湧いてくるのよ。

あれも書こう、これも書こうって。 

出したいものは出してしまえ!!

次々行きます。


キャピキャピの思春期💕と真逆の
中学、高校編。 

…長いです(^_^;)

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自分が何者かわからなくて
どこにいても私がいる場所は無くて
なぜ私がこの世に生まれ落とされたのかが
ずっとわからなかった。
探して探して
やっぱりそこに私の居場所は無くて
放浪の旅を彷徨いました。

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◆思春期
◎中学生
小学6年生の時の「班会議のトラウマ」は
  (→自分の居場所①をご覧下さい)
感情の抑圧と解離により抑え込んではいたけれど、
そこは田舎の公立中学。
そのメンバーもそっくり持ち上がりで同じ中学に通う。
通学に使う道は違ったけど、そのメンバーの1人は自宅のすぐ近く。
顔を合わさない日はなかった。 
でも、そんなに苦しくも無かった。
あのことは嫌すぎて、無意識に思い出さないように封印したんだと思う。
それに1学年の生徒数は小学校の時の5倍以上に膨れ上がったから、それも良かったのかも知れない。
※大勢いたら濃度が薄くなる…みたいな(笑)

中学では一匹狼タイプだった。
1学年200人もいたら、1人でいたってそう目立ちはしない。
私は人とは違うんだな?という自覚はあったし、別に寂しくもなかった。
口をきかないわけじゃなく、アンドロイド着ぐるみのまま、誰かと特別仲良くすることもなく、適当に周りに合わせていた。

兄が高校に入り、親にフォークギターを買ってもらった。
  ※母は私には金が無いとボヤいていたの
  に。
それまでの、どこかからもらってきた古いガットギターをお下がりにくれたので
独学で私もギターを始めた。
田舎の古い家だけど隣は遠いし、
親は共働きだったから、家に早く帰って夢中で練習した。
ギターをひいて歌っている時が、唯一、余分な事を忘れられる時間だった。

学校でも文化祭の時には弾き語りをした。
唯一、自分が表現出来るものだった。
この頃、うっすらと
そうゆう世界(フォーク歌手になること)に行きたいなぁ…と思った。

でも
それを叶える方法もわからないし、度胸もなかったし
何より自己否定感と不全感で
私なんかそんなものになれるワケが無い。
父親も、兄が趣味を持つことには賛成してギターを買ってやったりするけれど
「女は女らしく結婚して子供を産め」という考えだったから
許されるハズもない。
そもそも、そんな夢など追いかけてたら
自活出来ないし家も出られない。
夢なんてただの幻想だ。そんなものは持たないほうがいい。
そう思っていた。

その頃作った歌の歌詞は
「あぁ、出来るならば何の戸惑いもなく、自由にこの空を飛んでゆきたい」(一部)だった。
※でも結局、絶望して諦めるって内容。
どんだけ人生諦めてるんだ中学で^^;

中学時代は、自我をガンガンに固めながら、ずっと同級生達を遠くから眺めてた。
出来事の記憶は
「なんだかんだあった過去」番外編・本当の強さって?』にも書いた
「体育祭おやつ事件」くらいだった。
※すみません、後で読んでみてね^^;
他の事はやはり、記憶がない。
  ※アンドロイドのままだったんだもの。
  その場で生きてる感じなんかやっぱ
  無かった。
教師ってヤツは本当に信用ならないと思った。
本当に子供の事をに思い、指導してくれる教師なんかいるわけがない。
と思っていた。
※だから、き○パチ先生なんて大嫌いだった^^;

ますます教師や周りの大人達への不信感は募っていった。
それに伴い
年を重ねるたびに
私のアンドロイド気ぐるみは
超強力な防衛力を増大させてゆくのであった。
※アンドロイドの意味は過去記事を読んでね^^;

◆進路
家は相変わらずで両親は必ずケンカ。
母の愚痴聞き。父の、親戚の、職場の人の悪口を、母の甘え声を合図に聞き続けなければならなかった。
ちゃんと同意しなければならない。
じゃないととんでもなく怒り泣きわめくから。
早く家を出たかった。
家に出来るだけ帰りたくはなかった。

かといってグレる選択肢は無かった。
田舎でグレるには、場所がない。
仲間が必要で
私には仲間なんて要らなかった。

中学3年
高校は金の無いウチでも公立なら行かせてくれるという。
3つ上の兄は大学に行く。
結局、私立は2箇所落ちたので、受かった国立に行くことになったが、浪人してでも私立に行きたいと言った。
流石に浪人までは許して貰えなかった。

※この事を去年両親が他界した時に、恨みを込めて文句を言っていた。
「俺は私学に行かせて貰えなかったから、まともな企業に就職も出来ず、今こんな不幸になったんだ!」間もなく還暦の兄が怒っていた。
どんだけ甘やかされて育ったのだ…兄よ…。

とにかく早く実家を出たい。
働いて、自分で全ての生活が成り立つ仕事
を出来るだけ早期に始めたい。
でも中卒じゃ収入に限度がある。
僅かな収入で働きながら学校に行く根性も無い。

そこで
高卒で即就職出来る、
公立高校の衛生看護科を選択。
在学中に准看護師免許を取って
フルタイムで就職して働けば自分で食べていけると思った。
看護師になることを思いついたのは、
幼児期に呼吸器が弱かった為に時々行っていた、田舎の診療所の看護婦さんが
唯一優しく名前を呼んでくれた事を覚えていたからかも知れない。

でもその時はそんな意識はなく、
ただ早く家を出たい一心だった。

◆高校
公立高校の衛生看護科に合格し、
資格試験の為の勉強と、軽音楽部でのバンド活動に明け暮れた。
通学は電車に乗っても1時間半かかったけど、それで良かった。
朝6時には家を出て、軽音楽部の朝練をして
帰りは部活をして、夜7時過ぎだった。
家にいる時間が少なければそれで良かった。勉強を口実に、母の機嫌がマシなときは、愚痴聞きを免除された。

高校でもバンド活動でも
青春を謳歌していたわけではなく
音楽の世界に没頭して、現実から逃げていたのだと思う。
クラブのメンバーや同級生との間には
いつも距離があった。
表面上は笑っていたけど、私の心は弾みはしなかった。
ここでも私の居場所は無かった。

やがて准看護師免許を取得。
  ※当時は看護師ではなく看護婦という
  名称でした。
大学病院に就職し、看護師寮に入ることになった。
正看護師になるべく、大学附属の看護学校に通うことが就職の条件だった。
念願の家を離れる生活が始まる。

※それにしても、よく母が家を出る事を許してくれたと思ったが、ワナも待っていた。
それはまた後ほど。


もう私は自由なのだ!
行けば私の居場所がきっとあるハズ。
と思っていた。


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班会議のトラウマは
表面には現れなかったけど
アンドロイド着ぐるみの奥の奥には
大きく鎮座していた事に
これを書きながら気づきました。


今日も読んでくれて
ありがとう♡