今朝未明までの春の嵐は通り過ぎ、随分と空が明るくなってきました。
あと1時間もすればお日様が現れる予報。
…うーん、それにしても、暑い^^;
今日は最高21℃になるとか。
本当は今すぐにでも半袖になりたいんだけど
ただいま定期受診に向かうバスの中。
花粉症もあって花粉予防(着きにくい?らしい)の薄手の上着が脱げないので汗をかきつつ書いてます。

最近はAmebloもブロ友さんやフォローしてる方の読み専門で、
自分で書く気がしないというか必要が無いような、
まあ出掛けることも体調のせいもあり輪をかけて少なくなって
刺激が少ないのもあり、書くことが無いみたいな…苦笑。

たぶん思うに、書く必要が無くなったのかもしれません。

そもそもブログを始めたのは、
自己開示をして自らを見つめ直し、思いや感情を文字にして
自己理解するために始めたのが理由でした。
それはひとりで付ける日記帳では出来ない事でした。

人と群れることが出来ない私が、それでも心の内を誰かに認識してもらい、時に受け取って貰えて、
見守って貰える。
人と距離の遠い私でも、人とのふれあいが必要だということを気付かされました。

愛着障害は、生まれてから生後2年くらいまでに主たる養育者(多くは母親)との愛着関係を築けず、基本的信頼感が得られない為に起こります。
つまり、愛着ある親子関係を築けた場合、
幼児が知らない人と「お母さん(またはお父さんなど)がいるから、大丈夫」という、他者から存在を認められる事で自分の生存確認をしながら成長していける。
つまり人見知りは、親との愛着関係が成立していないと起こらない。

では、愛着障害の人がどうやってその「知らない人」や「知らない世界(社会)」で生きていくのか?
誰も守ってくれる人がいない(信頼出来る人がいない)子供が生きていくには、
何とかしてその場に留まるしか無いのです。
できる限りの「怖いこと」を、自分なりに避けて我慢して生きてゆきます。
最初から絶望しているのです。というか、失う物なんて初めから無い。
そうやって、愛着障害の子は
自己学習により「倫理規範、社会規範」を作って生き残っていきます。
別にどうしても生きたいから頑張ってるんじゃなくて、
「生きなければいけない」「家族や誰かにに迷惑がかかる」という理由で、自らを「生きさせて」いるに過ぎないのです。

愛着障害の子は、親に身体的暴力や性的などを受けていなくても、その子の心は深い傷があります。
たとえ他者に虐待だと認識されていなくても、
大人になっても、親になったとしても。

私にもその傷はあるのだけど、
その古い傷を切り開き、膿を出し、キレイな水で洗って、
今キレイに塞がっているのだと感じています。
この傷の治療が
SNSやブログでの治療(セルフカウンセリング)でした。
今は痛くも無いけれど、その傷の痛さは知っています。
それはブロ友さんの記事であったり、映画やドラマなどの創作した物でも同じ、痛みのフラッシュバックの様にとても痛くなる様な感覚があります。

でも、それは「共感」でもあります。
私も私の傷を共感してくださる方がいたからこそ、それに大きな癒しの力をいただきました。

本当にありがとうございます。
感謝しています。

とりあえず、セルフカウンセリングとしてのブログは
これにて完結ということで良いかと思います。
と言いながら、また必要があれば再開になるかもですが。

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これを道中書いていましたが、今クリニックに到着しました。
雨も上がり青空が広がっています。
クリニックの玄関横には1本の桜の木があり、
なんと5輪の花が見事に開いていました🌸





私も小さく開くかな、心の花。
なんか今日は晴れ晴れした気分です。

今後は普通の日常を書くことになるかな。
良かったらまた見に来てください。


読んでくれて
ありがとう♡