映画「決断するとき」を観た。
https://eiga.com/movie/101112/
原題は「Small Things Like These」で、直訳すると「これらの些細なこと」となる。小説の邦題は「ほんのささやかなこと」(鴻巣友季子:訳)だ。このタイトルは、立場によって出来事の重みが異なることを表現していると思う。
修道院に少女たちを集めてタコ部屋の強制労働まがいの搾取をしていたカトリック教会。軟禁されていた少女たちにとっては人権侵害だが、無関係の庶民にとっては対岸の火事だ。下手に首を突っ込むと自分に火の粉が飛んでくる。だから、些細なことなのだ、何も問題はないのだと自分を納得させる。
しかしそれは間違っているのではないかと、主人公ビル・ファーロングは思う。そこでビルの少年時代のシーンに移る。ビルは母子家庭で、母のサラには恋人のネッドがいる。しかしサラはわずか25歳で病気で亡くなってしまう(年齢は墓碑の映像から推定)。天涯孤独になったビルをずっと支えてくれたのはウィルソン夫人とネッドだ。
修道院で助けてくれと訴えてきた少女。その訴えは修道院から咎められて、後日ビルが開けた石炭小屋に閉じ込められていた。ビルは彼女を立たせて、修道院の建物に連れて行く。すると修道院長から、妻のアイリーンに渡してと、口止め料まがいの現金を渡される。受け取りなさいという命令。教会の支配力は圧倒的で、ビルは忸怩たる思いを抑え込みつつ、受け取る。
しかし助けてやれなかった後ろめたさがビルを駆り立て、少女に自己紹介し、名前を聞くと、サラだと言う。母と同じ名前だ。ビルはかつてウィルソン夫人やネッドが自分を助けてくれたように、自分もサラを助けるべきではないかと悩みはじめる。妻や知人からは、修道院に逆らわないようにと諭されるが、それではサラは救われない。ビルの悩みは、観客の悩みとなる。ビルはどう決断するのか。
宗教は人間を死の恐怖から解放し、心の平安をもたらすことで共同体の安寧に役立っているが、宗教団体が出来ると、途端に権威を帯びはじめ、そして権力を持つようになる。なにせ後ろには神がいる。神を大義名分にすれば、どんな無理難題でもゴリ押しすることが出来る。宗教と宗教団体は別物だが、宗教団体としてはそこに気づかれると困る。だからそれを指摘する人間を異端者として弾圧する。
本作品は1985年が舞台だ。鑑賞した人はそんなに最近の話だったのかと驚くかもしれない。しかし本当に驚くのは、宗教団体の本質が、現在においてもまったく変わっていないことだ。弱い人が搾取され、人権を蹂躙される。宗教と宗教団体が別であることを主張する知識人は、弾圧され、場合によっては拘束、処刑される。いまだにそういう時代なのである。日本も近い内にそうなる予感がする。
名優キリアン・マーフィーが「オッペンハイマー」での演技に勝るとも劣らない、迫真の名演を披露している。原作に惚れ込んだマーフィーがみずからプロデュースした作品とあれば、それも頷ける。人権が蹂躙されることに敏感な人なのだろう。




