「淡交別冊48 茶の湯と禅」 | ひめぴょんのブログ

ひめぴょんのブログ

岩国在住です。ここでの生活の中での楽しみをご紹介できたらと思っています。せっかくなので、行こうと計画中のイベント情報などもupすることにしてみました。

「淡交別冊48 茶の湯と禅」

茶の湯と禅の関りに関して深掘りする本。坐禅会に参加したり、臨済宗のお寺の法話会に参加したりという経験の後、茶道を始めたので、知っている事柄も多かったですが、それらを確認しながら読むのは勉強になって良かったです。茶道ではその内部にある精神性を学びたい。そのために型があると思う。以下は文中引用とミニ感想。

茶道はあらゆる宗教の実践の場。

禅は「無の宗教」。我(エゴ)を抑え、自分が空っぽになる。

瑞巌老子が千玄室が跡を継ぐときに伝えたこと「言葉に気をつけろ。口から出た言葉は、4頭立ての馬車で追いかけても追いつかんぞ」。→口から出た言葉はその場耳にする相手によってとらえ方が異なり、自分の思ったようには伝わらないことも多いです。

自分のおかれた場所や環境の中で精一杯行動ができるのならば、どこにあっても、どんな境遇に出会っても慌てふためくことはない。→何事に対しても心落ち着けて対応できるようでありたい。そうすることで自分の力を出し切ることができる。

「互換機鋒看子細(ごかんのきほうしさいにみよ)」「看」は心の眼をもって看る。正しい眼で看る。→住職さんが言っていたなあ と思い出します。

点前の三要素:位置の決定、順序、動作。

臘八接心(ろうはつせっしん)釈迦の追体験ともいえる厳しい修行。それにちなんだ茶会を催すというのも、禅との関連を感じる。

立松和平さんのエッセイ:心というのは実はどこにもない。人間はとても無心とは言えないから、すべての現象はそれぞれの前でそれぞれが違った姿を見せる。人間がどう思おうと、どのように感じようと、人間の行動を規定する善悪を超えてそこに現象として存在する。そういう目で見るとこの世は美しい。

禅の食礼。禅での食事は仏道修行を成就するためであり、職も修行のうち。食物が持つ味を生かすように、清潔に、手順よく。

十牛図について:煩悩即菩薩。迷えるがゆえに悟れる。