「生物学者と仏教学者七つの対論 (ウェッジ選書 37)」 | ひめぴょんのブログ

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「生物学者と仏教学者七つの対論 (ウェッジ選書 37)」

科学者と宗教者の対論・対談。科学を基盤にした仕事をしつつ、禅に興味を持っている私には興味深い本でした。科学と宗教(仏教以外についても言及)の過去・現在。未来を考える本。根に共通点がある気もします。

以下は文中引用。

「機械」は人間が計画し、ある目的を持って作られるものであるのに対して、生物には目的などない。

キリスト教、イスラム教のように天地創造を考える宗教ではすべては神の思いの反映。したがって、その外部世界の構造を解明することは、神の意思を確認すること。キリスト教社会の中から近代科学が生まれてきた理由はここにある。

欧米の文化・思想の根底には人間を特別扱いするという考え方が根強い。→対照的なのはすべての命が尊いし、万物に神が宿るという考え方の日本の仏教。

生物とは安定な状態。安定なシステムにはバランスが必要。ふたつの異なった方向に引っ張り合う力が釣り合う、というのが考えやすい方法。二つの方向は生と死かもしれない。→ここだけを取り出して読むと分かりにくいと思いますが、本の文脈の中で読むと納得。

死の予測に怯え苦しみながらも、その重圧に耐えることで、「人ならではの尊厳」を維持していく。

釈迦の仏教は死後の完全消滅。すなわち涅槃を認める。超越存在による救済を認めない。

数学は論理的構造だけを考えるので、その構造が実在しているかどうかは問わない。数学の論理構造は人間が考え出したものでありながら、ある意味で宇宙を超えていると言えるのかもしれない。

絶対者が存在する宗教には信仰を試す課題・試練・禁則(世俗の合理性は必要ない)がある。その見返りに死後の幸福がある。そして、時には命と引き換えに守ることさえ要求される(殉教)。

釈迦の仏教は絶対者の存在を認めない宗教。そこに存在するのは因果の法則。

解明できない現象、語り得ぬものに対しては沈黙すべきという自然科学の態度、論理では捕まえることができない広大な領域があることを認めるという態度は釈迦の仏教でも見られる。

科学者とは「物質世界の根底にある真理を知りたい」と願って、やりたいと思ったことをひたすらにやり抜く人たち。他人の役に立つとか、社会的に有益だとか、そういった損得事ではなく。そういう生き方は仏教の修行者と同一線上にある。→そういう点では芸術家も類似していると思いました。

われわれが知っている論理構造ではとらえることができない自然現象が多い。物事にはつねに限界が存在する。世界そのものが神秘。謙虚でなければならない。

真の科学性とは論理性。「数字を使う」「実験で確かめる」「機械で処理する」といった手段は本質ではない。そういう外見で判断して「科学というレッテルを信仰」しないようにしたい。

釈迦の仏教は「法則性で世界を見る」という科学的世界観と近似する視点を持っている。