから、およそ2億円は入っている計算になる。スイスの物価が日本の2倍だとしても、1億円くらいの価値がある訳だ。

 これは女神の贈り物か、はたまた悪魔の試練か。近くにはバイク2台と男二人が倒れていて、どう考えても尋常な状況ではない。そんな状況に鉢合わせしたのが、母を亡くして間もない天涯孤独のお針子バーバラである。

 設定そのものに位置エネルギーがあって、どう転ぶかわからない。誰もが、自分ならどうするかを考えながら鑑賞することになる。さて、バーバラの決断は如何に。

 

 途中までは一本道だったが、そこからの展開に、優れたアイデアが感じられた。25歳の若い監督は、脚本も演出も才気煥発だ。人生は上手くいかないものだという老成した世界観を、若い女の子の選択に委ねる。面白かった。

 映画「無明の橋」を観た。

https://mumyonohashi.com/

 

「無明(むみょう)」という言葉は「摩訶般若波羅蜜多心経」にも出てくる仏教用語だ。字のままで、開眼できていないことを示している。

 本作品の「無明の橋」とは、布橋灌頂会の儀式で彼岸に渡り、此岸に戻ってくることで心を目覚めさせるという意味だろう。実際に儀式だけで悟りを開くことはないが、ある種の慰めにはなる。

 本作品は仏教の儀式を題材にしてはいるが、テーマは仏教ではなく、人間関係と救いだ。儀式を通じて顔見知りになった者同士の淡い関係性を描く。暗くて淋しい作品だが、そこはかとないあたたかさと希望が感じられる。儀式も含めて、人を救うのは、やはり人だけなのだろう。

 

 渡辺真起子は、幼い子供を亡くして心の傷を抱えて生きる中年女性を、たおやかに淑やかに演じきった。脇役の多い女優さんだが、本作品では見事に主人公の心模様を表現したと思う。

 映画「星と月は天の穴」を観た。

https://happinet-phantom.com/hoshitsuki_film/

 

 女性の立場がいまよりももっと弱い時代の話である。弱いから逆にづけづけと物を言う。女にも意見があり、主体性があることを常に示し続けなければ、つけこまれるのだ。男はそんな女性に対して、体だけでなく心も支配しようとする。

 駆け引きを繰り返しながらも、その虚しさに煙草を吸い、時間をうっちゃっていく。そんな中で次第に人生のやるせなさが浮かび上がってくる。吉行淳之介の世界観が十分表現できていると思う。

 綾野剛は凄かった。食欲と性欲。自分の欲望に正直ながら、突き放して眺めてもいる大人の男を、自信たっぷりに演じてみせた。主人公は小説家だから、世界を観察し、分析し、その本質を描く。自分自身も例外ではない。つまり自分の人生も俯瞰しているところがある。要するに斜に構えているのだ。

 そんなふうに自分自身とも一線を画しているところが、女性には大人の余裕に見えるのだろう。やたらにモテる。そして女性の気持ちを知っていながら、わからないフリをする。自分のコンフォートゾーンを守り、近寄らせない。それは男の弱さだが、それも自覚している。なんとも淋しい人生だが、人生はもともと淋しいものだ。ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。

 

 とても粋な物語だった。

 映画「プラハの春 不屈のラジオ報道」を観た。

https://pragueradiomovie.com/

 

 面白かった。史実としても興味深いし、物語としても起承転結がしっかりしていて、とても見応えがあった。

 

 両親を亡くして、ひたすら弟を心配する平凡な主人公トマーシュ。チェコスロバキアはソ連邦の一国として、共産党独裁の中央集権体制に飲み込まれ、ソ連と同じように秘密警察が反体制分子を狩る。多くの人間が処刑されていることはトマーシュも知っているから、体制に反旗を翻す行動は、恐ろしくてできない。もちろん弟にもやってほしくない。臆病かもしれないが、安全に生きるのだ。

 そんな平凡な人間だったトマーシュが、偶然ではあるがラジオ局に採用されたところから、物語が進んでいく。歴史的なうねりの中で、権力に追い詰められたり騙されたりしながら、トマーシュは言論の自由に目覚め、公明正大で勇気がある上司の下、ラジオ放送の一員として、為すべきことを実行する知恵と度胸を獲得していく。

 

 とてもサスペンスフルな展開だが、登場人物が覚悟を決めて落ち着いた行動をするので、物語が逸脱することはない。どこまでもラジオ放送によって自由を訴え、弾圧を非難する。言論以外の手段を攻撃に使うことはないから、銃を構えた兵士の前では無力だ。

 当時のソ連の書記長ブレジネフは、スターリンと同様に独裁政治を敷いていた。ドゥプチェクが実施したプラハの春に対して、ワルシャワ条約機構に属する軍隊を派遣し、暴力で言論を封じた。プラハの春は半年も保たなかったが、人々の心には、言論の自由が深く植え付けられたはずだ。決して無駄な運動ではなかったし、失敗とも言えないと思う。

 

 諦めて戦わない人間に、戦う人間のことを嗤う資格はない。当時のプラハの人々は、実に立派だったと思う。

 映画「The end」を観た。

https://cinema.starcat.co.jp/theend/

 

 2012年製作の「アクト・オブ・キリング」を鑑賞したときは、ジョシュア・オッペンハイマー監督は、生々しいリアルを表現すればそれがすなわち面白さなのだと考えているのではないかと思った。

 本作品はティルダ・スウィントンが共同プロデュースで、それなりに期待はしていたのだが、オッペンハイマー監督らしく、面白さとは無縁だった。

 

 世界が終わって数人だけが残されたとき、各人がそれまで背負っていた罪悪感や劣等複合やバイアスを封印して、ひたすら互いを肯定し合うことで、平和で穏便な関係性を維持してきた。

 なにゆえに生き延びねばならないのか、誰が生き延びるべきで、誰が生き延びるべきでないのか。その取捨選択は、罪悪感を生むから、封印されている。共同体は守らねばならない。仮想の敵の存在が共同体の結束力を生む。

 ところがそこに若い黒人女性が登場し、トリックスターの役割を果たす。すると少人数の共同体はたちまちバランスを崩してしまう。肯定は否定に代わり、建前に本音が交じるようになる。

 全員が本音を叫び始めると、ホッブズの「リヴァイアサン」よろしく、万人の万人に対する戦いが勃発しそうになるが、その寸前に、自らを生贄にしたような出来事があって、小さな共同体は再び欺瞞を構築し、平和を取り戻したように見える。しかしそれが薄氷の上に浮かび上がった幻影に過ぎないことは、誰もが承知していた。

 人類は価値を創造し、感性を磨いたつもりになって、それを称賛し、あるいは称賛されることで自信を持ち、それぞれの人生を生きてきたが、実はすべて何の根拠もなく、何の意味もないことだった。しかしそれは言わない約束だ。

 

 そんなふうな作品だった。エンターテインメントを期待する人には向いていない。が、おそらく演出だと思われるヘタウマな歌と共に、不思議に印象に残る映画である。