はじめての月命日を迎えた朝、

なつみにおはようのあいさつをして

りんごを1個あげた。





りんごはなつみとなにかと縁のあるフルーツだ。いや、りんごが使いやすいフルーツなだけかもしれないけど、わたしにとっては、なつみを想起するフルーツはりんごだけなのでなにしろ特別なのである。



水分補液のソリタは青りんごの香りがしたし、微量ミネラルを補うテゾンは赤りんごの香りが強かった。(それはもう強い、金属のにおいを打ち消すりんご香料パワー…りんごは偉大)


なつみにあげた初めてのフルーツもりんごだった。りんごを半分に切ってお見送りのお柩のなかにおやつとして入れてあげたのだ。(なぜ半分に切ったのかはまた別の機会に)



 






なつみが命をまっとうしたのが9月19日。


10月14日には16回目の月誕生日を迎え、

10月19日に、はじめての月命日を迎えた。




なつみが心臓の鼓動を止めてから30日が過ぎただなんて。変なの。不思議だな。


それを信じるとか信じないとかではなく、なんとも不思議なかんじがしているのだ。



なつみがすべての肉体的な束縛から解放されて家に帰ってきたこと、お別れ会をして送り出した日のことはもうすでに遠く過ぎ去り、まるで何年も前の出来事だったような気がする。


その一方で、いまでも病院に行けば、あのインターホンを押して扉を開けてもらえれば、奥のベッドになつみがいて、来たよにゃんつー!と話しかけられるような気がしてならない。








どこにいてもどっちつかずの気持ち。



なつみがいなくなったと感じてさみしくなってしまったり、かと思うと、なつみがいない感じがちっともしなくて何ともなかったり。





夢の中のような、夢から覚めたような。

もう1ヶ月。まだ1ヶ月。












生者を主体とするならば、月日は止まることなく目の前を過ぎ去るもの。芭蕉はこれを旅になぞらえて百代の過客と表現した。



行き交う人もまた旅人。

船頭さんも、馬の口引きも、コンビニ店員さんも、旅人。


そぞろ神と道祖神がタッグを組んでちょっと出かけようよとわたしたちを誘い、旅への渇望がわきたち止められない。


漂泊の思いとまではいかないけれど、どこかへ行きたくて、なつみを連れて家族旅行と称して、ここのところ週末は遠出ばかりしている。






はじめての月命日が過ぎた。

つぎは四十九日か。

今したいことをしよう。


なつみとしたいことを、

なつみにしてあげたいことを

気がすむまでしよう。






月命日の日には、悔しくて涙もしたのだけど、それもまたあとで。